「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           57年前の就職難の頃

2011-01-21 06:29:05 | Weblog
今春大学卒業予定者の就職内定率(昨年12月1日現在)が、68・8%と調査を開始した平成8年以降過去最低だという。これまで最低だった昨年より、さらに4・3ポイントも下まわっている。政府は新卒採用の企業に対して奨励金を出すなど支援策を考えているようだが、いったい、どうなっているのだろうか。それほど日本の経済は悪いのか。どこかに企業と職を求める学生の間にミスマッチがあるのではないのだろうか。

古い話で恐縮だが、僕が大学を卒業した昭和28年(1953年)も大変な就職難であった。戦後の学制改革で旧制と新制の大学卒が一度に社会に出た年で、記録にはないが、まさに”大学は出たけれど”で、職につけない仲間があふれていた。とくに僕が卒業した文学部は、職が限られていて、級友の中には遠く北海道の最果ての学校に就職した者もいた。当時、北海道は今と違って、東京からはるか遠い国だった。

半世紀以上昔と今とは事情は違うが、今の方が昔より学校が学生たちの就職に関心があり支援しているようにみえる。また、国や地方自治体もそうだ。僕らの大学には企業からほとんど求人がなく、学生はつてを求めて自分で企業をまわって開拓したものだ。その点、今はテレビなど見ると、地方の中小企業の中には、就活会場にブースを設けて逆に学生を求めている。学生たちの間に中央の有名企業志向が強すぎるのではないだろうか。

半世紀前を振り返ると、僕らも同じような大手志向があった。しかし、果たして大手企業に就職して幸せであったかどうか。友人の中には当時無名の会社に就職したが、高度成長期にその会社が急成長して上場会社になり、経営者になった者もいる。社会に出てからのその人の努力と運である。

             「寒冬」の中の大寒

2011-01-20 07:56:44 | Weblog
今日は一年中で最も寒いとされる大寒である。暦の上では、小寒と立春との間の真ん中に当り、今年は1月20日である。戦前は地方によっては、大寒の日に汲んだ水は容器に入れて納戸に入れて置くと1年中腐らないとか、大寒の日に産れた卵を食べると金運が上がり1年間は小遣い困らないという言い伝えもあるそうだ。東京では、こういった習慣は聞いたことがないが、戦前は今は死語に近かい”寒参り””寒稽古””寒中水泳”と言った言葉がまだ身近にあった。

気象庁の専門用語に「寒冬」という言葉があるそうだ。「暖冬」に対するものだが、過去10年間の統計を取って、12月ー2月の平均気温より寒い冬を「寒冬」と呼ぶのだそうだ。ウイキぺディアによると「寒冬」の年は「偏西風の蛇行や北極振動により寒気が流れこみやし状態の時で豪雪だ」とある。この冬は12月から「大寒」までの気候をみると、まさに「寒冬」である。

気象庁の現存する記録の中で、最も寒かった「寒冬」は昭和19年12月ー20年2月の冬だという。平年(当時)よりも平均4℃低く、北海道では90日以上連続真冬日が続き、長野、富山などでは積雪7mを記録した。この年、東京はB-29の空襲が激化した年で、それでなくとも忘れられない年だが、寒かったことも鮮明に記憶にある。まだ中学2年生だったが、軍需工場に動員され、蒲田の駅から六郷の工場まで、何度か雪中行進をさせられた。

この冬が「暖冬」だか「寒冬」だかの決定は、1991年から2010年までの、この10年間の平均気温によって決まるのだそうだが、最近の地球温暖化で「暖冬」になれてきたせいか、今冬の「寒冬」は老骨にはとても身にこたえる。

      ASEAN・中国の南沙諸島領有権争いに注目

2011-01-19 07:34:41 | Weblog
中国の昆明で25日からASEANと中国との間の外相会議が始まる。主な議題は中国とASEAN諸国間との交通網の整備のようだが、同時にASEAN諸国と中国間で領有権を争っている南シナ海の南沙諸島の問題も議題に上るようである。

ASEANはこれに先立ちインドネシアのロンボク島で非公式外相会談を開いたが、会議後、議長国のマリティ外相は「2002年にASEAN諸国と中国との間に署名された南シナ海・南沙諸島での武力行使禁止や資源共同開発について早急にガイドライン(指針)を作成する必要がある。放置すれば禍根の的になる」と発言、昆明会議で取り上げられることを示唆した。

