反テロにより広がる民族間の隔たり──帰郷して目の当たりにした現実
2014年5月13日
劉 燕子
1.今、行かなければならない
2014年2月下旬、中国では大気汚染がますますひどくなり、日本のマスメディアも濃いスモッグの映像とともにPM2.5の影響を報道するようになった。
北京市では連日、大気汚染指数が6段階のうち最悪の「深刻な汚染」となっていた。
そのような北京に、私は関西空港から向かった。「今、行かなければならない」という気持ちだった。それは、大気汚染ではなく、謂わば政治の汚染と言える言論統制がさらに強められ、このままでは知人、友人に会えなくなるかもしれないためであった。
3月3日に全国人民政治協商会議(政協)が、5日に全国人民代表大会(全人大)がそれぞれ開会するが(二つ合わせて両会と略)、例年、この時期は政治的に「敏感」な時期とされ、厳重な警備体制が敷かれるとともに、異なる政見を持つ言論人、リベラル知識人、独立アーティストなど、当局が危険視する人物は、法的手続きなしに拘束されたり、24時間監視で自宅に軟禁されたり、「国保(国内安全保衛隊)」に監視されて北京から離れた地に旅行に行かされる(被旅游)。そして、習近平体制になってから圧力は一層強まった。
「今のうちに会っておかなければ、これからどうなるか……」
切ない想いを胸に、私は北京行きのフライトに搭乗した。
スーツケースにはPM2.5を99%カットできるというマスクをいっぱい詰めた。友人や知人に頼まれたからだ。
2.老朋友との再会
北京空港に着き、到着ロビーで出迎えに来たチベット女流詩人ツェリン・オーセルと漢人作家・王力雄ご夫妻と再会した。
万感の想いを込めて抱きしめあった。
オーセルは、幾度申請してもパスポートの発給を拒否されるなど、市民の基本的人権を奪われ、中国を出国することができない。
彼女と会うには、私が中国に来るしかない。私たちは手を握りあったまま、言葉が熱い胸の奥で煮詰まり、焦げそうになった。涙があふれた。
また北京では、良心の自由を守ろうとする作家、詩人、アーティストたちにも出会い、老朋友(旧友)には久闊を叙した。
誰もが異口同音に状況は悪化するばかりだという。そのように語りあっていた3月1日の夜、昆明駅でウイグル人による無差別殺傷事件が起きた(29人が死亡する惨事)。
北京でも警備体制がさらに厳重になった。翌日、地下鉄崇文門駅近くの交差点を通り過ぎると、装甲車両を中心にサブマシンガンを持った武装警察官や特殊警察官が十数人も見張っていた。
ところが、その目の前で大勢が信号無視で道路を横断している。自動車はクラクションを鳴らし続けている。言論や信教の自由は抑える一方で、その他は放任のお構いなしという「無法無天」の状況である。
これでは自分の自由も他者の自由もともに尊重するという、規律ある民主的な社会にふさわしいレベルの自由ではなく、やりたい放題の勝手気ままを自由と思い込むだけである。統制の強化と人心の荒廃の悪循環を垣間見る思いであった。
3.「中国の夢」の表と裏
タクシーの運転手は、ウイグル人、チベット人、陳情者を堂々と乗車拒否(拒戴)できる。
中南海(政府や中国共産党の本部や要人の官邸などがある地区)へ行くのも拒否できる。
「あの事件(2013年10月28日の天安門車両突入炎上事件)」以後、口頭で通達されたという。
また、ペーパーテストが課されて、合格しなければならない(実施後は即座に廃棄で証拠隠滅)。
ある運転手は「おれは火眼金晴(正体を見抜く神通力)を鍛えているから、やつら不法分子なんかすぐ分かる。お前なら乗せてやる」と自慢げに言い放った。
車内ではラジオから「相声(中国式の漫才)」の大きな音が出ているので、「小さくしてくれませんか」と頼むと、いきなり「おれはめちゃくちゃ疲れてるんだ。このくらいの音でなけりゃ居眠り運転して、まちがってあそこ(天安門)に突っ込むぞ」と怒鳴られた。私はあ然として、有害物質に満ちたスモッグを吸い込んでまで、重ねて頼むことはしなかった。
