「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

4月15日の京浜大空襲の日の父の日記帳

2019-04-15 05:21:48 | 2012・1・1

亡父の昭和20年(1945年)の日記帳は縦17センチ、横14センチというB5版を少し小さくした備忘録であった。父はこれを平日は1日半分にして2日分、日曜は1ページを使用していた。仙花紙の粗末なものだが、京浜地方に大空襲のあった4月15日は、日曜日だったので、1ページをフルに使い、14日も13日夜の皇居(一部)や明治神宮本殿が焼けた焼けた、と赤インクで真っ赤に染めて書いている。几帳面な父は毎日の警戒、空襲警報も発令、解除の日時を赤インクで記していた。(写真)

4月15日の空襲は午後9時57分、空襲警報発令、16日午前1時30分解除という長時間にわたるものだった。当時、僕は父母と一緒に東京の自由が丘の近くに住んでいたが、後の記録によると、B-29爆撃機202機が飛来、品川、大森,蒲田、川崎など京浜南西部を中心に空襲している。幸い、わが家は被害にあわなかったが、父は”各所火の海と化す。従来始めて脅威を感ず”と日記に記してある。

この空襲で、僕が勤労動員されていた六郷(蒲田)の軍需工場も焼失した。交通機関がストップしたため、空襲から翌々日の17日、家から8キロほど往復歩いて通勤した。父は日記で、”敢闘精神の発露”とお褒めの言葉を頂戴しているが、僕の記憶では、工場の食堂の焼け跡から、焼け米を探しだすのが目的だった。空襲下の東京を撮影したカメラマンの石川光陽氏の写真集「昭和の東京」(朝日文庫)にも東京荏原の農林省倉庫焼け跡に焼き米拾いに集まる写真があるが、敗戦までの数か月の東京は、僕にとって忘れられない。

 


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2 コメント

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Unknown (chobimame)
2019-04-15 08:47:45
日記を書いていると、何の為になるのかとふと考えてしまいますが、お父様の日記や備忘録を拝見すると、個人の記したものが一番の歴史書だと実感します。
最近、箱根に空集が無かったのは、多くの外国人がいたために、米国が箱根だけは空襲のリストから外したと聞きました。ショックな話でした。
東京などは焼け野原だったのとは、あまりに対照的です。
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御霊代ご安泰 (kakek)
2019-04-15 10:56:03
chobimame 様
明治神宮拝殿焼失の項に「御霊代ご安泰」とありますが、時代を思わせます。ラジオも新聞も役に立たなかった時代です。5月24日の空襲の後も、近くの小学校のや焼け跡へ焼き米を拾いにゆきました。近隣のこういった情報は伝達されたのですね。
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