朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらい水 (千代女)
いま都会では釣瓶のある井戸などない。釣瓶どころか、朝顔さえみつけがたい。もらい
水などの習慣など、遠い昔になくなってしまった。でも、なんとなく、この句は体験もない
のに僕の心の中の原風景として残っている。不思議だ。
早や八月である。八月というと、僕らの世代は戦中から敗戦直後のあの時代を想い出す。
あの時代、焼け残った東京の街でも困ったことの一つは、銭湯が燃料不足から毎日開店
していなかったことだ。今と違って内風呂のある家が少なく、ほとんどの家庭は、お風呂
屋さんのお世話になっていた。僕の家も近所の銭湯がいつも休みなので、困って父親と
一緒に電車に乗り神奈川県の銭湯まで行ったことがある。
そんな中で嬉しかったのは、隣家から時々”残り湯だが、よろしかったら”ともらい湯の声
がかかったことだ。まだ、東京の区部でも都市ガスなどなかった時代である。燃料にする
薪もなかなか入手出来なかった。煮炊きする薪さえ手に入れるのが困難であった。
隣家の狭い洗い場で、父親の痩せてしまった背中を流したことが昨日のように想い出され
る。昭和20年11月22日の父の日記には体重12貫500(48㌔)と赤字で書いてある。戦前
元気が頃は18貫(68㌔)もあった父である。今は、どこの家庭も家の中に風呂があるが、
大人の親子が互いに背中を流しあうスペースはないし、そんな習慣も薄れてきた。
いま都会では釣瓶のある井戸などない。釣瓶どころか、朝顔さえみつけがたい。もらい
水などの習慣など、遠い昔になくなってしまった。でも、なんとなく、この句は体験もない
のに僕の心の中の原風景として残っている。不思議だ。
早や八月である。八月というと、僕らの世代は戦中から敗戦直後のあの時代を想い出す。
あの時代、焼け残った東京の街でも困ったことの一つは、銭湯が燃料不足から毎日開店
していなかったことだ。今と違って内風呂のある家が少なく、ほとんどの家庭は、お風呂
屋さんのお世話になっていた。僕の家も近所の銭湯がいつも休みなので、困って父親と
一緒に電車に乗り神奈川県の銭湯まで行ったことがある。
そんな中で嬉しかったのは、隣家から時々”残り湯だが、よろしかったら”ともらい湯の声
がかかったことだ。まだ、東京の区部でも都市ガスなどなかった時代である。燃料にする
薪もなかなか入手出来なかった。煮炊きする薪さえ手に入れるのが困難であった。
隣家の狭い洗い場で、父親の痩せてしまった背中を流したことが昨日のように想い出され
る。昭和20年11月22日の父の日記には体重12貫500(48㌔)と赤字で書いてある。戦前
元気が頃は18貫(68㌔)もあった父である。今は、どこの家庭も家の中に風呂があるが、
大人の親子が互いに背中を流しあうスペースはないし、そんな習慣も薄れてきた。