スマトラ第一の都会。人口はジャカルタ、スラバヤ、バンドンについで4番目、210万人もあるが、日本ではあまり知られていない。僕は1997年、ボランティアで日本語教師をしながら、明治時代からのわが国との関係を調べたが興味深い。メダンはインドネシア語で原っぱを意味するが、明治の中葉までは人口もまばらだったが、オランダが葉タバコ栽培して以来植民地として急速に発展した。
植民地の拡大と共にメダンには世界各地から労務者が集まり、明治後半から大正初期には”カラ行きさん”と呼ばれた日本人娼婦が居住していたという。昭和の初期メダンを旅行した詩人の金子光晴も「マレー蘭印紀行」の中で今では繁華街になっているカンポンキリン(インド人街)のそれらしき宿屋に宿泊している。
大東亜戦争中、メダンには近衛師団の司令部があった。その横の隣地に占領後「紘原神社」が建立された。「絋」は戦争中のスローガン”八紘一宇”からとったもの。”原”はメダン”原っぱ”からとったものだ。この絋原神社の社務所と思われる建物が今でも一部残っており、今は金持ち階級の会員制のクラブに変身している。
メダン郊外のデリ.トアには日本人墓苑があり、戦後のBC級メダ法廷で刑死された田辺盛武第25軍司令官らの慰霊碑があり広い苑内には遠い明治の昔からこの地で亡くなった"から行きさん”の墓石も祀られている。
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