先日、「よりみち練習法」という記事で、
人間の「忘れる」という機能によって「創造的学習」が生まれる
と書いたら、「もっと詳しく」というリクエストをいただきましたので(^^)…
←自分にフィットする練習法
まぁしかし言語化難しいんだよね。ほら、記憶の仕方とか、すごく人によって違うから、ぜんぜん何いってるかわからんと思う人もいるかもしれないんだけど、とりあえず私の場合ということで。
話を単純にするためにまず大学受験勉強の中の「英文法」についてですが、「薄い問題集を繰り返しやるとよい」って勧められたことないですか? あれは、ひとつの真実なんですが、でもたぶん合う人と合わない人がいるんです。私は合う人です。
合わない人はどういう人かというと、記憶力のいい人。例えば、ある問題で括弧の中に入る前置詞としては「with」が答えだったとしますね。何度も同じ問題集やったりすると、このページのここいらへんにあるこの問題、答えはwithみたいにわかっちゃってて、練習にならなくなっちゃう。しかし私の鋭い忘却力(推理小説を再度読んでも最後まで犯人がわからないレベル)を持ってすれば、そんな「危険」はないんです。
具体的な問題や答えは記憶にない。少なくとも、意識的にはない。もちろん自分の中にまったく何も残っていないとすれば、初めてこの問題集を解く自分と同じなので、そりゃー何度繰り返しても賽の河原になっちゃうけども、「こういう感じの問題」のときは「こう考えて」withだよねというのがなんとなく残っていて、そうそう答え合ってる、ってことになればそれは「覚えた」というより「わかった」。具体的な事柄を忘れるときになんとなく残っているものが、一段抽象化された知識のようなものであり、それはつまり「理解」といってもいいし、そのふわっとした「理解」を再度確認できたら「納得」といってもいい。
そういう、記憶が薄れるときに残るエッセンスのようなもの…
何度も同じ問題集を繰り返して、自分なりの抽象化された知識が整ってきたときは、もちろんその問題集にある問題の答えもわかるし、その類の問題をかなり広く、応用を利かしつつカバーすることができるようになっているわけです。
(ちなみに、英語学習には役立つ「鋭い忘却力」ですが、社会科は得意になりにくいです)
ある曲を「しっかり」「ねっちり」練習しているときは、たとえば「ここの指使いはこれのほうがいいね」とか「ここはよくハズすから気を付けよう」とか、手をどういう軌跡で動かすとか、まぁいろいろあるけど具体的なことを考えていることが多いと思います。もちろんそれは必要なことなんですけれども、その具体的な注意事項を数珠つなぎにつないでいけば音楽になるかというとそれはちょっと違うかもしれない。
しばらくして、そういう細かくて具体的なことがちょっとぼやけて、でもまったくなくなったわけでもなくて、意識のうえで残っているものは「音」というか耳での感覚のほうが勝っていたりする気がします。こういう音が(響きが)流れるはずだという…そしてなんとなくそっちに合わせて弾く。合わせて弾くなんてことができるのは、前に細かい具体的なことをインプットしておいたおかげだと思いますが、ともかくそれらがふんわりと自然な形で繋がってくれて、結果としてこういうフレーズに聞こえるように弾く、ということがあらかたできる。
ちょっと、「ふんわりぼんやり」じゃダメな細かいことがあるかもしれません。そしたらそこはしっかり確認し直せばいいんです。そしてまたそれを、具体的には、忘れてしまったときに、全体の音楽の中にそれがうまいことハマっているんじゃないかと思います。
(上記は少し誇張して単純化して書いてます。そうとばかりうまくいくわけじゃないですが)
何回弾いても工夫しても通らないところがあって、ムキーーとするときに、一晩寝ると「するっ」といったことはありませんか。あれは、寝ている間に小人さんがうまいこと整理して、いらんゴミは捨てておいてくれたんですよ。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
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人間の「忘れる」という機能によって「創造的学習」が生まれる
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まぁしかし言語化難しいんだよね。ほら、記憶の仕方とか、すごく人によって違うから、ぜんぜん何いってるかわからんと思う人もいるかもしれないんだけど、とりあえず私の場合ということで。
話を単純にするためにまず大学受験勉強の中の「英文法」についてですが、「薄い問題集を繰り返しやるとよい」って勧められたことないですか? あれは、ひとつの真実なんですが、でもたぶん合う人と合わない人がいるんです。私は合う人です。
合わない人はどういう人かというと、記憶力のいい人。例えば、ある問題で括弧の中に入る前置詞としては「with」が答えだったとしますね。何度も同じ問題集やったりすると、このページのここいらへんにあるこの問題、答えはwithみたいにわかっちゃってて、練習にならなくなっちゃう。しかし私の鋭い忘却力(推理小説を再度読んでも最後まで犯人がわからないレベル)を持ってすれば、そんな「危険」はないんです。
具体的な問題や答えは記憶にない。少なくとも、意識的にはない。もちろん自分の中にまったく何も残っていないとすれば、初めてこの問題集を解く自分と同じなので、そりゃー何度繰り返しても賽の河原になっちゃうけども、「こういう感じの問題」のときは「こう考えて」withだよねというのがなんとなく残っていて、そうそう答え合ってる、ってことになればそれは「覚えた」というより「わかった」。具体的な事柄を忘れるときになんとなく残っているものが、一段抽象化された知識のようなものであり、それはつまり「理解」といってもいいし、そのふわっとした「理解」を再度確認できたら「納得」といってもいい。
そういう、記憶が薄れるときに残るエッセンスのようなもの…
何度も同じ問題集を繰り返して、自分なりの抽象化された知識が整ってきたときは、もちろんその問題集にある問題の答えもわかるし、その類の問題をかなり広く、応用を利かしつつカバーすることができるようになっているわけです。
(ちなみに、英語学習には役立つ「鋭い忘却力」ですが、社会科は得意になりにくいです)
ある曲を「しっかり」「ねっちり」練習しているときは、たとえば「ここの指使いはこれのほうがいいね」とか「ここはよくハズすから気を付けよう」とか、手をどういう軌跡で動かすとか、まぁいろいろあるけど具体的なことを考えていることが多いと思います。もちろんそれは必要なことなんですけれども、その具体的な注意事項を数珠つなぎにつないでいけば音楽になるかというとそれはちょっと違うかもしれない。
しばらくして、そういう細かくて具体的なことがちょっとぼやけて、でもまったくなくなったわけでもなくて、意識のうえで残っているものは「音」というか耳での感覚のほうが勝っていたりする気がします。こういう音が(響きが)流れるはずだという…そしてなんとなくそっちに合わせて弾く。合わせて弾くなんてことができるのは、前に細かい具体的なことをインプットしておいたおかげだと思いますが、ともかくそれらがふんわりと自然な形で繋がってくれて、結果としてこういうフレーズに聞こえるように弾く、ということがあらかたできる。
ちょっと、「ふんわりぼんやり」じゃダメな細かいことがあるかもしれません。そしたらそこはしっかり確認し直せばいいんです。そしてまたそれを、具体的には、忘れてしまったときに、全体の音楽の中にそれがうまいことハマっているんじゃないかと思います。
(上記は少し誇張して単純化して書いてます。そうとばかりうまくいくわけじゃないですが)
何回弾いても工夫しても通らないところがあって、ムキーーとするときに、一晩寝ると「するっ」といったことはありませんか。あれは、寝ている間に小人さんがうまいこと整理して、いらんゴミは捨てておいてくれたんですよ。
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