夜なのに道路は渋滞していた。運転手によれば、警察が停車している車両を検問しているという。昼はラッシュでできないので、夜、青信号を短く、赤を長くして検問している。北京以外の車両は「進京証(北京に入る特別許可証)」を持っていても、入れない。
大気汚染で視界不良、過労、検問による渋滞などなど、やり場のない憤懣が鬱積し、喉元にまで沸き上がっているのだろう。
人民大会堂の中で声高に叫ばれ、官製メディアによって報道される「中国の夢」という表層と、強圧的に抑え込まれた深層は違う。
残念ながら、これが中国の現実である。
なお、昆明無差別殺傷事件の同日、山西省晋城市の高速道路のトンネルで事故が起き、タンクローリーの炎上などで三十数名が死亡した。その状況はウェイボー(微博)で発信されたが、直ぐに削除された。
4.王力雄による民族間の「対話」の強靱な努力
かねてから王力雄は新疆ウイグルの「チェチェン化」、「パレスチナ化」について警鐘を鳴らしてきた。
他方、馬戎は民族問題の「脱政治化」として「民族(nation)」という表現を使わずに「エスニック(ethnic)」を用い、「民族区域自治」の代わりに、アメリカのようにracial and ethnic minoritiesと同様のエスニック・グループ(ethnic group)を使うことを提案した。
しかし、王力雄はこのような「脱政治化」論に批判的で、「象」の如き本質的構造的な問題を見落とし、「鼠」のように些末な問題を扱っていると指摘する。重箱の隅をつついた枝葉末節な変更で中国の民族問題を解決できるのかという問題提起である。
そのような考え方自体が、少数民族の現実を軽視し、民族問題の重大性を理解できない大漢族主義、中華思想の所産と言える。
そもそも民族問題の前提条件には自由、人権、平等、共和、民主がある。
基本的人権が保障された主権在民の民選政府が実現されてこそ民族の権利も確実になる。
逆に、一党独裁体制下の「民族区域自治」は、民族問題をカモフラージュする「花瓶(お飾り)」の機能しか果たしていない。
しかも、これを堅く守れと主張するのは、各民族内の既得権益層であり、底辺に生きる一般庶民は「民族区域自治」の恩恵に浴していない。
ただし、そのような「民族区域自治」でも、現段階では否定も、無視もできない。
これは少数民族に僅かに残された自分たちを守るものだからである。それを失えば、何もなくなる。
ところが、ウイグル人による天安門車両突入炎上事件や昆明事件で、民主や自由を唱える漢族のリベラル知識人や「公共知識人(公共的な問題やその改革など発言する知識人)」さえ、馬戎の民族論に同調し始めている。
専制体制の構造的な問題を脇に置いて、少数民族の最後の拠り所たる「民族区域自治」を取り消そうとしている。
王力雄は、それを極めて憂慮している。このように一事件を契機に民族感情が悪化するのは、知識人的な表現の根底に民族主義(中華思想に根ざす大漢族主義)があるためである。
そのため、自由・民主の旗を高く掲げながら、少数民族の問題では大漢族主義に流れるというダブル・スタンダードになる。
これに対して、王力雄は現実を踏まえて民族問題と民主化を統合的に捉えて言論活動を進め、その中で、ウイグル人には、漢人は一枚岩ではなく、少数民族の尊厳や意見を尊重して「対話」を求める者もいることを身をもって示している。
2010年5月、ダライ・ラマにツイッターを通してネット・ユーザーと対話することを提案する書簡を送り、ダライ・ラマは応諾して、王力雄、人権派弁護士の騰彪や江天勇はじめ中国国内に十万人いると言われているツイッターのユーザーと「対話」を行った。
これはダライ・ラマと中国国内の一般市民との初めての「対話」である(その後、七月にも実施)。
いずれもすぐに封鎖されたが、それでも参加は千人以上で、「対話」からネット世論を通してチベット問題の意識化が進み、双方にとって極めて有意義であった。
しかし、ジャスミン革命以後、ほぼ千人は拘束され、さらに監視体制が厳しくなり、「対話」はできなくなった。
それでも、この「対話」は独立プロの朱日坤や王我がドキュメンタリー映画に編集した。今回、北京で彼らと出会い、その高潔な志や苦労などをうかがった。
5.ドキュメンタリー映画「対話」
