ロシアでナワリヌイ氏追悼の動き 独立系紙「拷問に苦しんでいた」
ロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が16日に収監先の露北部ヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所で死亡したことを受け、ロシア各地では追悼の動きが広がった。一方で、モスクワ市では司法当局が無許可の集まりに対して警告を発し、拘束される人も出ている。
ロシア独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」は16日、服役中にナワリヌイ氏が置かれていた状況について詳報した。
同紙によると、ナワリヌイ氏は2022年8月以降、「ボタンが外れていた」「すぐに手を後ろに回さなかった」などさまざまな理由で懲罰房に27回入れられ、300日以上を過ごしたという。繰り返し懲罰が科され、必要な医療も与えられなかったとしている。
ロシアでナワリヌイ氏追悼の動き 独立系紙「拷問に苦しんでいた」 (msn.com)
ロシアのサンクトペテルブルグにて「死んだのではなく殺されたのだ」と追悼
ナワリヌイ氏獄中死、重なるノーベル賞・劉暁波氏死亡…政権批判に非情な中露の「異質さ」際立つ
ロシアの反政権運動指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏が収監中に死亡したことを受け、露各地では発表から一夜明けた17日も支持者らによる追悼の献花が続いた。当局は無許可の集会だとして参加者の一部を拘束し、統制を強めている。
強権主義国家のロシアや中国では真っ向からの政権批判への対応は非情だ。日本や米欧諸国の常識とかけ離れた中露両国の「異質さ」が際立っている。
プーチン政権批判の急先鋒(せんぽう)だったアレクセイ・ナワリヌイ氏の獄中死は、中国当局の厳重な監視下で2017年に死去した民主活動家の劉暁波(リウシャオボー)氏に重なる部分がある。
劉氏は、08年に公表された民主化を求める文書「08憲章」の起草で中心的な役割を担ったため当局に拘束された。実刑判決が確定した10年にノーベル平和賞を受賞した。
劉氏、ナワリヌイ氏は弾圧を受けても自国内にとどまり続けた。政権側は拘束後も国内で影響力を持つことを警戒し、締め付けを緩めなかった。劉氏に近かった人権派弁護士は、本紙の取材に対し、ナワリヌイ氏の死に「劉氏の時と似た感覚を持つ」と語った。
政権は、死去した後に世論に与える影響も警戒する。露独立系メディアによると、ナワリヌイ氏の死去を悼み、弾圧犠牲者の慰霊碑に手向けられた花すら当局は即座に撤去した。中国当局も劉氏の死後、追悼行為を取り締まり、インターネット上の情報も統制している。
ナワリヌイ氏獄中死、重なるノーベル賞・劉暁波氏死亡…政権批判に非情な中露の「異質さ」際立つ (msn.com)
ブログ主・・・中露はともに「大国」であり、またもともと異なる民族を戦争によって統一しようとしてきた国である。
中露の民族や過去の国境は今とは大きく異なり、また中国など「方言」でなく「むしろ外国語としての違い」が指摘されている。文字も地方によって異なっていた。
また、ともに「異民族」の力の前に屈した歴史もあり、それは「国防」と言ってもいいほどのもので、日本の国とは大きく異なる。

ここでちょっと横道にそれますが・・・私はロシアのボリショイ歌劇場の「ボリス・ゴドゥノフ」や「イーゴリ公」「ホヴァンシチナ」の舞台衣装を見て、清朝の貴族の礼服と似ている、と思った。もちろん「清朝」は漢民族ではなく、満州の民族であり、歴史的にも「清朝」「金」はよりハッキリしている。
中露とも「多民族国家」である。



ロシア「ボリス・ゴドゥノフ帝」 清朝「乾隆帝」 ・・・服装似ている?
ロシアと清朝(古くは金王朝なども)服装は似たものを感じるが、これは近い地域だったこともある。
「宋」やもっと古い時代の「漢」では漢民族の服装で、奈良・平安の服装に似ている。
・・・もちろんイメージである。
あれ?このお方は・・・プーチン皇帝!! 習近平皇帝!!(ネットから)
ブログのティールーム
本日は往年の名テノール、ダニエーレ・バリオーニが歌うヴェルディ「第一回十字軍のロンバルディア人」のアリアをお聴きください。十字軍と戦うイスラムの皇子(国名は明らかにされていない)がヒーロー。
このオペラでは十字軍の将軍の娘ジゼルダが「十字軍は多くの異教徒を殺害した」と言います。
ここから大騒ぎになります。(ヴェルディはミラノの枢機卿に訴えられる)
Daniele Barioni; "La mia letizia infondere"; I LOMBARDI; Giuseppe Verdi
このオペラの上演に関してこんな成り行きがあった。
>完成直後にミラノの枢機卿がオーストリアの司政官に訴えたため、司政官が警視総監にメレッリ、ソレーラ、ヴェルディの調査を命令し、彼らに出頭を要求したが、ヴェルディは「上演が無理なら作品を破るしかない」と言ったため、ミラノ市民の多くがヴェルディを支持した。警視総監の計らいにより、第1幕の「アヴェ・マリア」を「サルヴェ・マリア」に変更するのみで初演が許された。初演は1843年2月11日、スカラ座にて行われた。(WIKI)