「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        杖をつきつき80老の海外独り旅(8) 旅を終えて

2012-11-22 06:23:33 | Weblog
中部ジャワの旅にはトータルでインドネシア在住30年というSさんが先達として同行してくれた。言葉の面もさることながら最近のインドネシア事情に詳しいので勉強になった。僕は1966年以来、長期滞在を含めて30回近くは旅しているが、大概は2週間とか3週間の滞在だから、所詮、旅人の目での観察である。今回もシンガポールを含めて8泊9日の短い旅行での印象にすぎない。

インドネシア旅行は昨年についで2回目だが、旅人の目にもこの国がここ数年、着実に経済発展を遂げているように映る。今回は首都ジャカルタを離れた中部ジャワの旅だったが、どこのホテルも現地の人で一杯、ソロ市ではサッカー試合があるとの理由から予約がとれなかった、テマングンでは、折からの結婚シーズンもあって部屋は参加者で埋まっていた。ホテル代は日本円にして3千円位だが、現地の人の収入からみれば大金である。

車でソロからテマングンまで山の中の道を2時間走ったが、標高1,500㍍の小さな町にもモダンなミニスーパーが出現しているのに驚いた。インドネシアには昔から伝統的なToko serba serbi(よろず屋)があったが、ミニスーパーはそれに変るもので、生鮮食料品から日常雑貨まで扱い、燃料のプロパンガスや飲料水の配達までしている。

こんな山の中の小さな町にも韓国の繊維企業が進出してきていた。先達のSさんによると、日本人の半分ぐらいの給料でも韓国の若い人は辺鄙な場所にも働きにやってくるそうだ。かってソロの町にも日本の企業があり、日本食のレストランもあったが、今は撤退しかわって韓国の高級料理店が進出している。昨年の旅でも韓国企業のインドネシア進出に触れたが、日本人にはないエネルギーを今回の旅でも感じた。

ジャカルタ長期滞在の日本人の数が、やっと1万人台に復活、増えているようだが、Sさんによれば日本クラブは依然、大企業中心の組織のようである。日本から中小企業が出かけて商売したくとも、その受け皿がないという苦情もある。大企業の若い駐在員がコンドミニアムに住み、雇い人を使いながら休日にはゴルフ三昧という生活ははもうバブル時代の残滓のように思うがどうだろうか。(写真は標高1500㍍の小さな町のミニスーパー)

             世界遺産のボロブドール仏教遺跡群

2012-11-21 11:26:35 | Weblog

ボロブドール遺跡は8世紀の終わりごろ完成した大乗仏教の遺跡である。長い間ジャングルの中に埋もれていたのだが、1814年英国人のジャワ総督だったラッフルズらによって発見された。埋もれていた原因については近くのムラピ火山の爆発による降灰説が有力である。20世紀になって維持がおろそかにされていたため、崩壊の危機にあったが、ユネスコが中心となって復興された。日本人の観光客はジョクジャから日帰りで帰ってしまうが、1キロほどにあるパオン遺跡はきぼは小さいが、昔が残っていて面白い。

      杖をつきつき80老の海外独り旅(7) ボロブドール

2012-11-21 06:49:00 | Weblog
ユネスコの世界遺産にもなっている仏教遺跡ボロブドールには1966年に初めて訪れて以来、過去7回も出かけているが、今回初めて遺跡のあるボロブドールの町に泊まってゆっくりと見学できた。といっても膝の痛みから肝心の遺跡の上には登れず、車椅子で周囲から眺めたにすぎなかったのだが。やはり旅は若い時でなくては楽しめない。

ボドブールへの観光は普通遺跡から40㌔ほど離れた古都ジョクジャカルタに泊まり、車で日帰りするものだが、今回はマゲランから入り遺跡近くの昔ながらのホテルに一泊した。そのお蔭でボロブドールと一緒に世界遺産に指定されたあるムンドゥット、パオンの両仏教遺跡も見学できた。二つの遺跡はボロブドールに比べれば規模は小さいが、遺跡内には阿弥陀如来像が安置されてあり、近くには恐らく建造当時からあったのだろう。大きな古木がおい茂っていて、変に公園化されたボロブドールよりは有難味がある。

驚いたことには、こんな小さな町にもヤスミさんという日本人女性が現地の人と結婚して絵を描きながら「Limanjawi」(ジャワの象)という変わった名前の画廊を経営していた。画廊は僕の泊まったホテルの近くのカンポン(集落)の古い家を改造したもので、画廊の中にはお二人の描いた絵が所狭しと飾ってあった。僕はご主人ウマールさんの好意に甘えて、ソロまで山道を送ってもらったが、お二人の間の11歳の御嬢さんはインドネシア語はもちろん日本語、ご主人のジャワ語まで解るそうだ。マゲランの杉之内さんといい、こんなジャワの田舎町にも国際化が進んでいた。(写真は修理中のパオン遺跡)

         杖をつきつき80老の海外独り旅(6) マゲラン

2012-11-20 06:50:47 | Weblog
テマングンの「英雄の日」式典に参加した翌日、バンバン.プルノモさんの案内で隣町のマゲランを訪れた。マゲランは戦時中第16軍の中部防衛司令部が置かれていた町で、敗戦直後の住民との間の兵器引き渡しをめぐる紛争で憲兵隊員10人が郊外の茶畑の中で殺され、戦後戦友たちによって慰霊碑が建てられている。僕は前から機会があったら、この慰霊碑に参拝したいと思っていた。