王力雄は、ウイグル人との「対話」にも務めている
中央民族大学准教授のイリハム・トフティが2009年の「ウルムチ事件=七・五流血事件」の際に拘束された時、王力雄は支援活動を積極的に進め、トフティは8月に釈放された。
トフティは、市民意識が向上し、対話的に多様な議論が展開し、それを通した合意形成が地道に積み重ねられて民主化が進めば、憎しみを募らせあう悪循環が断ち切られ。民族間の和解が進み、ウイグル問題も解決すると考え、漢語のウェブサイト「ウイグル・オンライン」を創設した。それは何度も閉鎖されたが、その度に再開し、粘り強く民族間の対話を進め、漢語でウイグル問題の実状を知るための重要な「窓口」とされてきた。
他方、2012年夏、王力雄は世界ウイグル会議の本部のあるドイツのミュンヘンに赴き「対話」を呼びかけたが、拒否された。
しかし、トフティは王力雄との「対話」に応じた。ドキュメンタリー映画「対話」では、彼が教鞭を執る中央民族大学のキャンパスで、王力雄にオーセルも加わり、漢人、ウイグル人、チベット人の対話(鼎談)が記録されている。その中では七・五事件や巴楚(カシュガルの県)事件なども語り合われた。
しかし、三人は監視と嫌がらせを受けた。
ところが同時に、皮肉にも、その背景では、学生たちが「各民族大団結」をスローガンにしたイベントのリハーサルをしていた。
民族の「団結」を見せびらかす裏で、民族間の「対話」が妨害されたのである。まさに表と裏の違いが鮮明に表されている。
そして、2013年1月15日、トフティは新疆と北京の治安当局の合同部隊により逮捕された。その上、家族は自由を奪われ、自宅前には警官が数人も常駐している。
1月25日、当局は「ウイグル独立を企む海外勢力と結託し、インターネットで独立を唱え、国家の安全と社会の安定に重大な危害を与えた。教員の立場を利用して教室で広めた」などと発表した。しかし、トフティは穏健派で、ウイグル独立には一貫して反対していた。
このような彼さえ投獄されたのであり、有無を言わせぬ言論統制が如実に現れている。
しかし、前と同様に、王力雄は1月17日に即時釈放のアピールをネットで発表し、「トフティ氏はウイグル族と漢族の間を橋渡しする貴重な存在である」、「当局は説得力のある事実と証拠を示せ。言論を理由に罪を負わせるのは止め、即時釈放せよ」、「本人と家族の自由、基本的人権を守れ。弁護士の選任や面会を許可せよ」と呼びかけ、さらに「振り返れば、二〇〇八年のラサ事件、二〇〇九年のウルムチ事件から今日まで中国の民族政策の失敗は明らかである。トフティ氏の逮捕は、ますます政策の誤りに拍車をかけるだけである。全ての中国人は問題の追及や真相の究明の権利を持つ。また、自分の未来に責任を負うべきである。他の国々の国民にも同様な権利がある。何故なら、ウイグル族の苦しみは人類の苦しみであり、中国の将来の災禍は世界に及ぶ危険性があるからである」と提起した。
これに応じて、体制の内外を問わず、多民族に渡り、次々に賛同者が現れ、25日には四十カ国から千五百名以上となった。
そして、日本人は中国研究者から市民まで幅広い層から署名を寄せ、全体の約一割を占め、注目された。
この日本の動きを、良心的ジャーナリストで米国に亡命し、ニューヨークを拠点に活動している北風(本名は温雲超)はネットで取りあげ、日本がもっと国際社会で活躍すれば「悪の枢軸」を抑えられるなどと述べた。
また、ドキュメンタリー映画「対話」の日本語字幕版は、『私の西域、君の東トルキスタン』の訳者・馬場裕之によりできあがり、日本人も分かりやすくなった。
また、トフティの家族は弁護を、漢族の李方平に依頼した。彼自身、幾度拘束されても独裁体制と闘い続ける不撓不屈の弁護士である。
民族問題を「対話」で解決しようとするトフティの支援を軸に、ウイグル人、漢人、日本人がグローバルに呼応しあっている。
王力雄の地道な努力が成果となって現れている。それは、自由や人権という普遍的な価値に立脚しているからである。
このような共同作業の輪が広がれば、民族を超えた絆が強まり、危機的な状況を打開する突破口となるだろう。
6.予断を許さない休火山
