このごろ、栄養ドリンクを飲んでいる。
あんな不快で無礼なコメント、これから「コメント承認制」に戻そうかなと思ったりしている。
N(妖怪のHN)は、「自分はコメントしたのに排除した、これではかの国(共産圏か?)と同じではないか」と激しい抗議コメントが来たので、私は見たことも消した覚えもなく、コメントボックスも探したけれどなかった、よければ内容を教えてほしいとリコメした。
Nは、「探して頂いたことを感謝する、排除されたと思って語気が荒くなった」として、「少ししか見ていないのに、批判するとは何事か、映画でも少し見ただけで批評を書く批評家もいるが」と前置きし、あの公演が素晴らしかったと説明。
多分、コメント書いてクリックし忘れだろう、と思うが、謝罪の言葉はない。
いきなり詰問である。
しかし、私はあの演出がホラーのように怖かったこと、私は怖がりであり、昔、ワーグナーのオペラに接した素晴らしい公演とは違う(これは仕方ないが)、たとえばワーグナーの孫、ヴィーラント・ワーグナーが演出した「トリスタン」など、「能」の舞台に魅せられて、オペラのステージは光と影だけで、ほとんど舞台装置がなく、音楽に集中できた見事さなどを語った。
そして私が少女時代に見た「ローエングリン」は大変感動し、美しかったこと、聖杯の騎士パルジファルの息子であるローエングリンは不老不死の身、しかし乙女エルザは人間であり、ローエングリンは名前もどこから来たのかも一切問わないことをエルザに約束させたこと、しかし人間のエルザは「疑い」を持つとそれがますます広がり、私は女性が一方的に、何も問わず、信頼だけ要求されることに同情してしまったこと・・・おおざっぱだけれどそのように書いた。
Nは「美しい」ということをせせら笑い、料理をひと匙食べてマズイと言う、どんなよい食材かも知らずに、などと押しつけがましく書いていた。
私はこの書き方に「それは勘だ」と書いた。
すると「論理的ではない、勘とか持ち出して。このオペラを理解していない、美しいとか・・やはり残念でした」とリコメ。
私が「勘だ」というのは、数多くのオペラを聴いてきたし、その「勘」はかなり自信がある、あなたの書き方が「論理的」だとはとても思えない、時間の無駄だ、と答えた。
感じ方は人生が違うようにひとそれぞれだろう。
また、かつての正統的な素晴らしい演出を見てからそれを言っているのか・・・多分そうではないと思う。
私は素晴らしい正統的なワーグナーの演出を知っているし、ニルソンやホッターという20世紀最高の名歌手のワーグナーを聴いている。それを知らずして、こんな威圧的な物言いは思い上がりもはなはだしい!
ワーグナーを論じるのに、こんな礼儀知らずで、最初から「私のコメントを排除した」と自分の操作ミスを考えもせず、攻撃的に書いてきた時に、「この人とは話はできないだろう」という予感はあった。それは的中した。
私は、オペラでも本でも、ただの話でも、大変な欠陥を自認している。
「怖い場面は気絶するほどダメ」なのだ。
これを説明する時、たまらないほど情けない。
このことも、恥ずかしながら告白している。
ピンクのウサギと思ったが、あれは鼠だったそうだ。そしてオペラの終わりには胎児が出現、これは写真で見て、それでテレビを消したのだ。
自分で本当に情けない・・・。
でも「ローエングリン」になぜこのような演出が必要なのか・・・。
これを100パーセントの人が受け入れたわけではないはずだ。
劇場では聴衆は2つにわかれたとある。
しかし、日本の報道ではそうは書かれていない。(何の意図か・・・)
かつて、バイロイトはヴィーラントの死後は、パトリス・シェローというフランス系の演出家が前衛的ともいえる演出をして、客席は怒号とブラボーにわかれたと当時は報道されていた。
この頃から、演出家の権威が増し、歌手や指揮者よりも演出家の意見が強いともきいていたし、名歌手カップッチッリや、ワーグナーを歌って20世紀最高のソプラノだったニルソンもそう語って憤慨していた。
シミオナートも「まるで実験劇場です、到達点ではない」と否定していた。カラスもそうである。
私は古風な女なのだ。
そして「ローエングリン」のオペラを「美しい」と言ったのは・・・ヴェルディのオペラだったらもっと熱く語っただろう、しかし私はワーグナーを20代から一線を引いていったのである。
それはナチス問題だった。
