「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

              恥の上塗り柳条湖事件

2012-09-19 07:11:42 | Weblog
満州事変の発端となった柳条湖事件から81年目の昨日、中国では全国100都市以上で「反日デモ」で行われた。柳条湖のある瀋陽(旧奉天)の「9.18博物館」付近では、日の丸が焼かれ、北京の大使館や瀋陽の総領事館の窓ガラスが割られたりした。もうこうなるとデモではなく蛮行である。中国人は、この日を「国恥の日」と呼んでいるそうだが、やっていることは、さらなる恥の上塗りである。

柳条湖事件とは昭和6年9月18日、奉天の満鉄線路が爆破されたことに端を発している。一般には日本の関東軍の独断専行、自作自演だとされているが、それに先立ち、興安嶺方面に調査に出かけた参謀、中村震太郎大尉らの惨殺事件が、引き金になっている。中村大尉らの事件は当時「嗚呼中村大尉」という軍歌にもなっている。
              ♯ 国家の保護 国権維持とは 兵の力なり 
                尊き任務負う身には 何の恐るることはなし(2番)

昭和6年生まれの僕は、もちろん柳条湖事件は知らないし、中村大尉の軍歌も歌ったことはない。学校でも教わった記憶はない。当時のことで僕が覚えているのは翌7年の上海事変での爆弾三勇士の活躍である。敵陣地の鉄条網を破壊するため三人の一等兵が爆死した話は、後年これも歌になり東京の芝青松寺の門前には銅像までたった。子供だった僕は竹筒を持って”爆弾三勇士”遊びをした。

柳条湖事件跡には、今「9.18博物館」がたち、当時関東軍の建てた小さな記念碑の横には、それを凌駕する巨石のモニュメントがあるそうだ。80年経っても、中国人は「国恥の日」として記憶している執念に驚くが、一方日本はどうだろう。青松寺にあった爆弾三勇士の銅像は戦後破壊され、今は僅かに残った一体だけが、同寺の墓地に残っている。敗戦という事情があったためだが、日清日露の戦役以来の記念碑類が、わが国ではほとんど消えてしまった。これが今の日本人の近現代史”音痴”に関係しているのでは。

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4 コメント

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執着心 (chobimame)
2012-09-19 16:12:34
中国の歴史で、外国にこんなに大々的に侵攻されたのは初めてなのでしょう。しかも中国より小さな国です。その後は発展途上で敗戦からすごい勢いで立ち上がった日本の後ろをついていくしかなかった。日本を憎めれば、理由は何でも良いのだと思います。だから81年も昔の事を蒸し返しては暴動を繰り返す。いかに民度が低いかわかります。中国が名実共に先進国になりたいなら反日教育や、他国への侵略を止めるべきです。中国にはフェアな思考がないので、経済大国と言われても発展途上のレッテルが剥がれないのです。中国は、文化革命と共に知性も良識も無くしてしまったのだと思います。あるのは野蛮さだけです。最低です。
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 (kakek)
2012-09-19 17:06:31
chobimame さん
ネット時代です。あれだけの狼藉を見れば、国際的な批判も出てきたのでしょう。公安がストを中止させたようですね。しかし”大局からみて”とかいって、日本政府は曖昧にしてはいけません。損害は徹底的に補償させるべきです。そして今後は、今回のことを反省して未来に向かっての互恵戦略を再検討すべきです。恥知らずの国ですから。
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「満州事変の正しい理解のため (日本ミツバチ28号)
2019-11-30 10:26:52
現在、わが国では公教育で小学生のときから、満州事変はわが国の支那に対する侵略であった、と教えられています。それは歴史の真実なのでしょうか。そう言うためには何よりも先ず、満州が支那の領土であることが前提になります。そこで、支那の領域について考えてみます。
東大の和田清博士は『東亜史論叢』(昭和17年)で、「西洋人がChinaというのは、必ず支那本部のことで、それはいつもチベット、モンゴリア、マンチュリア等に対立し、それら全部を包括した意味のChinaなどというものは決してない。・・・西洋人の著述にはChineseといえば必ず漢人のみを指し、それは常にMongols(蒙古人)、Manchus(満州人)、Tibetans(西蔵人)と相並ぶ別種族として扱われている。これはまことに当然なことで西蔵人、蒙古人、満州人等が支那人(漢人)と違うことは、日本人が支那人と違うのと同じであるこ。・・・彼等は歴史的にも支那とは別国であって、人種も言葉も違い、文字や宗教も同一ではなく、風俗習慣や歴史伝統も相違している。だから、これを区別したのは西洋人だけでなくて支那人自身がそうである」と論じています。
確かに、『万里の長城』は支那の北限を示す大城壁であり、支那人自身がその外を異域(外国)として切り捨ててしまったことは、千年来の歴然たる事実です。満州、内蒙古、新疆ウイグル、チベット等の版図が支那に併呑されている現状は、独自の土地、民族、国家に対する不法な「支那の侵略」を証明するものに他なりません。北京政府は、わが国を非難する前に歴史を正視し、自国(支那)の侵略をこそ”反省”すべきでありましょう。

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漢民族の歴史 (kakek)
2019-11-30 15:25:10
日本ミツバチ28号 様
戦中「東洋史」を学んだ世代ですが、ほとんど漢民族の王朝史でした。戦後はどうなのでしょうか。多分周辺民族の歴史には詳しく触れていないのでは。
それに戦後の教育で近現代史をあまり教えないためか
僕らが経験した満州事変以降の歴史も今の人たちはしらないですね。戦前修学旅行のコースになっていた爆弾三勇士の銅像は、今はニ勇士になり、お寺の墓地内になり、公開されていません。
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