とは言え、民族問題の根は極めて深く、対立感情は凄まじいい。
モンゴル高原のウイグル族の父祖の地と伝えられる草原に「突厥(トルコ)碑文」として知られる石碑がある。
唐代の八世紀に建立され、その中には「唐の民、言葉は甘く、絹は柔らかし。甘い言葉と柔らかき絹を持ち来たりて欺き、北方の民を近づけり。甘き言葉と柔らかき絹に欺かれ、多くの突厥の民、死せり」と刻まれている。
これが遊牧民族の漢族に抱く感情の基調と言える。
歳月は巡り、千年以上を経て近代に至り独立運動が起き、二度も独立が宣言されたが(一九三三~三四年と四四~四九年の「東トルキスタン共和国」)、いずれも大国の狭間で押し潰された。
しかし、これにより却って猜疑や怨嗟が奥深く鬱積し、いくら武力で抑え込んでも、マグマがいつ爆発するか予断を許さない休火山のようになった。
「対話」を呼びかけるトフティは穏健派だが、この現実から遊離した楽観主義者ではない。彼は決死の覚悟で取り組んでいた。
以前から家族や友人に遺言を伝えており、その中で「決して漢人に殺されたとは思わないでください。中国の独裁体制に殺されたと思ってください」と記している。
自分の死が憎悪や怨恨を増し、両民族を隔絶させないようにとの願いからである。
かつて一九六〇年代、文化大革命の暴力が猖獗を極めていたとき、三島由紀夫は「座視するに忍ばざる」と川端康成たちと声明を発表した。 民族問題はその幾層倍も根深く、爆発したときの流血は計り知れない。トフティの逮捕はその発火点になる危険性を孕んでいるが、その中で日本が期待されている。これを失望に終わらせてはならないだろう。
7.『黄禍』から『転生』へ
オーセルのブログによると、全人代が閉会する最終日に、王力雄は自宅軟禁に置かれたという。
胸が引き裂かれる思いで、王力雄が『私の西域、君の東トルキスタン』の日本語版序文で述べたことを想い出した。
「我々は十二分に注意しなければならない。――民族問題の解決は、政府側の政策の変化だけでも、また民主主義が到来して自然に解決されることを静かに待つだけでも不可能である。民族の怨恨が解消され、人民に和平が実現されなければ、たとえ政権が交代しても、たとえ民主主義が到来しても、民間では依然として敵対関係が続き、内戦や虐殺の可能性は存在し続ける。
専制政治は民族の怨恨をもたらし、その反面、これを民主化を拒む理由に使い、蠱惑的な大漢民族主義で国民の支持を得る。
このような誘拐犯と人質の共生共死のロジックこそ、中国が民主化に向かうために解きほぐさなければならない難問である。
このジレンマはいかにして乗り越えられるか? 私見では、民間において民族間の対話を促進することから始めるのが重要であると考える。各民族の人民の抱く怨恨を解きほぐし、相互に理解しあい、暴力を拒絶するときこそ、専制権力は国家の分裂を理由に民主化を拒む理由として利用できず、将来、中国が民主主義へ順調に転換ことを可能にするだろう。」
トフティは投獄され、王力雄は軟禁された。それでもなお、二人は「対話」への意志を堅持しているだろう。
確かに、トフティの逮捕は、流血の事態を避けようとしたウイグル版「中道路線(チベットでは以前からダライ・ラマ十四世が推進)」の頓挫と言える。元より、ダライ・ラマ十四世の境遇(亡命)は、ウイグル人に希望を失わせていた。それにトフティの逮捕となったのである。
今や新疆ウイグルは「パレスチナ化」、「チェチェン化」から「リビア化」、「シリア化」に走ろうとしているとさえ言える。
しかし、この絶望的な状況でなお、王力雄は展望を切り開こうとしている。
かつて、彼は政治寓話小説『黄禍』において中国の諸悪が世界各地に拡散し、流入し、人類は破滅の方向に押しやられていくことを述べた。それは寓話の形式をとっているが、論理的である。
そして彼は、新たな政治寓話小説『転生』を執筆している。それは「黄禍」の後、この「禍」を避けるために、より良い方向に転ずるために書いている。彼は「涅槃」のようになれればと語っていた。
8.驚くべき名門大学博士の発言
