都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

築地市場探索2

2006-08-07 | 中央区  

 場外市場をふらふら歩いて、波除神社にたどり着く。Photo 2006.7.23

波除神社
所在地:中央区築地6-20

 魚の匂いに引き寄せられて近辺をうろつく猫としばらく遊んだあと、ふと思い立って休日の市場内に入る。

東京都中央卸売市場 築地市場
所在地:中央区築地5-2

 市場は基本的にプロの仕事場なので、彼らの仕事時間に観光気分でちょろちょろするのはよろしくない。特に朝方の競りの時間帯は皆さん急いでいるので、写真を撮ろうとしてぼんやり立っていたりすると、確実に怒鳴られる。また場内にはターレットと呼ばれる牽引車が荷を引いて走り回っているので、下手すると薄暗い中でターレットに轢かれてしまいかねない。この場合、アホみたいにぼんやり立ってる方がもちろん悪い。

 自動車での一般の入場は禁止されているが、徒歩で邪魔にならない範囲で見学をすることは認められているようなので、おずおずと入場。日曜の午後なので、ターレットはほとんど走っていなかった。トラックの数も少ない。拍子抜けするほど静かな市場を見て回る。

東京都中央卸売市場 事務所棟

 築地市場の建物は1935年(昭和10年)にできたそうだ。当初は鉄道での搬入があり、汐留方向からの引き込み線を活用すべく、線路に沿ってカーブした大屋根が設けられた。もちろん隅田川から直接荷揚げすることも可能だった。戦後、トラック輸送が主になり、引き込み線は無くなったが、カーブした大屋根の空間には独特の魅力がある。大屋根の西端には事務所建物も残る。塔の付いた建物がちょっとかっこいい。でもよく見ると、頂部の一部が欠損している。もともとは何か飾りが付いていたのだろうか?

東京中央卸売市場 大屋根の下の大通路

 休日の市場は人気がなく静かだ。大屋根の下の仲卸エリアにもほとんど人影がない。ときたま警備員が巡回していたり、片づけなどをしている人がいる程度。ただ、翌朝に向けて、既に遠方から大型の冷蔵トラックやトレーラーが到着していて、冷凍機を動かすためにエンジンを掛けたまま停車している。それでも平日に比べたら遙かに静かな日なのだろう。どこかのんびりした気分が漂う。

都市徘徊blog > 東京中央卸売市場 築地市場  築地市場探索3

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #近代建築  #公共施設 

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占領下の東京

2006-08-06 | 本    
 七月に私の先輩が本を出しました。
図説・占領下の東京 Occupation Forces in Tokyo,1945-52
佐藤洋一著、河出書房新社・ふくろうの本 ¥1,680-

 敗戦後、東京では多くの建物が占領軍によって接収されましたが、この本は接収実態の詳細を、豊富な資料を基に多面的に明らかにしたもの。
執筆に際しては、著者自身がアメリカの国立公文書館に行って、占領軍が撮影した大量の写真資料を複写して持ち帰り、これを分析したそうで、かなりの労作です。あまり他の書籍では見ることができない貴重な写真も多く、お買い得です。一つ一つの写真に的確かつ深いキャプションが付けられており、これだけでもかなり知識や理解が深まります。
 接収された建物のリストや分布図なども充実しており、まちあるき、まち調べの資料としても有効なので、東京の近代建築や、東京の近代都市形成史に興味がある方は是非。
 →関連して、東京人2006年9月号 特集「占領下の東京」pp.38-43にも同氏執筆の記事があります。

 先輩がこういう良い本を出してしまうと、実は私は困ります。というのも、この本の出版をうけて、私の師が「君もどんどん本を書いて出しなさい」と私にハッパをかけるのであります。
 そうは言ってもねー。そういうお話自体がなくちゃ、出版なんてできませんやねぇ。かといって自費出版するお金なんてないもん。やっぱり先輩のように、今まではあまり光が当てられていなかった分野を見つけだし、鋭い視点で分析する力と、本にできるような充実した内容を執筆できる能力を、持たないといかんのだろうなぁと思います。いつになったらそういうことができるようになるんだろうなぁ。逆立ちしても当分無理なのかも。
コメント (2)
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築地市場探索1

