フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】
昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。
昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。
食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。
第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。(NHKの番組より)
昨夜、アプリさまがコメントを下さり、父がレイテで戦ったことに思いを馳せていたら、「花うさぎ2」のブログでレイテで戦った長嶺さんの記事があった。
アプリさまがこの長嶺さんを父が知っているかどうかをコメントに書いてお知らせ頂いたのだが、認知症の父は記憶にない。
そこで偶然、「花うさぎ2」のブログを読んだのだった。
その中で上記の記事がクリックで見つかった。
これを読んで私は驚いた。知らなかった・・・。
「昭和19年、12月21日、大本営はついにレイテ島の放棄を決断、・・・船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。」とある。
父はそれから約一年もジャングルに潜んでいたことになる。
父はジャングルに潜み、戦闘を続けていた、2000人はあっというまに・・・などと聴いていた。
その話はまともにきけなかった・・・私の神経では耐えられなかった。
父は昭和20年の終戦を知らず、そのままジャングルに潜み、蛇や蛙を食べて、蛭にかまれたり、親指を弾丸で撃たれ、川で洗ったと言っていた。その傷はボールのように腫れた、と。
父はその2000人のうちのひとりだったのか・・・。
昭和20年、クリスマスに投降、・・・捕虜収容所で通訳をし、米兵からジョッキと大きなスプーンを貰った。
それは米兵の名前が刻みこまれている。ヴィンセント、と書かれていた。
父が内地に帰り、仕事についたのは翌年の6月、昭和21年、М社だときいた。
それは、昨年夏に役所から、父宛に、同じ時に入社した人のことを問い合わせがあったことも、つじつまが合う。年金のことだった。その人は台湾から帰国し、М社に6月に入社、それからアメリカによってМ財閥を解体されるまでの年金積立をしていたかどうか、という問い合わせだった。(今もそれを持っている。電話で父が認知症であり、その方のことを覚えていない、とお答えした。総務省だった)
父が認知症でなかったら、もっといろんなことがわかったと思うと、悲しくなる。
父が尊敬していたのは石原莞爾だった。「優秀な参謀だった」とつい最近まで誉めていたが、今やその名前も消えかかっている。
アプリさま、私にレイテのことでコメント下さってありがとうございました。
父と娘の情報のやり取りはもう期待できなくなっていますが、私は英雄である父を大切に介護し、楽しい日々を過ごせるように心をこめて、世話をします。
尖閣デモの時、父の出陣を祝った寄せ書きの日の丸を持って行きながら・・・迷子になって半泣きだった情けない娘ですが。
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