驚くことに、いつもは自由、博愛、正義を語る名門大学の博士は、話が新疆に及ぶと「やつらなんか殺せ」と言い放ち、まるで別人のようになった。彼は新疆で生まれ育った漢人で、子供の頃にウイグル人の子供たちにひどくいじめられ、担任の先生に訴えても、先生は口をつぐんで何も言わなかった。子供のことでも民族問題に関わるからである。
また、ウイグル人は少数民族優遇政策で、成績が良くなくても合格できるなどで、少数民族には特権があり、好き勝手にできる超国民的な待遇を受けていながら、粗野で乱暴だと身にしみて実感している。
ところが、ウイグル人の方は、肝心かなめの民族的な自立や尊厳が奪われていると感じている。
ウイグル人の子供には、夕方、当局が掲揚を義務づけた中国国旗を降ろすと、いつも足で踏みつける者がいる。
王力雄は「子供に民族的憎しみの程度が一番よく現れる。もし子供まで加わっていたら、全民族が漢人に対する憎しみを共有している」と指摘している(『私の西域、君の東トルキスタン』五九頁)。
また、先述の博士は屯田兵の新疆生産建設兵団の三世である。この生産建設兵団(団は連隊に相当)は人民解放軍に所属し、主に辺境地開発において中心的役割を果たす屯田兵的な生産・経営・武装組織である。これは公式説明だが、その三世のエスノセントリックな中華ショービニズム(ファシズムとさえ言える)を考えると、生産建設兵団の内実は植民地支配であったことがうかがえる。そして、この歴史を踏まえて今日のウイグルをめぐる少数民族問題を考えねばならない。
9.「チェチェン化」の加速
地方紙だが、清新でリベラルな紙面により全国的に知られる有力紙の元副編集長は、新疆ウイグルは「チェチェン化」に向かって加速していると語った。
彼は、今までは言論出版の自由をめぐるせめぎ合い、党指導層の内部闘争、権利意識に目覚めた人々による公民(市民)社会の形成などが複合した力学をテコにして、平和的で漸進的な民主化を実現する可能性があると考えていた。
「80后(80年代生まれ)」や「90后」など若い世代はきっと自発的に公民社会の発展を推し進める。
歴史は必ず中国社会の前進を後押しする。十三億人が一斉に笑い飛ばせば、専制体制を揺るがせる。
このように彼は期待していたが、今は絶望と無力感に包まれている。
複合的な力が望めないどころか、中国社会では分裂・分解が進行し、各階層で自分の身内や利害関係のある知人にしか関心を向けない。
このような無関心と社会的な危機の深刻化は表裏一体で、その中で「チェチェン化」が加速しているというのである。
この絶望的な無力感は民族問題や尖閣諸島問題にまで通底している。これらの問題は軍事費の増大と関連しており(危機を高めて防衛予算を獲得)、「それならいっそのこと、日中開戦、中米開戦に至ればいい。もし勝てば、中国はまさしく大国として屹立し、負ければ人民が自由を得る」というわけである。ヤケッパチの暴論とも言えるが、行き詰まりの閉塞感から出される開戦論や強硬論の一部には、本音は一党独裁体制に反対し民主化を待望するというものもある。
10.ふるさとは遠くにありて
私の故郷である湖南省長沙市では、3月とはいえ、寒風が酸性雨を吹き付けていた。空気も水も汚染に蝕まれ、その代償(健康被害など)を払わねばならないのは必至だが、多くの人たちの関心は明日のことより、今の胃袋と金権である。あたかもPM2.5は精神まで汚染しているかのようである。
長沙にもウイグル人がいて、路上で「切糕(チィエガオ、ウイグルの伝統的なお菓子)」などを売っている。
例えば、十元と表示されていても、漢人が買おうとすると、百元だという。それなら買わないと言おうとすると、鋭いナイフが見えるので(ウイグル人はナイフの携帯を許されている)、しぶしぶ買う。このようなことが繰り返され、「切糕党」という言葉までできた。
そして、城管(都市管理要員)はウイグル人に手出しはしない。民族問題への飛び火を恐れるからである。
それは当局の民族政策の所産である。少数民族に対して政治的には極めて厳しく取り締まるが、これとバランスをとるため、政治以外では締め付けを緩め、さらには優遇し、甚だしくは野放しにさえする。
そのため「無法無天」がさらに悪化し、横暴に振る舞うウイグル人も現れ、漢人はウイグル少年の置き引きや窃盗などにビクビクするという状況である。
