今は”開店休業中”の僕のもう一つのブログに「1000都物語」というのがある。生まれてから80余年、自分が一日でも住んだ町の紹介と想い出を綴ったものだが、確か”1000都”には届かなかった。その海外編の中で、アラブの一国でありながら今、周辺の他のアラブ諸国から肘鉄を食わされいる国、カタールを書いたのを想い出した。
半世紀前の1962年11月、新聞社の中東移動特派員として僕は、アラビア語で「噴出」を意味する、カタールの首都ドーハを訪れている。取材の目的は「アラビアンナイトは生きている」という、当時まだ日本では秘境の地とされていたペルシャ湾湾岸の地を写真で紹介することであった。僕はカメラマンと一緒にイエメンから当時、「休戦海岸」(Trucial States)と呼ばれていたドバイ、シャルジャを取材し、砂漠の中の飛行場であったアブダビ経由、カタールに入った。つ
半世紀前のドバイは超高層建築など一つもなく、入江にそったスーク(市場)には伝統衣裳を着た鷹匠がたむろしていて,僕らの取材心を満足させてくれた。砂嵐が吹くと離着陸できないといわれたアブダビ飛行所には管制塔しか建物はなかった。アブダビで石油が採掘が始まったばかりの頃である。
僕らは新しい期待に胸を躍らせてカタールに入ったが、残念ながらドーハの町は近代化されていた。戦前1935年から西欧資本による「カタール石油会社」が出来て採掘がはじまっていた。その恩慶で町は発展し、「休戦海岸」の”土侯国”ではなかった。僕らは砂漠の中での中古自動車のセリ市場をカメラに収めただけで、早々にドーハを後にした。
湾岸諸国の石油可採年数は限られており、どこの国もポスト石油の国造りに入っている。今回の仲間内の争いも天然ガスの利権争いにからむという説もある。半世紀前、ドバイの小学校では、自前の教科書がなく、カタールの教科書を使用していた。”アラブは一つ”という半世紀前のスローガンも色褪せてしまった。
半世紀前の1962年11月、新聞社の中東移動特派員として僕は、アラビア語で「噴出」を意味する、カタールの首都ドーハを訪れている。取材の目的は「アラビアンナイトは生きている」という、当時まだ日本では秘境の地とされていたペルシャ湾湾岸の地を写真で紹介することであった。僕はカメラマンと一緒にイエメンから当時、「休戦海岸」(Trucial States)と呼ばれていたドバイ、シャルジャを取材し、砂漠の中の飛行場であったアブダビ経由、カタールに入った。つ
半世紀前のドバイは超高層建築など一つもなく、入江にそったスーク(市場)には伝統衣裳を着た鷹匠がたむろしていて,僕らの取材心を満足させてくれた。砂嵐が吹くと離着陸できないといわれたアブダビ飛行所には管制塔しか建物はなかった。アブダビで石油が採掘が始まったばかりの頃である。
僕らは新しい期待に胸を躍らせてカタールに入ったが、残念ながらドーハの町は近代化されていた。戦前1935年から西欧資本による「カタール石油会社」が出来て採掘がはじまっていた。その恩慶で町は発展し、「休戦海岸」の”土侯国”ではなかった。僕らは砂漠の中での中古自動車のセリ市場をカメラに収めただけで、早々にドーハを後にした。
湾岸諸国の石油可採年数は限られており、どこの国もポスト石油の国造りに入っている。今回の仲間内の争いも天然ガスの利権争いにからむという説もある。半世紀前、ドバイの小学校では、自前の教科書がなく、カタールの教科書を使用していた。”アラブは一つ”という半世紀前のスローガンも色褪せてしまった。
この数十年で目覚ましい発展を遂げましたが、昔ながらの文化などは、無くなりつつあるのでしゆょうか。
石油ではなく、次のビジネスを考えねばならない時代のようですが、まだまだアラブの国は遠く、イメージがピンときません。
シリア、イラクなどのアラブの国々から難民がヨーロッパの国ぐにに押し寄せ、これが受けい入れ国の政治問題化しています。この10年に2回、UAEを訪れる機会がありましたが、ドバイには、同じアラブからの難民は、ほとんど見受けませんでした。UAEで働いている外国人はアラブ人はいませんでした。
ドバイは、ポスト石油を目指して、前首長が観光と中継貿易に力をいれたのが成功しました。半世紀前はカタール、バーレーンの後塵を浴びていましたが、逆転しました。やはり国造りは人です。
日本は8割以上ものエネルギーを中東に依存しており、しかも、長距離の海上輸送シー・レーンの防衛も実質米軍依存であり、自主防衛はできない。南支那海での中共軍事拠点化により、近い将来のタンカーの航行も阻止される可能性がでてきた。
カタールのように、日本の液化天然ガスの基地である国が危機に瀕すると、日本も共倒れとなりかねない。
今後、
北米のシェール・ガス、豪州・カナダ・米国からの石炭などを電力原料の主体とすべく、中東からのエネルギー調達量を漸次減少する良い機会だと思う。おりしも、米国トランプ大統領が、パリ条約からの離脱声明を公表した現在、日本は米国の石炭輸入を増やして、高効率の石炭複合火力発電所をどんどん増設して、トランプ大統領に貸し(米国石炭労働者の雇用確保)をつくり、その見返りに、日本国内でのトヨタや発電所などの生産・販売(日本の自動車・電力産業労働者の雇用確保)に関しては文句を言ううなと「いわゆるdeal」をおこなってはどうか?
