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戦後インドネシアに残留、独立戦争に参加した台湾出身の宮原永治さん(インドネシア名ウマル.ハルトノ)が亡くなられた。大正9年生まれ93歳だった。宮原さんは大東亜戦争勃発直後の昭和17年3月、クラガン(スラバヤ)上陸作戦に第48師団給水部隊の軍属として参加、以来一時帰国はあったが、72年にわたってインドネシアの地に残留、日本とインドネシアとの間の友好親善に努めてきた。
僕はここ20年來、宮原さんとお付き合いを頂いてきたが、変な言い方だが、日本人以上に日本人で昔の大和魂の持ち主だった。風貌も古武士を思わせるものがあった。僕の第一の想い出は平成12年、ジャカルタの墓地公園(Museum Taman Prassti)で野ざらしのまま放置されていた旧日本軍広安梯隊の慰霊碑再建について、ジャカルタの日本大使館や邦人組織ジャパン.クラブが非協力だったのに対して、率先してインドネシア側と交渉にあたり再建がなった。
戦後、宮原さんは生活が苦しく、日本人残留者があまり好まない日本商社のりアウ州での海草採集にも従事した。その後ジャカルタに移住してからは残留者の福祉組織「福祉友の会」の仕事をボランティアで手伝っていた。いつも決まった色の半そでシャツを制服のように着て、大声で”今の日本の政治はなんだ。若者はなっていない”というのが口癖だった。
僕は台北に林大正さんという旧近衛第二師団の友人がいるが、大正生まれの台湾生まれの方には共通の日本への愛国心がある。宮原さん長い間℃苦労さまでした。安らかにお休みください。合掌 写真は宮原さん
僕はここ20年來、宮原さんとお付き合いを頂いてきたが、変な言い方だが、日本人以上に日本人で昔の大和魂の持ち主だった。風貌も古武士を思わせるものがあった。僕の第一の想い出は平成12年、ジャカルタの墓地公園(Museum Taman Prassti)で野ざらしのまま放置されていた旧日本軍広安梯隊の慰霊碑再建について、ジャカルタの日本大使館や邦人組織ジャパン.クラブが非協力だったのに対して、率先してインドネシア側と交渉にあたり再建がなった。
戦後、宮原さんは生活が苦しく、日本人残留者があまり好まない日本商社のりアウ州での海草採集にも従事した。その後ジャカルタに移住してからは残留者の福祉組織「福祉友の会」の仕事をボランティアで手伝っていた。いつも決まった色の半そでシャツを制服のように着て、大声で”今の日本の政治はなんだ。若者はなっていない”というのが口癖だった。
僕は台北に林大正さんという旧近衛第二師団の友人がいるが、大正生まれの台湾生まれの方には共通の日本への愛国心がある。宮原さん長い間℃苦労さまでした。安らかにお休みください。合掌 写真は宮原さん
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