このような状況下で昆明事件が起きたため、人々はさらに恐怖、憎悪、緊張を募らせ、ウイグル人に関わるうわさ話にさえ顔色を変える(談維色変)。
現体制はマイノリティの人心を失っているだけでなく、マジョリティの漢人の信頼まで失いつつあるようだ。
それでもウイグル人から守ってもらおうと専制体制をせっせと支える。
それらが危ういバランスの中で社会生活は何とか保たれている。長沙にはムスリム料理のレストランが数軒あり、3月6日、若い良心的ジャーナリストに案内されて長沙市労働西路にあるレストラン「カシム(珈稀穆)」に入った。
一階は持ち帰りのカウンターで、二階は明るい洒落たムスリム風インテリアのレストランになっている。客は若年層が多い。ウェイターは白い帽子をかぶり、ウェイトレスの一人(回族)はスカーフをまとっていた。
経営者は甘粛省の回族で、マスターは新疆ウイグルのホータンの出身である。マスターと話をすると、彼は兄弟が多くて学業が続けられず、内地に出稼ぎに来て、九年ほど仕事を転々としてから、ここに勤めたという。
私たちは、ウイグル料理の羊肉の串焼き、サムサ(羊肉と玉ねぎの餡を小麦粉の皮で包み焼く)やラグマン(腰のある麺に羊肉を中心とした炒め物をかける)などを注文した。大型のテレビ画面ではカラオケ用の音楽が繰り返し流れているが、どれも漢族の歌謡曲であった。その中には流行歌の「最幸福的人」があった。
ムスリム料理に似つかわしい音楽はありませんかと尋ねると、マスターは「CDが壊れたから」と答えた。ただし、ウェイトレスは「あの事件の後、新疆の歌は流せないのです」と言った。その表情は、流れる「最幸福的人」にはそぐわなかった。
11.同時代の証人として
大阪に戻った後、14日、長沙の市場で事件が発生した。
マスメディアによると、発端はウイグル人同士の口げんかで、犯人は包丁で相手を刺殺してから通行人を次々に切りつけたという(6人が死亡)。ただし疑惑は絶えないようである。
また、同日、四川省成都市ではデパートや商店が建ち並ぶ繁華街の春煕路で「通り魔が出た」とのデマが広がり、無数の人々が走り出してパニックになった。
その発端は少数民族(ウイグルではない)のように見える人を目にした者が、ただそれだけで恐れて逃げ出し、当該の少数民族風な人もつられて走り出し、それが追いかけると思われ、誤解が誤解を生んでパニックが周囲に広がり、恐怖に駆られて闇雲に群衆が暴走したという。
翌15日には、広東省広州市で警備員に捕まりそうになった泥棒が「通り魔だ」と叫ぶと、周囲の人々がパニックとなり、あわてて走り出すという騒ぎが起きた。
昆明事件の後、当局はテレビをはじめマスメディアを総動員してテロ対策を喧伝しているが、厳重な言論統制で愚民政策を押し進めた結果の衆愚社会では、理性的にテロを理解し、個人や地域社会で対策を考えるというようにはならず、非理性的な言いしれぬ恐怖をかき立てるだけになっている。ピリピリした緊張感は忍耐の限度を超えそうになっている。
しかも、「無法無天」の社会に蔓延する腐敗や不正はみな承知しているため、いつでもどこでも鬱積した不満が暴発し、凶悪事件になっても不思議ではないと思われている。その背景には、多くが異口同音に語る絶望的な無力感がある。
このような状況に対して、私は一文学者として何ができるだろうか。個人の力はとても弱く、また文学の力はもどかしい。私自身、絶望的な無力感を抱きつつ、少なくとも、同時代の証人として、この現実を記録し、伝え続けていきたい。
★ 宮崎先生がご紹介された学者「劉燕子」氏のエントリです。関西の大学で教えている中国人教授で、日本語で書いています。
中国へ帰るのは「危険」だけれど、それでも帰らなければならない、という憂国の情、内容は緊張感に満ちたものです。
ますます複雑になり悲惨な状況のチャイナが書かれています。
「王力雄」氏のことはWIKi http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%8A%9B%E9%9B%84 参照。
宮崎先生の講演旅行、今日からなのですね。