都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

築地市場探索1

2006-08-05 | 中央区  

 築地界隈散策の後、築地市場へ赴く。Photo 2006.7.23

木造3階建て銅板貼り看板建築とマンサード家屋
所在地:中央区築地5-21

 築地の場外市場は、平日午前はごった返しているが、休日の夕方はやはり静か。ただ、最近は一般向けの寿司屋が多くなり、こちらは結構賑わっている。大きな寿司屋自体は昔から晴海通り沿いに何軒もあったが、お店が増えて競争も激しくなってきているのかもしれない。数年前までは寿司屋の呼び込みが街頭に立っていることなどは無かった気がする。築地=新鮮な魚=旨い寿司、という連想から客が増え、テレビでも取り上げられるようになって、築地も次第にプロだけの街ではなくなっている。

圓正寺(本堂の右側、道路沿いが卸業者の店舗になっている。)
所在地:中央区築地5-12

 ところで、場外市場地区の中には、築地本願寺の子院が何軒かあり、卸業者の店舗の間に異世界が紛れ込んでいるような状態になっている。この混在状況は築地市場と築地本願寺の歴史的経緯が深く関わっている。

 築地本願寺は、西本願寺の別院として1617年に浅草に建立された。しかし明暦の大火(1657)により焼失。現地での再建は認められず、幕府の指示で八丁堀の南側の海を埋め立て、現在の場所に移転した。言うまでもないことかもしれないが、築地の地名は埋め立てによって土地を築くことからきている。このようにして1679年に本堂が完成。このときの本堂は、正面が西南(現在の築地場外市場)を向いて建てられ、市場のあたりは門前町となっていた。現在の場外市場の場所には子院が軒を連ね、門前には多くの門徒が住み、賑わっていたという。ところが関東大震災により本殿は崩壊、子院の多くも被災した。現在の本堂は、伊東忠太設計で1934年に完成したが、このとき寺院の正面は時計回りに90度回転して、銀座の方を向くことになった。

 一方、築地市場は、関東大震災(1923.9)で江戸期以来の日本橋魚河岸等の市場が被害を受け使用できなくなったため、海軍省の所有地を借り受けて、東京市設魚市場を開設したのが始まりで、1935年に現在の場所に、東京市中央卸売市場が開設されたという。

 (築地本願寺と築地市場の歴史については、築地本願寺のHPと、Wikipediaの築地本願寺築地市場の項を参考にしました。)

 さて、築地本願寺の本堂は現地で再建されたが、現在の築地3、4丁目にあたる地区にあった子院の多くは、震災後、築地を離れて郊外へ移転していった。

 江戸期には城の拡張その他の理由で寺院の移転があったことが知られているが、実は近代以降も東京の寺院は都市計画の影響などから結構移転している。大半は都心から山手線の外側の23区内への移転で、その時期は、明治の市区改正、大正の関東大震災後の震災復興、戦後の戦災復興、という三度の東京の都市計画の時期のいずれかに大半が該当する。

 移転の理由は様々だが、これも、地震による倒壊、火災、都市計画道路などにあたったためであることがほとんどである。そして、移転先として東京西郊がしばしば選ばれたのは、低湿地よりも堅固な地盤で安全、かつ高燥な山の手で再建したいという考えや、当時、急速に東京の市街地が拡大していたため、郊外で新規の檀家を獲得しようという思惑があったと言われている。

 築地本願寺には、築地本願寺地中五十八ヶ寺として58の子院が軒を連ねていたそうなのだが、現在も築地に残るのは5寺のみ(築地本願寺を除く)。

 「近代以降における東京の寺院集積地区に関する研究」千葉一輝(早稲田大学博士論文)によれば、震災復興期に少なくとも36寺が、東京郊外に移転したことが明らかになっている(下記)。また1993年に法光寺が築地4丁目から越谷市に移転した。この他の16寺は東京都以外への移転、もしくは廃寺、もしくは不明などである。

 震災復興期の寺院移転は、世田谷区の北烏山など、寺町(寺院集積地区)などと呼ばれる場所への集団移転が一つの特徴である。築地本願寺門前の寺院群の移転先の内訳は以下のとおり。

杉並区永福 5寺
世田谷区北烏山 5寺
世田谷区松原 5寺
大田区萩中 7寺
大田区本羽田 3寺
足立区伊興 3寺
調布市西つつじヶ丘 2寺
調布市若葉町 6寺
計 36寺

 現在も築地に残る寺院は以下。

築地3丁目 築地本願寺、善林寺、法重寺
築地4丁目 圓正寺 稱揚寺 妙泉寺

 つまり、関東大震災で被災したため、本願寺末の子院は転出して行ったが、同時期に同じ理由で市場の方は隣接地にやってきた。子院が転出した跡地は、今度は場外市場となり、市場のいわば門前をなしたのである。その際、全ての子院が転出したわけではなかったので、現在のような混在状況が起こった。

 寺院は江戸期から門前と称して、境内の外回りを町人などに貸して営業をしていたのだが、築地に残った子院も境内地の一部を魚河岸の卸業者に貸している。このため卸業者の建物が寺院の軒先に迫る、ハイブリッドな状況も呈している。混在はお寺の建物だけにとどまらない。塀で囲われているので今まで気づかなかったが、あるお店の脇は墓地になっている。海の幸の香り漂う街は、時折お線香の匂いもする街なのだ。

場外市場の中に残る墓地
所在地:中央区築地5-9
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コメント
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