しかし、それでもワーグナーは素晴らしく、私は歌いたい、いいえ、心から惚れて歌えるか、と長く苦しんだ。
心の底から透明な気持ちになって歌える・・・そういう状況になれない場合は歌えない・・・。
私は私に合うヴェルディに惚れたのだ。
これは個人的なことである。
ただ、悲しいまでも美しい、しかし奈落の底に落ちて行く定めのワーグナーのオペラをやはりどこかで好きなのだ。
もちろん、ロシアオペラの「国家の運命の翻弄される」「ありのままの浮浪者たち」決して立派でない、地を轟かすような「ボリス・ゴドゥノフ」「イーゴリ公」「エフゲニ・オネーギン」なども魅了される。
「美しい」というのは「キレイ」とは同じではない。
私のいう「美しい」という言葉はもっと広いのだ。
ただ、私はロシア語を勉強していない。勉強していない言語では歌ってはならないと思っている。
ところで先日放映された「ローエングリン」の感想を書かれた方の文を転載しておく。
その方にご迷惑になってはいけないので、ブログ名は伏せておく。
<あるブログより転載>
本当に驚きですね。ワーグナーの聖地でもこのような演出が当たり前のようになってしまったのでしょうか。前衛的ではありません。奇抜というかユニークというか、それともお笑い系? 幕間には、演出家(ハンス・ノイエンフェルツ)のメッセージが解説されていましたが、うーん。ついていけないな・・・
理解できません。ネズミのぬいぐるみを着てコーラスしたり、映像でアニメが映されたり。。。まるで、オペラ伴奏付きの映画「ネズミの国」を見ているみたい。白の次は奇抜な黄色い衣装。羽根をむしられた丸裸の哀れな白鳥に思わず噴き出しそう。どうやらネズミにかじられたらしい。
ネズミ達が消えた3幕は安心して見ていられました。ローエングリンの名乗りのところはクラウス・フロリアンの熱唱で感動ものです。しかし、ハリネズミのような衣装と、こてこての化粧で復讐を誓ったオルトルートでずっこけ、極めつけは白鳥が人間の姿に変わり戻ってきたゴットフリート(ブラバント公国の世継ぎ)です。まるでET。ここまでくるとストレスが溜まりますね。
オペラは何度も滅多に見る機会がないので、できれば音楽に専念できるような伝統的な演出で楽しみたいものです。絶えず進化していきたい、メッセージを打ち出していきたい演出家の意図も分かりますが、音楽を邪魔しないでほしいというのが我々一般人の切なる希望なのです。今回のローエングリンを見てしまうと、新国立劇場で上演されたキース・ウォーナー演出の東京リングが何だか保守的な演出に見えてしまう。
Unknown
2011-08-16 01:45:51
同感!!おいらもあの演出にはついていけん。指揮者も歌手も演出について何も言わないところをみると反感をもっているのかな?それにしても、ブーイングが起こらないのが不思議だ。
今思うに、パトリス・シェローの演出なんておとなしいもんですね。
Unknown (通行人)
2011-08-16 04:05:25
>今思うに、パトリス・シェローの演出なんておとなしいもんですね。
そのシェローの演出も当時はボロカスに批判されたんですよ。
シェローリングは演出もブーレーズの軽い音楽作りも大不評で、プレミエの時は警官隊が出てくるほどのバイロイト始まって以来の大騒動になったのです。
それでも演出も毎年手直しされ指揮者の音楽作りも緻密になり、最終年には絶賛されるに至り大成功になりました。
このローエングリンですが僕はブログ主さんとは逆に非常に素晴らしい演出だと思いました(一部やりすぎと思える不愉快な部分もありますが‥いわば確信犯でしょう)。
大体においてノイエンフェルスはコケオドシの酷い演出が多いですが、この演出に関しては細部までよく練られていると思います。
頭から否定せず何度か見直すと納得できる部分もあるんじゃないでしょうか。
ノイエンフェルスの演出
2011-08-16 16:27:37
コメントありがとうございます。確かにブーイングは起こりませんでしたね。
通行人さんのコメントにあるとおり、演出も時代と共に変わっていくのでしょう。
2度と見たくないという拒絶感を抱いているわけではなく、
むしろまた見てもいいかな?という印象です。2回、3回と
見直すうちに今回の演出に対する私の印象も変化して
いくのかもしれません。
・・・この件で不遜なコメントは一切お断りします。N妖怪さんはご遠慮下さい!