南沙諸島は南シナ海に浮かぶ100位の島からなっており、小島そのものは価値は名井が、海底には推定埋蔵量200億㌧といわれる大油田があるとされている。このため、その領有権をめぐってベトナム、マレーシア、フィリピンのASEAN諸国と中国それに台湾との間で争いが続いている。

2002年にはASEAN諸国と中国との間で、紛争回避のため前記声明が調印されたが、一向に進展がなく、逆に中国は南沙諸島水域で大々的な軍事演習を展開したり、勝手に島の一つに建物を建てたりして覇権主義的行動に出ている。

南沙諸島は戦前は「新南群島」と言う名前で、わが国の領土であったが、1951年のサンフランシスコ条約で領有権は放棄している。しかし、昨年の尖閣諸島の例もある。他国の固有領土さえ、自分の領土と主張する中国である。わが国にとって昆明会議はまったく無関係ではない。注意深く成行きを見守らなければならない。


       7年で終わった関東大震災復興事業

2011-01-18 08:06:38 | Weblog
阪神・淡路大地震から16年の歳月が流れた。昨日,被災地では犠牲者の鎮魂とさまざまな追悼行事が行われた。地震発生時、僕は遠くマレーシアのホテルに滞在していたが、最初は日本の何処で発生したのかも判らず当惑した。それが昨日のように思い出されるが、もう16年も経過したのだ。

若い時と年をとってからでは、同じ歳月の経過でも感じ方が違う。関東大震災が発生したのは大正12年で、それから16年というと昭和14年に当たるが、僕の記憶では、そのころ東京では、あまり関東大震災のことを口にする市民は少なくなっていたように思う。最近、それが何故だったか考えてみたら、中国大陸での戦火が拡大して、市民はいつまでも過去の追憶にふけっておられなかった。それに震災の復興事業が昭和5年に終止符が打たれていたことも原因していたのかもしれない。

関東大震災では、20万人余の死者・行方不明者を出した未曾有の惨事だったが、当時の政府はいち早く「帝都復興院」を立ち上げ30億円と、当時としては巨額を投じて復興計画を推進した。昭和5年と言えば、震災から僅か7年である。今の東京の中心部のインフラ、とくに道路(内堀通り、昭和道路、靖国道路)は、この復興計画の所産である。

残念ながら復興計画で新生した東京も15年後には、米国のB-29による大空襲で再び灰燼に帰してしまったが、関東大震災後、僅か7年で東京を不死鳥のようによみがえらせた当時の政府の努力に頭が下がる思いだ。

      歴史から抹殺された大東亜戦争緒戦の勝利

2011-01-17 07:14:34 | Weblog
昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争が勃発してから今年で60年が経つ。実際に戦争に参加した世代は、すでに80歳代後半になり、それにつぐ当時”銃後の青少年”と呼ばれた世代でさえ後期高齢者で、大東亜戦争の記憶は年々薄れ、遠くなって来た。そこで戦争勃発60年という節目の年に当り、当時の記録をまとめてみるのも意義あることと思い、僕は自分のもう一つのブログ(1000都物語=検索可能)で,昨年12月から書きはじめてみた

記録としてまちめているうちに、改めて驚いた。昭和18年度検定の文部省国定国語教科書に「敵前上陸」(巻6)「マライを進む」(巻8)「不沈艦の最後」(巻6)という標題で教材として使用されていた。これらの教材は戦後、連合軍の命令によって墨で抹殺された。この結果、戦後は歴史の表面から消えてしまった。

この教科書で学んだ”銃後の青少年”は、昭和7年から9年に生まれた世代だが、以後うまれた日本人は、マレー沖海戦で日本の航空隊が、当時英国が”不沈艦”と豪語していた戦艦「プリンス・オブ・ウエルズ」「レパルス」を撃沈させ,赫赫たる戦果をあげたこともしらない。また真珠湾の攻撃に先立って、マレー半島の西岸にある英国の要塞、コタバルに敵前上陸し、第25軍の三師団が英国軍の激しい抵抗に会いながらもマレー半島を南進、約50日間でシンガポールを占領したこともしらない。

僕の意図は、60年前の戦記を蒸し返して戦争を賛歌することではない。しかし、僅か60年前の出来事を大部分の日本人が知らない事は、果たしてどうなのだろうかという素朴な疑問である。当時「遺骨を抱いて」という軍歌がヒットしたが、おそらく、この歌を歌える日本人は今どのぐらいいるだろうか。5日間のシンガポール攻略戦だけで1500人もの兵士が英霊になった、その戦闘の歌である。