2006-08-05 | 中央区  

 築地界隈散策の後、築地市場へ赴く。Photo 2006.7.23

木造3階建て銅板貼り看板建築とマンサード家屋
所在地:中央区築地5-21

 築地の場外市場は、平日午前はごった返しているが、休日の夕方はやはり静か。ただ、最近は一般向けの寿司屋が多くなり、こちらは結構賑わっている。大きな寿司屋自体は昔から晴海通り沿いに何軒もあったが、お店が増えて競争も激しくなってきているのかもしれない。数年前までは寿司屋の呼び込みが街頭に立っていることなどは無かった気がする。築地=新鮮な魚=旨い寿司、という連想から客が増え、テレビでも取り上げられるようになって、築地も次第にプロだけの街ではなくなっている。

圓正寺(本堂の右側、道路沿いが卸業者の店舗になっている。)
所在地:中央区築地5-12

 ところで、場外市場地区の中には、築地本願寺の子院が何軒かあり、卸業者の店舗の間に異世界が紛れ込んでいるような状態になっている。この混在状況は築地市場と築地本願寺の歴史的経緯が深く関わっている。

 築地本願寺は、西本願寺の別院として1617年に浅草に建立された。しかし明暦の大火(1657)により焼失。現地での再建は認められず、幕府の指示で八丁堀の南側の海を埋め立て、現在の場所に移転した。言うまでもないことかもしれないが、築地の地名は埋め立てによって土地を築くことからきている。このようにして1679年に本堂が完成。このときの本堂は、正面が西南(現在の築地場外市場)を向いて建てられ、市場のあたりは門前町となっていた。現在の場外市場の場所には子院が軒を連ね、門前には多くの門徒が住み、賑わっていたという。ところが関東大震災により本殿は崩壊、子院の多くも被災した。現在の本堂は、伊東忠太設計で1934年に完成したが、このとき寺院の正面は時計回りに90度回転して、銀座の方を向くことになった。

 一方、築地市場は、関東大震災(1923.9)で江戸期以来の日本橋魚河岸等の市場が被害を受け使用できなくなったため、海軍省の所有地を借り受けて、東京市設魚市場を開設したのが始まりで、1935年に現在の場所に、東京市中央卸売市場が開設されたという。

 (築地本願寺と築地市場の歴史については、築地本願寺のHPと、Wikipediaの築地本願寺築地市場の項を参考にしました。)

 さて、築地本願寺の本堂は現地で再建されたが、現在の築地3、4丁目にあたる地区にあった子院の多くは、震災後、築地を離れて郊外へ移転していった。

 江戸期には城の拡張その他の理由で寺院の移転があったことが知られているが、実は近代以降も東京の寺院は都市計画の影響などから結構移転している。大半は都心から山手線の外側の23区内への移転で、その時期は、明治の市区改正、大正の関東大震災後の震災復興、戦後の戦災復興、という三度の東京の都市計画の時期のいずれかに大半が該当する。

 移転の理由は様々だが、これも、地震による倒壊、火災、都市計画道路などにあたったためであることがほとんどである。そして、移転先として東京西郊がしばしば選ばれたのは、低湿地よりも堅固な地盤で安全、かつ高燥な山の手で再建したいという考えや、当時、急速に東京の市街地が拡大していたため、郊外で新規の檀家を獲得しようという思惑があったと言われている。

 築地本願寺には、築地本願寺地中五十八ヶ寺として58の子院が軒を連ねていたそうなのだが、現在も築地に残るのは5寺のみ(築地本願寺を除く)。

 「近代以降における東京の寺院集積地区に関する研究」千葉一輝(早稲田大学博士論文)によれば、震災復興期に少なくとも36寺が、東京郊外に移転したことが明らかになっている(下記)。また1993年に法光寺が築地4丁目から越谷市に移転した。この他の16寺は東京都以外への移転、もしくは廃寺、もしくは不明などである。

 震災復興期の寺院移転は、世田谷区の北烏山など、寺町(寺院集積地区)などと呼ばれる場所への集団移転が一つの特徴である。築地本願寺門前の寺院群の移転先の内訳は以下のとおり。

杉並区永福 5寺
世田谷区北烏山 5寺
世田谷区松原 5寺
大田区萩中 7寺
大田区本羽田 3寺
足立区伊興 3寺
調布市西つつじヶ丘 2寺
調布市若葉町 6寺
計 36寺

