戦争末期、東京の戸越保育所の園児など53人が埼玉県の蓮田市のお寺に集団疎開した実録が今、映画化され話題になっている。先日、この情報を提供してくれた、元都立保育園長の友人から、昨日、再度、新しい資料を頂戴した。一つは、やはり戦争末期、まだ田園地帯であった小平市(現在)が、短期間あったが、幼児集団疎開を受け入れている(「保育の歴史から」玉木直 ケヤキ.ブックレッド)東京都が実施に踏み切ったのが昭和20年6月のため記録が少ないのは残念だ。
もう一つは映画「あの日のオルガン」のパンフだが、幼児たちが保母に引率されて蓮田に向かった前日(19年11月24日)戸越町周辺は白昼、B-29が爆弾を投下しており、都内で200人亡くなっているが、僕の学校の友人の一人も当時あった池上線の桐ケ谷駅近くの防空壕で生き埋めになったが奇跡的に助かった。東京への空襲はこの日を境にエスカレートしていった。
パンフを読んでもう一つ気が付いたのは、戸越保育所は昭和19年4月、「治安維持法」で解散させられている。保育所が何故、治安維持法に抵触したのか。にもかかわらず、当時としては大金の5万円をかけて幼児たちを疎開できたのか。当時、僕の勤労動員の軍需工場から支払われる報奨金(月給)は24円50銭であった。
しかし、5万円とは当時にしたらなかなかな金額ですよね。時勢から考えて募金とも思えません。個人資産でしょうか?とても興味深い話です。
東京区部に対するB29による焼夷弾爆撃は5月で終了、7月8月は内陸部の八王子、甲府などへ艦載機による銃撃に変わり、八王子では学童疎開児童まで狙われています。長野市は8月13日です。学童疎開は最初は19年、高学年(4-6年)でしたが、3月10日以降、低学年にまでになり、ついには幼児まで実施されるようになったのですね。
推測ですが、国策企業、満鉄の御曹司の方です。調べてみたいです。