ミラノ・スカラ 2013 開幕 ヴェルディ『ラ・トラヴィアータ』
≪キャスト≫
ヴィオレッタ・ヴァレリー: ディアナ・ダムラウ
フローラ・ベルヴォア: ジュゼッピーナ・ピウンティ
アンニーナ: マーラ・ザンピエーリ
アルフレード・ジェルモン: ピョートル・ベチャワ
ジョルジョ・ジェルモン: ジェリコ・ルチッチ
<指 揮>
ガッティ
<演出と美術>
ドミートリ・チェルニャコフ
☆ 夜中なので自動録画していたが、気になって視聴してしまった。ここはどこか? え?これが天下のスカラ?
御冗談を!! ヴェルディの堂々たるカンタービレはどうした? 長いブレスコントロールを通してクレッシェンドしていく歌の醍醐味は
どこへ行った?
ヒロインのヴィオレッタを歌うのがドイツのディアナ・ダムラウと知って「モーツアルトじゃないんだけど」って心配したけれどその通りになり、また彼女の一生懸命の工夫した演技力はヴェルディの音楽とは違うって思った。ミスキャストだ、彼女はヴェルディ声ではない。
それが天下のスカラで・・・かつてマリア・カラスの圧倒的なヴィオレッタに聴衆はあのスコットやフレーニでさえブーイングしたというのに。
ダムラウは以前、ドリーヴの「カディスの娘」を聴いた、これは歌曲だが、どれほど必死になって歌ったことか・・・作りすぎに疲れてきたほどだ。負けず嫌いのそしてカンの鋭い歌を歌うが、自然ではない。それゆえに今回は心配だった。
またアルフレードを歌うベチャワというテノーレも、スラヴ声というか・・・。ベルカントではない。
バリトンのルチッチが最も拍手が多かったが、ヴェルディバリトンとして全体を支える声ではない。輝けるバリトンではない。
さらに驚いたのは往年のドラマティコ・ダジリタであったマーラ・ザンピエーリ、昔のお客は良く知っていて彼女の名前をカーテンコールで
叫んでいたが、役は女中のアンニーナだった。
もうさすがに往年の声はないが、なんというもったいない・・・。自分を大事にしてもらいたい。
演出にもブーイングがとんだというが、歌を聴かせる演出ではない。
もう書きたくない。
伝統のベルカント唱法はどこに行った?
「ここはどこなの? え?スカラ?」って言ったかつてのN女史の言葉に、もはや「天下の」ではない、シミオナートに言わせれば
「スカラはかつては頂上でした。今は実験劇場に成り下がっています。歌っているんじゃなくて、叫び・がなりなのよ」ということ。
ヴェルディコンクールは歌よりも声の質が「ヴェルディ声」でないとだめという、スカラではそれが常識だったはず。
ヴェルディの音楽のスタイルではない、ヴェルディ声ではない、ベルカントではない・・・。
ダムラウはモーツアルトを歌うには適した声だが。
自動録画も消してしまおう。
今のスカラは伝統と音楽にうるさい一般聴衆のものでなく、観光客のものになり、こんな演奏を聴いてありがたがっているのか。
ムーティがスカラの音楽監督を辞めてからいっそうひどくなってきた。
ついでに「関口宏」というタレントがマリア・カラスとテノーレのディ・ステファノ来日の時のひどい司会の動画を付けておこう。関口の質問がひどいので、誰かがうまく誘導したようだ。まずいインタビューは気性の激しいマリア・カラスは席を蹴って退場すると思ったほど。(カラスが欧米で受けていたインタビューはよくオペラを知った司会者だったし内容もよかったことを確認)
Maria Callas and Giuseppe di Stefano: Interview (Tokyo, Oct. 27, 1974)
ベッラさんのおっしゃるとおり、そもそもヴェルディを歌うにてきした声を劇場でほとんど聴けない。
素材がいないというより、教育の場でそして劇場でゆっくり育てる文化が失われた今、もうヴェルディ歌唱は危機に瀕しているのです。
ディアナ・ダムラウは魔笛はそれはそれは素晴らしかったです。でも、だからといって、「彼女なりのヴィオレッタ」を模索できるわけではないはずです。
声楽とは、オペラとは、クラシック音楽とは、じぶんの書いたシンガーソングを歌うロックポップスとちがい、
伝統を、学び、引き継いで、わたすもの、です。
マネージメント側が若い歌手を神格化するのはしかたない、でも歌手のほうは謙虚で、しっかりしてなくてはいけない。
ナタリー・デセイは椿姫に挑戦する前にスコット女史のもとでベルカントを学びなおしてます。こういう態度は、まだもうすこし昔にはあったということなのでしょうか。
わたしも「アリア」はイアーゴ、ファルスタッフ、シモン、ロドリーゴ、マクベス、と歌ってきましたが、これらは役としては30代ではとても歯が立ちません。
気持ちとしてはイアーゴ役とマクベス役は早く歌いたいです。
来年2本のヴェルディをドイツで参加し、脇役ですが、主要な役をよく勉強しておこうとおもってます、、、。
