わがブログのコメンテーター、カラヤン様からメッセージを頂きましたのでご紹介します。
カラヤン様は、さっそくこのひとつ前の私のエントリーで、チェリビダッケやバレンボイムについて調べられたのです。
インド人指揮者メータや、ユダヤ系の指揮者兼ピアニストのバレンボイムは、ドイツとイスラエルを音楽によって友好を、そしてワーグナーを演奏することを説いています。
また、韓国の世界的指揮者、チョン・ミョンフンは、日韓でオーケストラを組み、日韓友好を願っているといいます。
しかし、私は音楽は魔法ではない、それは理想であっても現実ではない、音楽で驕ることなかれ、と思っていました。
カラヤン様はもっと深く、そのことを論じていらっしゃいます。
音楽家は、時々、音楽がすべてのように錯覚することがあり、難しい問題だと私も悩んでいましたが、カラヤン様はハッキリと書いていらっしゃいます。
芸術やスポーツに思想や政治を持ち込んではいけないこと
その分野で有名になっても政治的、思想的は自由はあるがそれを利用しないこと
(あくまで芸術家スポーツ選手としてふるまい、公的な場所では中立を保つこと)
が重要だと思います。
左なら坂本隆一(漢字自信なし)とか福原愛と一緒に五輪でていたアーチェリーのおっさん(名前失念)とか
逆にすぎやまこういちとかバリバリの右ですけどw(保守かな?)
芸術家Aとしての肩書で政治集会にでるのはいいが、発言はA個人として発言で
芸術家Aとしての発言ではないとしてほしいです。
まぁ主催者が客寄せの為に肩書を使うのでしょうが、私個人的は気にくわないです。
「あくまでも個人的な発言で肩書は関係ない」にしてもらいたい。
右でも左でも。
あと、音楽関係者や才能ある人に朝鮮人が多いのは個人的
にはあの感情をむき出しにする民族性がいい意味で音楽家という才能
とあっているからでは分析しています。日本人にはないですしw
あ、K-POPは造られたものをそのまま歌い踊るだけのJPOPや洋楽のパクリなので
芸術性はなく、魅力がないのでマスゴミでゴリ押ししても売れないのでしょうw
クラシックやオペラはある意味完成された、完璧なものでそれをさらに磨いていく
ものですので全く違いますね。
と、素人なりに分析してみましたw
あと、空き缶が許されない売国行為を働いたようです。
菅首相側、北の拉致容疑者親族の周辺団体に6250万円献金
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110702/crm11070208000002-n1.htm
記事が事実ならこいつは外観誘致罪(死刑)にするしかありませんな。
ベッラあとがき
菅の記事は次にアップしておきますのでご覧下さい。
朝鮮人の芸術家は、激しい情熱を身体で表現するようですが、私が思うには、西洋の真似をせず、自分たちの情熱を音楽にかえてそれで成功しているとも思えます。
韓国は炎のような演奏家、ヴァイオリンのチョン・キョンファ、そして世界的指揮者でその弟のチョン・ミョンフン、その他、多くの演奏家を世界に出していますが、これらの演奏家は音楽に「自分」と重ね合わせている、いわば「一人称単数」(私が私が)
というのが聴くに疲れを感じる時があり、音楽を「自己を超えて、三人称複数」の大きさを持つ巨匠のオペラならカップッチッリ、弦楽器だったらスターン、ロストロポーヴィッチ、指揮ならフルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤン、そしてチェリビダッケを聴くと、「私が私が」という<一人称単数>の音楽でなく、大変冷静で客観的、<三人称複数>であると、またそれが普遍的で演奏がいつも新しく感じられる、と思うのです。
オペラなら「ドン・カルロ」、抑制がきいた素晴らしい演奏があります。
前へ出るのでなく、一歩引いたところでより大きく広く世界を感じさせる・・・これこそ日本人演奏家が目指すところと思うのですが、まだこれからですね。
カラヤン様の指摘は鋭く、私もその通りと思います。
政治を語るのはバレンボイムもメータも、音楽万能で考えている一方的で夢想的なところが不安、これに頼ることはできないのです。
平和を祈るのはいいけれども、売名にも通じる「両刃の剣」でもあります。
ロストロポーヴィッチやスターンは我が身を危険極まりないところに置きながら、大声でそれを語ることはなかった・・・。
カラヤン様の指摘は、非常に厳しく、敬虔な立場で論じられていらっしゃいます。
その通りなのです。
話は変わりますが、日本の芸術家は「わび・さび」も知っています。それはカップッチッリも、その他今述べた名演奏家や指揮者もその域に入っているとおもわれるのが、上記の人たちです。
その中に、きらめく天才バレンボイムは入れていません。・・・難しいことです。