毎年3月10日が来ると昭和20年の東京大空襲の夜を想い出す。幸いわが家は当時、目黒川沿いの五反田にあって被害にあわなかったが、下町では10万人の市民が亡くなっている。300機を超すB-29の大群が頭の上に飛来し、無差別に焼夷弾を投下した。風の強い夜だった。僕は家族と一緒に夜通し下町方向に上がった業火を呆然と見ていた。戦前3月10日は「陸軍記念日」であった。日露戦役で帝国陸軍が奉天(瀋陽)を占領した記念日である。当時、巷間では米国がわざわざ、この日を狙って襲来したという説がもっぱらであったが判らない。
日露戦争は明治37年―38年(1904年―5年)で、東京大空襲を起点に数えると、40年前の事であった。しかし、その頃子供であった僕には随分昔のように思われていたが、一方では日露の時代の歌をよく歌った。例えば”轟く砲音(つつおと)飛びゆく弾丸””杉野はいずや杉野はいずこ”の「軍神広瀬中佐」(小学唱歌)は、今でも僕はソラで楽譜なしで歌える。
広瀬中佐は1904年、中国の旅順港第二次閉鎖作戦に従軍し乗っていた「福井丸」を沈没させ、脱出しようとしたさい、部下の杉野兵曹長を見失い、探しているうちに弾丸にあたり戦死した。部下を愛する軍人魂が讃えられ「軍神」と崇められた。戦前まで軍神広瀬と杉野の銅像が東京万世橋の昔あった駅前にあった。
旅順港閉鎖作戦など忘れてしまっていたが、テレビの画面でロシアが、ウクライナのクルミヤ半島の軍港、セバストポリ沖で、ウクライナ海軍艦艇の出入りを妨害すため自国の軍艦を沈めたのを見た。日本帝国海軍の旅順港閉鎖作戦から110年目である。歴史は繰り返すというが、おかしな作戦だ。東京大空襲、陸軍記念日、日露戦争の”三題話”である。
日露戦争は明治37年―38年(1904年―5年)で、東京大空襲を起点に数えると、40年前の事であった。しかし、その頃子供であった僕には随分昔のように思われていたが、一方では日露の時代の歌をよく歌った。例えば”轟く砲音(つつおと)飛びゆく弾丸””杉野はいずや杉野はいずこ”の「軍神広瀬中佐」(小学唱歌)は、今でも僕はソラで楽譜なしで歌える。
広瀬中佐は1904年、中国の旅順港第二次閉鎖作戦に従軍し乗っていた「福井丸」を沈没させ、脱出しようとしたさい、部下の杉野兵曹長を見失い、探しているうちに弾丸にあたり戦死した。部下を愛する軍人魂が讃えられ「軍神」と崇められた。戦前まで軍神広瀬と杉野の銅像が東京万世橋の昔あった駅前にあった。
旅順港閉鎖作戦など忘れてしまっていたが、テレビの画面でロシアが、ウクライナのクルミヤ半島の軍港、セバストポリ沖で、ウクライナ海軍艦艇の出入りを妨害すため自国の軍艦を沈めたのを見た。日本帝国海軍の旅順港閉鎖作戦から110年目である。歴史は繰り返すというが、おかしな作戦だ。東京大空襲、陸軍記念日、日露戦争の”三題話”である。
近年は、戦争に関わる話題は皆無ですが、震災ばかりクローズアップされて、余計に東京大空襲の話は消えました。
戦争に関わる話は、たとえ日清日露にしてもタブーです。
本当に変な国です!
さすがにNHKの「今日は何の日」では、東京大空襲は紹介していました。10万人も犠牲になり、広島、長崎同様残酷な事件です。直接の体験者も少なくなってきましたが、後世に残すべきです。日露戦争でも5万人が亡くなっています。全国の神社には、その忠魂碑が残っていますが、忘れられた来ましたね。