ダムラウはますますひどくなっています。
モーツアルトなどは最近は演出もひどくなり、歌い手の気品もなくなってきています。
それに影響もされているのでしょうけれど、ダムラウの歌は「根性」だけ。モーツアルトですらこのごろ???でした。必死さを表に出してしまっているのです。
ましてやヴェルディなど、仮にスーブレットの役でも
イタリアオペラはダメですね。
これにブーイングできない聴衆もダメです。
テノーレもひどかった、スラブの軽い役を歌うべき。
バリトンはもう疲労困憊の喉ではありませんか。
声のコントロールも口先だけです。アリアにカバレッタをつけてもテクニックがないし、十分な呼吸ができていない、アリアもしっとりしたものがない。
ザンピエーリは全盛時代はよかったけれど、晩年がこれでは歌手としての生きかたに疑問です。
ガッティの指揮もメリハリに欠ける、ベルカントがわからない指揮者になっている、わかっていたらこんなキャストでは振りません。
イタリアオペラは呼吸法と発声がベルカントの基本、
そしてイタリア語もヴェルディの音楽と一致しない、
作りもので自然ではない、こんなのを聴かされて
ひどいめにあってしまった、まったくヴェルディとは
別物ですよ。
昔の名歌手は小さな劇場から叩き上げてきたものです。そして一にも声、二にも声、でした。
それなしで何があることでしょう。
声だけで演技も音楽の中で書かれているのです。
すべて作曲家の書いたスコアの中にある。
書かれてもいないことをデコレーションされては
もう言葉もなくあっけにとられるだけでした。
「ファルスタッフ」はカップッチッリが言うには、自分自身には合わない、フォードだったら歌う、と言っていました。それもわかるような気がします。
バリトンは声の輝かしさと深い解釈、これがある年齢で
一致する、まさにヴェルディが求めたものですね。
ヴェルディ自身がバリトンの声だったとききました。
ぜひ頑張ってください。
アマートからの伝統を引き継いで下さい。
葉隠ではとにかく武士はにがみとつよみがあるように、鏡を見て利口そうな表情をなおすように、と説いてます。
カップッチッリはそうすると武士であるようです。
だめになったのはおっしゃられるようにヴェルディのみならず、です。
来年は、今年うまく歌えなかったドン・ジョヴァンニ役をいちから歌いなおしたいですが、この役は綺麗に、色気で歌うと、つまり演技でみせても、ぜんぜんだめです。男らしさ、それこそにがみで歌わないとつまり声で歌わないと、ドン・ジョヴァンニが何に「反抗」したのかみえてこない。
聴衆のみなさまはよかったといってくださっても、それは声に対してではないと思うのです。
いずれにしても劇場や事務所が育ててくれないのでじぶんからどんどんオーディションを受けないとそもそも勉強経験をつめません、わたしじしんが現代の歌手学生の悲劇、を生きているのです。
タッデイが存命だったらそう言うでしょう。
ルチッチの声は疲れ果てているだけでなく、支えて歌うという基本ができていない、これでは声の輝きもありません。あの金魚のような呼吸でカバレッタを口先だけで
歌っているのはマイリマシタ。
あれは老いたテノーレの声です。
ましてやヴェルディ声でもない、それがまだマシという
スカラの現状に聴衆の劣化が伺えます。
観光客や招待客、声をわからない聴衆、
スカラの聴衆はただ一声の間違いも許さないもので
それが演奏家を育ててきたのです。
でもヴェルディをヴェルディであるべき声で歌うという
本物を見せつけるしかもう道はないのでしょう。
新聞でもKenさまの評判は良かったように伺っていますが、もっと、と仰るならタッデイのようなモーツアルトをと思います。
私も知らない時代ですが戦後まもなくタッデイとシミオナートが「フィガロの結婚」を歌っていますが、アリアしかyoutubeでありませんが、あのタッデイを聴いて
ベルカントで歌う強みを感じました。
ドン・ジョヴァンニはフィガロより難しいと察しますが、
40を過ぎても遅くはないように思えます。
レポレッロのアリアは好きです。
それよりヴェルディです。「エルナーニ」もいいし「ドン・カルロ」も。これはピッタリですよ。
日本で歌うと声が広がってしまう人が多いのです。
劇場の響きが声をつくるというのもわかります。
ロッシーニの舞台経験はヴェルディのカバレッタを難なく歌えるテクニックに通じることでしょう。
必要なことを経験されてきているので、あとはヴェルディの主役を狙うため、必ずやうまくいくと思います。
あんなバリトン、スカラには不要ですから、レナートなど
とんでもありません。とってかわるくらいでいて下さい。
準備していてこそチャンスはあります。
聴衆以外の何かがスカラをめちゃくちゃにしているのでしょう。