今回の独り旅の一つの目的はトマングンで「友好寺小屋」を開くバンバン・プルノモさん(86)と会うことだった。僕は小ブログのコメンテーター「ディエン」さんを通じてプルノモさんを紹介された。プルノモさんは大東亜戦争中、日本軍によって創設された郷土防衛義勇軍(PETA)兵士で、インドネシア国軍の参謀総長や戦後駐日大使などを歴任したバンバン・スゲン将軍の末弟でもある。
トマングンはボロブドールなどで知られる古都、ジョクジャカルタから67㌔北の山あいの小さな町だ。プルノモさんの「友好寺小屋」はスマランに通じる国道添いにあった。ここでプルノモさんは20年まえから地元の若者たちに日本語を教えている。自宅を兼ねた「寺小屋」には小さな教室があり、寺小屋の教育方針である"自分のことは自分でやろう”という張り紙が黒板の上に大書されてある。
寺小屋は12月から新学期が始まるそうで、残念ながら授業風景は見られなかったが、僕が滞在中の2日間、朝早くから夜遅くまで、寺小屋で学んだ若い男女の塾生が寺小屋に出入りして、ネーテイブの日本語を話す僕に"コンニチワ ハジメマシテ”と初歩的な会話を試みてきた。そのたびにプルノモさんは、そばに付き添って”手とり足とり”指導している。言葉だけでなく66年前、自分が義勇軍時代、指導された日本の精神を教えているように僕には受け取られた。
プルノモさんの恐らく昭和時代産の古い日本製の自家用車の後窓には、英語で「Last
Samurai」と書かれてある。そういう目で見るからか、プルノモさんの一挙手一投足には、日本では今や忘れられかけてきた武士道のそれを感じさせた。滞在中の一夜、僕は寺小屋の卒業生のやっている屋台のナシ・ゴレン(焼き飯)の店に招かれ、プルノモさんが義勇軍時代、日本の軍人から学んだ「軍歌演習」を共にした。
トマングンはボロブドールなどで知られる古都、ジョクジャカルタから67㌔北の山あいの小さな町だ。プルノモさんの「友好寺小屋」はスマランに通じる国道添いにあった。ここでプルノモさんは20年まえから地元の若者たちに日本語を教えている。自宅を兼ねた「寺小屋」には小さな教室があり、寺小屋の教育方針である"自分のことは自分でやろう”という張り紙が黒板の上に大書されてある。
寺小屋は12月から新学期が始まるそうで、残念ながら授業風景は見られなかったが、僕が滞在中の2日間、朝早くから夜遅くまで、寺小屋で学んだ若い男女の塾生が寺小屋に出入りして、ネーテイブの日本語を話す僕に"コンニチワ ハジメマシテ”と初歩的な会話を試みてきた。そのたびにプルノモさんは、そばに付き添って”手とり足とり”指導している。言葉だけでなく66年前、自分が義勇軍時代、指導された日本の精神を教えているように僕には受け取られた。
プルノモさんの恐らく昭和時代産の古い日本製の自家用車の後窓には、英語で「Last
Samurai」と書かれてある。そういう目で見るからか、プルノモさんの一挙手一投足には、日本では今や忘れられかけてきた武士道のそれを感じさせた。滞在中の一夜、僕は寺小屋の卒業生のやっている屋台のナシ・ゴレン(焼き飯)の店に招かれ、プルノモさんが義勇軍時代、日本の軍人から学んだ「軍歌演習」を共にした。
プルノモ氏は、はっきりと日本の統治がなかったら、インドネシアはまだオランダの植民地だった、と断言しています。300年の植民地統治でインドネシア人は、骨抜きにされ、依存心ばかりになっていた。だから、校則の第一に"自分のことは自分で”をあげています。
最近、若い人たちと接触する機会が少ないのですが、僕らより上の世代とは信頼をもってつきあえるのですが、若い日本人(すべてではないと思いますが)は石原慎太郎氏のいう”我欲”が強すぎて。武士道なんてとても理解できないでしょうね。