「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「原発災害その時テレビ局は...」 終りの見えない取材の中で

2014-05-30 05:14:17 | Weblog
45年前開局時に2年ほどお世話になった福島中央テレビ(FCT)のOB会から「原発災害その時テレビ局は...終りの見えない取材の中で」(非売品)が贈られてきた。FCTは原発事故現場から直線にして58キロの郡山市に本社がある、社員100人前後の県域商業テレビ局である。頂戴した冊子は3年前の東日本大震災に遭遇した際、社員一人一人がどのように対応、報道機関としての責任を果たしたかその記録である。

大震災発生当時のFCTの報道スタッフは、デスク3人、記者12人、カメラマン、アナウンーサー全員入れても40人であった。この陣容で大地震、巨大津波、原発事故を一度に取材、全国にオンエアーした。もちろんFCTが加盟しているNNN(日本テレビ系)の応援があったが、岩手県に次ぐ面積を持つ福島県である。大津波が襲った浜通りから会津の山奥までは、ゆうに100キロはある。

FCTは、この一連の取材の中で福島第一原発1号機と3号機の爆発の瞬間を無人カメラに収めている。この映像を撮ったのはFCTだけで日本記者クラブ大賞が贈られている。この映像の放映については、一部に”なぜ音声で住民に避難を呼びかけなかったのか”との批判もあるそうだが、当時の菅直人首相が国民に爆発を公表したのは爆発3時間後であった。

未曾有の混乱の中で社員は、取材のバックアップ体制を維持し、無事に放映するための努力は大変だった。局舎は地震により15日まで断水、仮設トイレの手配から、一方では取材車のガソリンの確保、社員の弁当が入手できず炊き出しまでした。”仕事を選ぶのか、家族を選ぶのか”(冊子の見出し)家族をもつ若い社員の中には、放射能漏れの流言の中で、本当にそう考えた者もあったそうだ。

原発事故後危険区域に指定され全町避難していた楢葉町が、やっと2015年春をめどに帰還できるようになった。朗報であるが、一方ではまだ14万人の県民が避難生活を続けており、汚染廃棄物の最終処分はメドがついていない。FCTの”終りの見えない取材は続くが、45年前、UHFを視聴者に視てもらうために、浜通りの海岸をポンコツの中継車を宣伝車に使って走ったことが想い出され、万感の思いである。



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2 コメント

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統制 (chobimame)
2014-05-30 09:28:55
未曾有の事件があった時は、残念ながら政府は信用なりません。
今まで一度も信用出来なかったので、これからは変わって欲しいと思いますが無理でしょうね。
時に人命より国益が優先になりますから。その例が先の震災です。ただちに健康被害は出ないとの言葉のマジックで、多くの人に被爆をさせました。
新聞記者から聞きましたが、当時は東京も避難するレベルなのに、東京が危険というニュースは戒厳令が引かれて流せなかったそうです。今も東京に関しては、危ないニュースは流せないそうで、原発問題は終息したかに装っています。
緊迫した生の取材は、一部の講演などによってしか見られないです。
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温度差 (kakek)
2014-05-30 18:25:49
chobimame さん
あの時代に書いたブログを読み直してみて、首都圏の停電など、いまだによく理解できないことがありますね。この冊子を見て、やはり現地と首都圏での、震災に対する温度差が大きいのを痛感しました。
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