    エルサルバドルの女性臨時大使と有機コーヒー

2011-01-16 09:12:29 | Weblog
昨日スペイン協会の文化の集い「ドンキホーテ」ではからずも駐日エル・サドルバドル大使館の女性臨時大使、マルタ・リディア・セラヤンディア女史の話を聞く機会をえた。「ドンキホーテ」の会を主宰するK氏が”ラテン・アメリカ大使の中で最高の日本語の使い手”と保証するだけあって見事な日本語で、今まで僕にとって”遠い国”だったエル・サルバドルが、にわかに”近い国”に感じられるようになった。

エル・サドルバドルは”中米の日本”と言われるそうだ。何が似ているかというと、国土面積がラテン・アメリカ国家の中で最小の僅か21平方㌔少し、九州の半分ぐらいしかない。それに火山国で地震が多い。さらに国民性が日本人と同じように勤勉である。今年は日本との国交樹立75年だそうだが、日本ではエル・サルバドルと言っても、名前は聞いたことは、あるが的確にどこにあり、どんな国だか知っている日本人は少ない。

1980年から10年余、政府軍と左翼ゲリラとの長い内戦があったため、治安が悪く危険な国と烙印が押されていたため、日本との関係も薄かったが、最近は治安も回復、日本からの国際援助も活発化してきた。それにしたがって両国間の貿易量も増加の傾向にあるそうだ。

エル・サドルバドルが今、対日輸出に力をいれたいのは特産のコーヒーだそうだ。僕ら昨日の会の参加者も帰りにお土産として頂戴し、帰宅して早速飲んだが、香がよく最高の味だ。大使の話だと長い間の内戦が、かえって幸いしてエル・サルバドルのコーヒーは有機無農薬なのだそうだ。今、日本では有機無農薬コーヒーがコーヒー通の間で静かなブームだというが、やがてエル・サドルバドルのコーヒーが手軽に飲める時がくることを期待している。

            小豆粥 母の思い出

2011-01-15 08:12:49 | Weblog
今日1月15日は「小正月」。忘れていたが、今朝珍しく老妻が小豆粥をつくってくれ昔の習慣を想い出した。母親がまだ健在だった昭和40年代初めまではわが家でも毎年この日には小豆粥をつくり祝ったものだったが、僕の北海道への転勤などでいつかやめてしまっていた。

小豆粥というと、どうしても戦前、戦争がまだ激しくなる前の昭和10年代初め、僕の少年時代を想いだす。あの当時は東京の何処の家でも7日の七草粥と15日の小豆粥はつくったものだった。僕は七草粥はあまり好きではなかったが、小豆粥は大好きで、砂糖を何杯も小粥の上にかけて母親から大目玉をくらった。

老妻には怒られるが、今朝の小豆粥は”母親の味”はしなかった。僕の病気を心配して砂糖はほんのちょっぴりだけ。これでは昔、少年時代食べた小豆粥ではない。しかし、老妻は砂糖のかわりに蕗のとうの味噌をそえてくれた。庭の片隅に芽を出したばかりの蕗のとうである。

今年は毎日冬らしい寒い日が続く。テレビをみていると、北国ではいつになく大雪のようである。僕は10年ちかく北海道で暮した体験から北国の冬のきびしさはよくわかる。でも東京ではもう蕗のとうが芽をだしてきた。冬きたりなば春ちかしである。

      大東亜戦争下「西部ニューギニア横断記」の動画

2011-01-14 07:00:26 | Weblog
小ブログ(昨年12月8,9日)で紹介した新穂智(にいほ・さとる)陸軍少佐が残した「西部ニューギニア横断記」がインドネシア文化宮のYou tubeの動画で見られるようになった。「西部ニューギニア横断記」は戦後オランダのホーランディア法廷で刑死された新穂少佐が獄中で弁論資料として旧陸軍省の便箋にしたためた5部からなる貴重な資料である。

この冊子は新穂少佐の刑死後日本人弁護人から少佐のご遺族宛届いたもので、現在横浜におられる新穂夫人が大切に保存されていたが、このほど夫人の内諾が得られ公開されるようになった。

