根津の裏通りにあった立派な和風建築も、いつのまにか高級老人ホームとうどん屋さんに建て替えられていた。
茨城県職員東京宿泊所(旧田嶋浅次郎邸)
所在地:文京区根津 2-14
建設年・構造・階数
本館 (写真左奥) 1911(明治44)・木造・2F
玄関棟(写真手前中央)1916(大正5)・木造・2F
蔵 (下の写真) 1910(明治43)・木骨煉瓦造・1F
解体年:2004(平成16)
Photo 1995.1.28
いつ頃無くなったか知らなかったので調べてみたところ、いくつかのサイトに記述があった。最初は個人住宅として建設されたが、その後、料亭になり、戦後は企業や県の施設となったのだそうだ。最近になって、売却されることになり、保存運動などもあったが、最終的に解体・売却されてしまったということが分かった。ただ、下写真の木骨煉瓦蔵だけは、保存された。
KIKI'S TERRITORY > Ibaragi ken kaikan
ニッポン懐景録 > 東京都 文京区根津2丁目(2)
ぼくの近代建築コレクション > 茨城県職員東京宿泊所/根津2丁目
住宅生産振興財団 > 家とまちなみ/No.49
> [まちなみ・まちづくりエッセイ28] 明治のお屋敷を残したい・・・ 茨城県会館(東京・文京区)物語
Photo 2007.2.3
当時の新聞記事によれば、茨城県は、利用率の低迷などを背景に、売却しようとしたらしいのだが、地元の文京区内で反対の声が上がったため、町並みに配慮した土地利用などを条件にコンペ方式で売却したらしい。
文京区や地元、保存団体などから、防災面や景観への配慮、建物の保存活用を求める要望書などが県に提出されていたとのこと。茨城県は売却の条件として、隣接境界には十分なオープンスペースを確保すること、町並みに配慮した土地利用とすることを条件にしたのだそうだ。
関係者ではないのでその後の詳細は存じ上げない。結果的に高級老人ホームができ、その一角にうどん屋さんができた。休日ともなると、お散歩ついでのお客さんが次々にやってくる。木造の本館と玄関棟はなくなり、煉瓦の蔵と庭園の一部が残されたのだという。
茨城県は、既存の建物を最大限保存して活用するという条件は、付けるつもりがなかったのだろうか。そうしたら買い手がつかないと考えたのかもしれない。でも周辺にオープンスペースを十分確保する、という条件では、却って既存建物は壊さざるを得なくなってしまうような気がする。
ところで、妙な言い方かもしれないが、赤字垂れ流しでも気にしないでほったらかしにしてたから、この建物は最近まで存続できたのかもしれない。何かがきっかけで、放ってはおけないと意識され始めた途端に、存続の道が閉ざされた。その意味では、今までの官の体質は、古い建物や変な建物の存続に寄与してきた面があるが、最近はそうならないことが多くなってきた。情報公開が進み、民による監視が広がるのは当然で、官の人々がお金に細かくなるのも仕方がないこと。どちらかというと無駄が多い古い建物の存続にとっては、これは不幸なことかもしれないが、そのような中でも存続できる仕組みを考え出す他ない。なにか巧い方法はないのかしら。
老人ホームとしてだと、確かにもとの建物そのままでは運営できそうにない。でも、うどん屋さんとしてとか、料理屋さんとしての使い方だったら、昔の建物をそのまま使った方がもっと人気が出たんじゃないかなーと、思うのは私だけではないだろう。
もう少し腰を据えて、巧い利用法を考えてから売却に踏み切れば良かったのにと、当時は全く知らなかったくせに、外野から後から文句を言いたくもなる。全ては、終わってしまった後の泣き言で、部外者の遠吠えなんだけど・・・。
2022.8.25追記
戦前期(1934〜39年)の火災保険特殊地図では「高橋武三」邸、また戦後期(1953年)の同地図では「旅館翠月」と記されている。また、かつて蔵は北西側にあったようなので、保存に際しては曳家がされたのかもしれない。
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 文京区 #古い建物 文京区 #住宅系
#和風住宅 #倉庫・蔵 ブログ内タグ一覧