終戦の翌日、昭和20年8月16日の亡父の日記を見たら僅かなスペースの中に”この日鈴木(貫太郎}内閣総辞職、後継内閣総理の大命、東久邇稔彦殿下に下る。異例の事である”とあり、次いで17日には”東久邇内閣成立、未曽有の国難の中での挙国一致内閣”とある。さらに19日の日記には”賢上陛下(天皇陛下)、この日、東久邇首相宮を召され、灯火管制を解き、街を明るくさせる。そして娯楽を復活させ、文書の検閲を廃止せよ、とのお言葉を賜われ、政府は臨時閣議で直ちに実施することに決定”と書かれてあった。
8月19日は、終戦後最初の日曜日だったが、父はこの日の日記には”戦争終了後初の公休日である、外見的にはまだ世相は変化はないが、自分自身には相当変わったものがある。すでに防空頭巾や巻きゲートルは廃止し防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。よく気をつけてみると、街頭人の服装も国防色が次第に減ってきている。困るのは、無智都民のつまらぬデマ流布である”とも記されてある。
敗戦から僅か数日なのに、この変化である。中学3年生で軍需工場へ勤労動員されていた僕は、17日動員解除され、20日から学校が再開されると通知があった。亡父の日記を見ると、僕はこの間、船橋の従兄宅へ海水浴に出かけたり、小学校時代の友達の家へ泊まりがけで出かけたりしている。父も18日の日記には”渋谷のミューヘン(国民酒場)で生ビールを飲む”とある。燈火管制がなくなり、いち早く皆が解放感にしたり始めてきた事が解かる。
8月19日は、終戦後最初の日曜日だったが、父はこの日の日記には”戦争終了後初の公休日である、外見的にはまだ世相は変化はないが、自分自身には相当変わったものがある。すでに防空頭巾や巻きゲートルは廃止し防空態勢から再起建設への第一歩のつもりである。よく気をつけてみると、街頭人の服装も国防色が次第に減ってきている。困るのは、無智都民のつまらぬデマ流布である”とも記されてある。
敗戦から僅か数日なのに、この変化である。中学3年生で軍需工場へ勤労動員されていた僕は、17日動員解除され、20日から学校が再開されると通知があった。亡父の日記を見ると、僕はこの間、船橋の従兄宅へ海水浴に出かけたり、小学校時代の友達の家へ泊まりがけで出かけたりしている。父も18日の日記には”渋谷のミューヘン(国民酒場)で生ビールを飲む”とある。燈火管制がなくなり、いち早く皆が解放感にしたり始めてきた事が解かる。
終戦の天皇陛下による玉音放送までの内閣と陛下周辺の混乱が、描かれているそうですね。
それにしてもお父上様の日記から、庶民の強さがよくわかりますね。
渋谷でビールに海水浴。実にたくましい。
85になる叔母に話を聞きましたら、教員になりたくて女学校に通っていたそうです。
戦中は勉強どころでなく、毎日パラシュートの生地を縫っていたそうです。
終戦を迎え、やっと勉強が出来ると思ったら、墨を持っていといわれ、教育勅語も黒塗り、教室に掲げられていた天皇皇后陛下の写真は降ろされ、マッカーサーとトルーマンの写真に変わっていたそうです。
そんな変わり身の早い教師を見て、今までの教育とはなんだったのかと失望し、教師は出来ないと学校を辞めてしまったそうです。
ご尊母と同世代ですが、”一番長い日”の体験は、それぞれ環境によって異なっていますね、ただ同じなのは空襲がなくなり、燈火管制が亡くなって電灯の下で生活出来るようになったこと。解放感が何よりだったです。しかし、食料難は変わらず、母は負けた次の日から、帯シンでつくった手縫いのリュックを背負って買い出しに出かけています。父の19日の日記には”今日は床屋も湯屋(お風呂屋)も休み”とあります。社会がすべて正常化したとはいえませね。