「西部ニューギニア横断記」は昭和18年11月23日から19年6月6日まで、いまだかって日本人が足を踏み入れたことがなかった地を、新穂少佐が神機関(秘密機関)長として、数人の日本人部下とインドネシア軍補を引き連れ宣撫工作をかねて踏査した記録である。新穂少佐は中野学校第一期生であり、長年インドネシアに居住した経歴から内容は精査にわたりイラストまで添えられた兵軍地誌であり、同時に博物誌でもある。

このYou tube(Mayor Satoru Niiho http://grahabudayaindonesia.at webry.info/201101/article_8html)を制作したインドネシア文化宮は1980年以降東京から様々なインドネシア情報を発信している民間機関で、主宰している大川誠一氏は「西入アン探検」(讀賣新聞社刊)など多数のインドネシア関係の著書があり、インドネシアのニュース専門局「Metro TV」の東京支局長でもある。


           谷垣総裁 蕃カラでなくても

2011-01-13 07:03:44 | Weblog
自民党の谷垣禎一総裁が大先輩の中曽根康弘・元総理から”もっと蕃からになれ”とハッパをかけられた、と新聞にで出ていた。「蕃カラ」とは広辞苑によると”風采、言動の粗野なこと。ハイカラをもじって対応させる語”とある。

「蕃カラ」といっても若い世代には、いまひとつピッとこないかもしれないが、僕らの世代には「蕃カラ」というと一つのイメージがすぐ浮かびあがる。それは弊衣破帽、腰に手拭、ホウバの下駄をはいた旧制高校の姿だ。戦前、旧制中学校の生徒だった僕らは、この「蕃カラ」姿にあこがれ、わざわざ学帽に靴墨などを塗って真似したものだ。

失政続きの民主党政権の国民の支持率は下がる一方だが、これに対して自民党の支持率も期待ほど上がってこない。何故なのか。理由に谷垣総裁の指導力のなさを指摘する向きが多い。でも果たしてそうなのだろうか。僕には谷垣総裁の風貌が損しているのではないかと映る。

谷垣総裁の眼鏡姿は、印象としてやさしすぎ、しゃべる言葉も丁寧すぎて迫力がない。こんなところから中曽根元総理から”蕃からになれ”とハッパかけられたのだろう。しかし、政治家は容貌や言動ではない。出来もしない事を約束し、服装ばかりに気を使っていた総理がつい最近いたばかりではないかー。僕の目には谷垣総裁は、これまで日本の政治家にはなかったタイプにみえる。なにも「蕃カラ」になる必要はない。問題は国家百年の計を立て、腰をすえて政治をして貰いたいことだ。




        デーモン・マスクのおかしな相撲発言

2011-01-12 09:29:33 | Weblog
タイガー・マスクの主人公「伊達直人」を名乗る人物が全国の児童養護施設などにランドセルなどを匿名で寄付する行為が流行している。心暖まる行為だが、おかしな社会現象である。僕は「タイガーマスク」を読んだ世代ではないが、「直人」の名前から「菅直人」総理の名前を連想した。思い過ぎかもしれないが、この変な流行は民主党政権の子ども手当に対するあてこすりもあるのではないかー。

タイガー・マスクはよいが、同じマスクでもデーモン(悪魔)の仮面と発言は頂けなかった。先日大相撲二日目のNHKの番組にデーモン閣下がゲスト出演していたが、悪魔のようなおかしな発言をしていた。”夢番組”と称して、来年の番付を予想して、昨年野球賭博で協会を解雇された元大関、琴光喜を”小結”に復活させているのだ。

琴光喜はたしか解雇を不当として相撲協会に対して地位の保全を裁判所に提訴している最中ではなかったのか。デーモン閣下は”野球賭博の責任を琴光喜ひとりに押し付けるのはおかしい”と発言していたが、それは閣下個人の意見である。相撲放送を楽しみにしている一般ファンにとっては迷惑だ。

僕は2007年1月場所にデーモン閣下がNHKの放送に出演した時にも小ブログで”デーモン(悪魔)は神聖な大相撲の土俵に適していない”と批判した。大相撲の歴史を紐解けば日本の神事から出ている。だから今でも”穢れ”を大事にして女性を土俵に上らせないほどだ。いくらおふざけにせよデーモン(悪魔)に相撲の事を語らせるのは、どうかというのが僕の意見であった。

NHKは公共放送であることを忘れてはいけない。古い伝統の国技の大相撲にはいろんなファンがいます。不快なマスクのゲストは登場させないで欲しい。