私のHandle Nameは、asabata。時々「asabataって何ですか?」と尋ねられるのだが、実はこれ地名。実家のある静岡市北部地域が麻機(あさばた)と呼ばれることに因んでいる。
もともとは浅畑(あさはた)だったそうなのだが、それが変化して麻機に。明治以降は、安倍郡麻機村という村だったが、昭和9年10月に静岡市に編入された(静岡市は明治22年4月に成立)。麻機という名称は無くなり、村内の北、東、有永、羽高、南などの字(あざ)のみが残された。だから私の実家は静岡市北。
更に2005年4月に静岡市が政令指定都市になったのを機に、葵区、駿河区、清水区の3区がつくられたため、現在は、静岡市葵区北とか、葵区有永などになっている。ただ、もともとは麻機村の北であり、東や南だったため、南などは静岡市の中心部からみると北の方であるにも関わらず、葵区南になっている。ややこしいことに、静岡駅のそばには駿河区南町という町もある。これは合併や編入に伴う混乱とも言えるのだが、賤機(しずはた)村が編入された際には、村の上、下という字のみが残り、静岡市葵区下となり、なぜ下なのかさっぱりわからなくなったという例もある。
地名としては無くなってしまった麻機。だが呼称としては今も生きている。旧麻機村へのバス路線は麻機線で、麻機街道を走り、終点は麻機。地元の小学校は麻機小学校(あさしょー)だし、ちびまるこちゃんでも出てくる巴川(ともえがわ)の上流は麻機川。流域にある麻機遊水池はバードウォッチングのメッカでもある。
市内の人なら、麻機と言えば、静岡市の北のはずれだということをだいたい知っている。中心部に住む、街っ子に言わせると、麻機=田舎、みたいな意味なんだけど。
さて、Googleで「麻機」を検索すると、静岡のこの場所に関する記事しかヒットしない。どうやら麻機というものは、地名としてもその他の名称としてもこの地域名しか存在しないらしい。この全国にここしかないというのが気に入ってHNにした。
そんなわけで、私は麻機にそれなりの愛着を持っているのだが、実は30年ほど前に引っ越して住みついたよそものなので、昔のことはあまり知らない。だがこの30年の間でも麻機はかなりの変化を遂げた。
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賤機山・福成神社付近からの麻機(昭和30年頃?)
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賤機山・福成神社付近からの麻機
Photo 2006.8.21
上の白黒写真は、ある知人からコピーで頂戴したもの。Scanして地名などを加えた。年代はちょっと不明。下は最近、私が撮ったもの。同じように見える場所を探したが、樹木などに遮られて撮れる場所が無かったため、若干構図が異なる。この撮影ポイントのすぐそばまではミカン栽培のための農道が造られており、自動車で上ることが実は可能。
昔と今で大きく異なるのは二点。一つは、田んぼが耕地整理によって碁盤の目のようになり、麻機川も改修されて直線化したこと。上の写真でも、巴川の文字の右のあたりまでは既に護岸改修がされていて、幾何学的にカーブした堤防が見えているが、上流側はまだ自然のままで、川筋は蛇行している。田んぼは微少な高低差に沿って作られていて、様々な形をしており、あぜ道も蛇行していたが、私が住み始めた昭和40年代には、既に耕地整理は終わっていて、直線化した川に沿って長方形の田んぼが並び、真っ直ぐなあぜ道がその中を通る場所になっていた。
二つめは、画面中央の漆山が削られて全くなくなり、そこに県立こども病院(煉瓦色の建物群)と国立病院が建設されたこと。漆山という山があったこと自体、最近まで知らなかったため、この写真を見たときは驚いた。まさか山を一つ削って無くしてしまっていたとは。以前、この近辺に漆山荘という施設があったが、その名の由来が実在の山の名前だったことを知り、今頃になって納得。周辺の田んぼが耕地整理で碁盤の目状になっている中、二つの病院が周辺とは関係なく、不整形な敷地形状や建物配置をしていたので、不思議に思っていたのだが、もともと山だった部分だかららしい。
この他、およそ50年の間の細かい変化は沢山ある。麻機小学校は木造校舎からRCに建て替えられているし、漆山の左後方の田んぼは流通センターとして、野菜その他の市場となった。有永近辺の住宅も増加している。また写真からは判然としないが、最近は山腹のミカン畑が減少し、耕作放棄され竹林化する例も多い。ミカンの価格が下がったこと、跡継ぎがいないことが主な原因らしい。
更に、こども病院の左後方は全て遊水池になっている。戦後、耕地整理をして、堤防を造り川を直線化し、氾濫原をなくして耕作地を増やしたわけだが、1974年(S49)7月7日の七夕豪雨では、この一帯の大半が浸水し、以降も大雨の度に巴川は氾濫を繰り返した。氾濫原を無くしたことで、水の行き場が無くなったため、結局洪水が起こってしまっていたわけで、その後、巴川流域には遊水池が多数作られることになった(巴川流域総合治水事業)。一度田んぼにした場所を、また氾濫原とする事業なわけで、無理して田んぼにしなければ良かったのに的な感じなのだが、まあ仕方がない。でもって、この遊水池が自然の宝庫となり、バードウォッチングなどに訪れる人も増え、結果的にはリクリエーションゾーンに変わった。
お米が余って減反政策も行われ、麻機の田んぼも、近年はかなり減っている。その代わり花卉や野菜の温室栽培が増えた。また、農地の宅地化も進んだ。
数年前に新潟に行ったら、見渡す限り田んぼだった。20年ぐらい前までは麻機もかなり広い範囲が田んぼだったが、今ではそのような場所は無くなってしまった。市街化区域ではないので、急に市街地化することはないはずだが、少しずつ農地や緑が減っているのがちょっと気になる。
静岡の街並み
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