 現在も築地に残る寺院は以下。

築地3丁目 築地本願寺、善林寺、法重寺
築地4丁目 圓正寺 稱揚寺 妙泉寺

 つまり、関東大震災で被災したため、本願寺末の子院は転出して行ったが、同時期に同じ理由で市場の方は隣接地にやってきた。子院が転出した跡地は、今度は場外市場となり、市場のいわば門前をなしたのである。その際、全ての子院が転出したわけではなかったので、現在のような混在状況が起こった。

 寺院は江戸期から門前と称して、境内の外回りを町人などに貸して営業をしていたのだが、築地に残った子院も境内地の一部を魚河岸の卸業者に貸している。このため卸業者の建物が寺院の軒先に迫る、ハイブリッドな状況も呈している。混在はお寺の建物だけにとどまらない。塀で囲われているので今まで気づかなかったが、あるお店の脇は墓地になっている。海の幸の香り漂う街は、時折お線香の匂いもする街なのだ。

場外市場の中に残る墓地
所在地:中央区築地5-9
#古い建物 中央区  #街並み 中央区  #寺院  #看板建築 
#銅板張り看板建築  #ギャンブレル屋根 
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築地散策

2006-08-03 | 中央区  

 日曜の午後になって築地界隈へ出向く。休日の築地は眠っているかのように静かだった。
Photo 2006.7.23

 築地本願寺の裏手にあたる、築地6・7丁目には戦災に遭わなかった一角があり、銅板貼りの看板建築や木造三階建てマンサード屋根の建物が結構残っている。一説によると、米軍が戦後の接収を見越して、聖路加病院周辺を空襲しなかったんだとか。

 以前は気づかなかったのだが、小さな路地空間もあちこちに結構残っている。

 湿った梅雨空の下、路地を歩く。植木鉢の草花の緑が瑞々しい。

中央区築地6-11

 看板建築、木造建物の多くでは、窓に簾が掛けられ涼を誘っていた。さほど暑い日ではなかったが、湿度が高く、窓を開け放っている家は半数ほどで、ガラス窓を閉ざしてエアコンをかけている家が多い。ヒートアイランド化の影響か、最近は夜になっても蒸し暑い日が多いので、開放的な木造建物でも、昔ながらの涼のとり方では済まなくなっているのかもしれない。

中央区築地6-6

 震災後80年、戦災後60年が経ち、住んでいる人も代替わりして、住人の職業の傾向も変わり、生活スタイルも大きく変化した。昔ながらのお店は続かなくなり、看板建築系の店舗も軒並み廃業寸前である。路地裏の木造長屋では、完全に戸を閉ざし、無人となっているところも散見される。今、残っている建物も、代替わりと共に、残念ながら早晩建て替えられてマンションなどになる運命なのかもしれない。

中央区築地7-13

P.S.
 発売されたばかりの、「東京人」2006年9月号pp.22-25に、日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長)のお話として、「米軍は「聖路加は爆撃しない」というビラを撒いていました。」という記事(文:森まゆみ)がありました。築地あたりが燃えなかったのは、やはり聖路加国際病院を爆撃しなかったのと関係があるようです。

#古い建物 中央区  #街並み 中央区  #路地
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九段下ビル

2006-08-02 | 千代田区 

 地下鉄九段下駅から地上へ出て、神保町方面へ向かって歩く。Photo 2006.7.09

所在地:千代田区神田神保町 3-4
建設年:1927(昭和2)
構造・階数:RC3

 首都高の下を流れる日本橋川に架かる俎橋を渡ると、靖国通り沿いに建つ九段下ビルが現れる。

 新しいカメラを買ったので、さてどうしようかと思いながら歩いていたら、九段下ビルにネットが掛かっていた。帰宅後、手もとにある写真をひっくり返してみてみると、昨年あたりから既に部分的にネットが掛かっているようなのだが、次第にその割合が増えていて、九段下寄りの角などは、一階部分もフェンスで囲われてしまっている。建物の裏側もいつのまにか空き地が増えていた。

九段下ビル 裏側の空地から

 しかし、裏側から見てみると、かなり増築されていることが解る。それも、ビル全体としてでなく、個別に勝手に、という状態。ビルとは名乗っているがどうもアパートのようでもある。

 一階の喫茶店などはまだ営業しているし、上の階にも若干オフィスが入っているのだが、この古めかしい雑居オフィスビルにも、ひたひたと寿命というものが忍び寄っているのかもしれない。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #オフィス  #震災復興 
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