それでなくても、
民主党時代の菅内閣の最後っ屁であった「太陽光発電の強制の異常高価格買取制度」や、原発停止による天然ガス価格の高騰により、ここ数年、日本の電力代の高騰は一般家計・中小企業を傷みつけ、大企業の国内工場での国際価格競争力を弱くしている。
1950年―70年代にかけて、日本では中東問題の専門家はほとんどいませんでした。56年の第二次中東戦争(スエズ戦争)以後、アラブに興味を持ちアラビア語まで勉強しましたが、当時を変える見ると汗顔です。この地域を理解するにはエネルギ―問題とイスラム理解なのですが、当時は天然ガスはマイナーで、イスラム内の対立(スンニ、シーア派)もあまり理解できていませんでした。
そういう意味でアラビア太郎の山下太郎さんは、あの時代先覚の人でしたが、西欧の石油販売カクテルのの壁は結果的に破れませんでした。半世紀を経て、世界は変わってきました。先を見越したエネルギー政策が必要ですね。
ポスト石油、カタールのような湾岸首長国のかじ取りは難しいですね。
1950年―70年代にかけて、日本では中東問題の専門家はほとんどいませんでした。56年の第二次中東戦争(スエズ戦争)以後、アラブに興味を持ちアラビア語まで勉強しましたが、当時を変える見ると汗顔です。この地域を理解するにはエネルギ―問題とイスラム理解なのですが、当時は天然ガスはマイナーで、イスラム内の対立(スンニ、シーア派)もあまり理解できていませんでした。
そういう意味でアラビア太郎の山下太郎さんは、あの時代先覚の人でしたが、西欧の石油販売カクテルのの壁は結果的に破れませんでした。半世紀を経て、世界は変わってきました。先を見越したエネルギー政策が必要ですね。
ポスト石油、カタールのような湾岸首長国のかじ取りは難しいですね。
米軍や国防省は、ものすごく困っているのではないだろうか?湾岸戦争の危機では、サウジは米軍基地の受け入れを了承したが、フセイン打倒を掲げたイラク戦争では、基地を拒否した。その時に、カタールは米国空軍基地の受け入れを容認した。現在、自称イスラム国への空爆には、このカタールの米軍基地が不可欠である。
また、
自称イスラム国に対する軍事作戦も、米国青年の流血を最小限にするために、いわゆる、off-shore-control空爆が主体であり、
その際に、的確なピンポイント攻撃には、地上での打撃点を指示する協力者が必須である。また、空爆後の地上掃討には、地上軍が必須であるが、おもに、「クルド人」と「イラン革命防衛軍」による連携作戦が最重要である。
イランの経済制裁の緩和に、オバマ大統領が賛同したのは、イラン革命防衛軍が、イラクやシリア地域に展開して、米国のイスラム国への空爆攻撃と呼応連携して、イスラム国への地上戦を展開する裏取引があったと想像される。
サウジによるカタール断交が極度に進めば、カタールでの米空軍の展開に大きな支障がでるはずだし、また、米国が、もしイランの経済制裁強化を再開すれば、トランプ大統領は、イラク・シリア地域での地上戦に、イラン革命防衛隊の戦士の替わりに、今後、米兵を派遣投入する覚悟があるのだろうか?
ブロガーの書かれたように、
ドバイのように、数百年前のヴェネツイアのような商業都市国家という人口規模ならば、シンガポールと同様な手段で、経済的な発展も起こせるかもしれない。
しかし、サウジアラビアのように、大規模の人口をもち、地下埋蔵している原油を販売するだけで、優雅な暮らしをした国民の場合には、イスラム教からの世俗化、或いは、勤労意欲の育成は望めず、今後の未来は暗いのではないだろうか?
とくに、
やがて石油の枯渇による財政破綻に連動して、王族以外の国民に、大きな貧困格差が生まれて、国民の一部は、西欧・米国等へ経済移民や難民として流出し、残留組は、アルカイーダやISISのような過激な政治集団と化して、王族支配集団に対して、テロの頻発する国へと内戦が日常となるような変貌をするのではないだろうか?