テマングンの「寺子屋」と町の風景
昨年についで今年もテマングンを訪れた。中部ジャワの人口僅か20万人足らずの小さな山間の町。観光資源もあまりないこの町を訪れる日本人は少ない。僕がテマングンに惚れ込んでしまったのは、この町で日本語塾「友好寺小屋」を営む元義勇軍兵士、バンバン.プルノモさん(87)の人柄と、独立戦時この町で活躍した残留元日本兵、チョクロこと池上成人さん(故人)の歴史の掘り起こしにあった。
バンバン.プルノモさんは日本軍が創設した郷土防衛義勇軍(PETA)のテマングン大団長で、戦後駐日大使を務めたバンバン.スゲンさんの実弟である。大の親日家で、10年前ほど前から日本語を独学で学び、自宅で「友好寺子屋」という名の日本語塾を開き若者たちに日本語を教えている。80年代の古い日本製の車には”last Samurai"のラベルを張って走っている。
テマングンはオランダとの独立戦争(1946-48年)時、激戦地であった。バンバン.スゲン将軍の慰霊碑が建つゴデグの丘周辺では住民千人近くが銃殺されている。この独立戦争に残留元日本兵10数名が参加している。鹿児島県出身の池上成人さんも、その一人でバンバン.スゲン将軍からチョクロというインドネシア名を与えられ将軍の参謀役として活躍している。その活躍ぶりについては「帰らなかった日本兵」(奥源三1987年政界往来社)に詳しいが、池上さんは戦闘で手榴弾が爆発、右手首を失っている。池上さんの独立戦争時の戦友、宮崎富夫さんの遺族は今でも市内に住み、雑貨店を経営している。
トマングンには、もう一つ日本軍に関係した記念碑が残っている。戦争末期この町に駐屯していた台湾歩兵第2連隊の磨(みがき)大隊が復員するに当たり「万邦大結」という記念碑を残していった。この記念碑は戦後相当たってから川の中から見つかり、当時の関係者の寄金により今はゴデグの丘の一角にガラス箱に収まって残されているが、訪れる日本人はなく忘れられた存在になっている。寂しいことだ。
バンバン.プルノモさんは日本軍が創設した郷土防衛義勇軍(PETA)のテマングン大団長で、戦後駐日大使を務めたバンバン.スゲンさんの実弟である。大の親日家で、10年前ほど前から日本語を独学で学び、自宅で「友好寺子屋」という名の日本語塾を開き若者たちに日本語を教えている。80年代の古い日本製の車には”last Samurai"のラベルを張って走っている。
テマングンはオランダとの独立戦争(1946-48年)時、激戦地であった。バンバン.スゲン将軍の慰霊碑が建つゴデグの丘周辺では住民千人近くが銃殺されている。この独立戦争に残留元日本兵10数名が参加している。鹿児島県出身の池上成人さんも、その一人でバンバン.スゲン将軍からチョクロというインドネシア名を与えられ将軍の参謀役として活躍している。その活躍ぶりについては「帰らなかった日本兵」(奥源三1987年政界往来社)に詳しいが、池上さんは戦闘で手榴弾が爆発、右手首を失っている。池上さんの独立戦争時の戦友、宮崎富夫さんの遺族は今でも市内に住み、雑貨店を経営している。
トマングンには、もう一つ日本軍に関係した記念碑が残っている。戦争末期この町に駐屯していた台湾歩兵第2連隊の磨(みがき)大隊が復員するに当たり「万邦大結」という記念碑を残していった。この記念碑は戦後相当たってから川の中から見つかり、当時の関係者の寄金により今はゴデグの丘の一角にガラス箱に収まって残されているが、訪れる日本人はなく忘れられた存在になっている。寂しいことだ。