マゲランはオランダ時代から軍都だったらしく、古い兵舎や関連施設が残っている。バンバンさんの案内で、昔日本の憲兵隊本部があった所に行ったが、道を隔てた場所には兵器騒動の犠牲者を記念した銅像が建っていた。その近くには、独立戦争の英雄、スディルマン将軍の終焉の家が博物館となって残っていた。

僕はバンバンさんに憲兵隊員の慰霊碑参拝を申し出ていたのだが、バンバンさんが案内してくれたのは、郊外にある日本人が営む少女養護施設「ぺランギ」(虹)であった。この施設は元三菱自動車のインドネシア駐在員だった杉之内正行さん(73)が定年後、現地の女性と結婚、金融業を営みながら自費で建てた施設である。現在ここには両親を亡くした孤児など16人の少女たちが収容されている。「ぺランギ」の建物はどこかで見た建物だと思ったら戦後ラジオドラマで一世を風靡した鐘の鳴る丘のとんがり帽子の時計台を模したものだという。

鐘の鳴る丘は戦後の混乱の中で戦災孤児たちが元気に健気に生きていく姿を描いたものだが、このドラマ世代である杉之内さんは、インドネシアにお世話になった感謝をこめて、この施設を運営している。中学1年から高校3年までの少女たちは皆、明るく礼儀正しく、僕らにジャワ風に膝まづいで挨拶した。

憲兵隊員の慰霊碑に参拝する機会は逸したが、僕は杉之内さんに男のロマンを感じ、バンバンさんが憲兵隊の慰霊碑ではなくて意識的に「ぺランギ」を案内してくれたのではないかとさえ思った。亡くなられた憲兵隊員の方々も許してくれるのではないだろうか。

     杖をつきつき80老の海外独り旅(5) テマングン(2)

2012-11-19 06:41:19 | Weblog
11月10日はテマングンの市制施行67周年と「英雄の日」の記念日であった。バンバン.プルノモさんは僕らのために招待状と式参加のためのバティック(ジャワ更紗)のシャツを用意してくれていた。式典は早朝7時から市の中心部にある広場で催された。僕らは県知事や県会議長らと一緒にテント張りの下の貴賓席に招かれた。

広い広場には早朝にかかわらず市内の警察、消防、警防団などのほか中高生の代表など、それぞれの制服を着て約千人も集まっていた。式は赤白の国旗掲揚に始まりパンチャシラ(国是五原則)の斉読など延々と続く。炎天下暑さのため、女生徒の中には倒れる者が続出した。しかし式は1時間にわたって厳粛に行われた。僕は戦前子供だった頃、学校で行われた紀元節など四大節の式典を想い起こした。この後式参加者はバスで英雄墓地に移動、さらに独立戦争時テマングン司令官だったバンバン.スゲン将軍の墓地に出向き同じような式典を繰り返した。

この日テマングンの町は祭り一色で学校も休み、子どたちは嬉々として市内各地で行列行進を楽しんでいた。バンバン.プルノモさんは町の名士らしく、行進に出会うと車から降り「ムルデカ」(独立)と子供たちに声をかけた。これに対して子供たちも「ムルデカ」と大きな声で答えていた。

オランダとの激しい戦闘のすえ勝ち取った独立である。この戦闘で犠牲になった英雄たちに対して市民皆がこの日は想いを馳せている感じだ。平和ボケし形骸化してしまったわが国の8月15日の終戦記念日の式典とは違う。終戦記念日の式典も国のために戦い亡くなった犠牲者を祈念する日なのだが、ほとんどの国民がそれを知らない。

     杖をつきつき80老の海外独り旅(4)  テマングン(1)

2012-11-18 07:03:47 | Weblog
昨年についで今年もテマングンを訪れた。中部ジャワの人口僅か20万人足らずの小さな山間の町。観光資源もあまりないこの町を訪れる日本人は少ない。僕がテマングンに惚れ込んでしまったのは、この町で日本語塾「友好寺小屋」を営む元義勇軍兵士、バンバン.プルノモさん(87)の人柄と、独立戦時この町で活躍した残留元日本兵、チョクロこと池上成人さん(故人)の歴史の掘り起こしにあった。

バンバン.プルノモさんは日本軍が創設した郷土防衛義勇軍(PETA)のテマングン大団長で、戦後駐日大使を務めたバンバン.スゲンさんの実弟である。大の親日家で、10年前ほど前から日本語を独学で学び、自宅で「友好寺子屋」という名の日本語塾を開き若者たちに日本語を教えている。80年代の古い日本製の車には”last Samurai"のラベルを張って走っている。

テマングンはオランダとの独立戦争(1946-48年)時、激戦地であった。バンバン.スゲン将軍の慰霊碑が建つゴデグの丘周辺では住民千人近くが銃殺されている。この独立戦争に残留元日本兵10数名が参加している。鹿児島県出身の池上成人さんも、その一人でバンバン.スゲン将軍からチョクロというインドネシア名を与えられ将軍の参謀役として活躍している。その活躍ぶりについては「帰らなかった日本兵」(奥源三1987年政界往来社)に詳しいが、池上さんは戦闘で手榴弾が爆発、右手首を失っている。池上さんの独立戦争時の戦友、宮崎富夫さんの遺族は今でも市内に住み、雑貨店を経営している。

トマングンには、もう一つ日本軍に関係した記念碑が残っている。戦争末期この町に駐屯していた台湾歩兵第2連隊の磨(みがき)大隊が復員するに当たり「万邦大結」という記念碑を残していった。この記念碑は戦後相当たってから川の中から見つかり、当時の関係者の寄金により今はゴデグの丘の一角にガラス箱に収まって残されているが、訪れる日本人はなく忘れられた存在になっている。寂しいことだ。