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井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

信長貴富 : 組曲「スピリチュアルズ」から 5. ブギ・午前一時

2011-12-10 00:13:44 | 指揮

私は昔、バーンスタイン教の信者だった。信徒は何をするのかというと、まずバーンスタインの全作品を覚えるのである。バーンスタインについて書かれた書籍は、もちろん全て読む。そして、レコードは少し聴いておく。レコードがなぜ少しなのかというと、粗製乱造が多くて評価が必ずしも高くなかったからだ。信者たるもの、教祖様の価値を下げるようなものには触れない方が良いのである。

結構信心深い熱心な信徒だったと思う。声楽関係を除くと、全作品に近く知っていた。

現在の評価と違い、当時はアメリカでもショーンバーグにけなされ、日本ではカール・ベームの方が人気があった時代である。

この信心深さがうすれたのは、「一番熱心な信者はバーンスタインのベッドにバーンスタインと一緒に寝なければならない」ということを知ったからだ。

この勇気が持てなかった。

そして、バーンスタインの死と共に、バーンスタイン教からは離別していった。

でも、今でもバーンスタインは大好きだ。

さて、そのような過去があるので、クラシックとジャズ、両方に造詣がある存在(人物・作品)は気になって仕方がないところがある。

そこで出会ったこの作品、正直脱帽だった。

1曲目から4曲目までだったら、他の作曲家でも同様のことをできる人は結構いらっしゃる。また、4曲目と5曲目のような作風を持つ方も少なくない。しかしこの両方となると、いきなりバーンスタインを持ち出してしまいたくなるほどで、そうそう見当たるものではない。

その昔、NHKで「授業」をしたミヨシ先生、チェコ民謡(多分アンダルコのうた)を、それはそれは丁寧に芸術的に繊細に仕上げて、そこまでやらんでも、と思ったものだ。次に「グリーングリーン」というGo-go(わかりますか?ディスコの元祖のようなダンス曲)をされていたけれど、痛々しいくらいにサマにならない。NHKさん、そこまでやらせなくても、と思ったものだ。

ミヨシ先生は信長の師匠格だから、見方によっては追い抜いたことになるかもしれない。

ただ両方書けるのが一般的な理想だとは全く思わない。人には得意不得意あるものだから、基本的には得意分野で活躍すれば良いと思う。

だが、私は両方できることに価値を置くし、その存在にあこがれる。

そして、実は拙作「大志の歌」もフィナーレはジャズ風の曲になるはずだった。

来年の演奏会、当初の計画だとそれで良かったのだが、途中で計画は変わり、この「スピリチュアルズ」がプログラムに入ってきた。

楽譜を見て、その完成度に青ざめ、恥ずかしさで真っ赤となる交通信号状態。ここから抜け出すには、新たなフィナーレを書いて差し替えるしかなく、急きょ新作を書きあげた井財野であった。

聞くところによると、信長はポップスの様式も得意とするところのようだ。が、私が感服しているのは、それが書けること以上に、構成力の巧みさなのである。この順番で聞いたら、感動は約束されたようなものだ。

それでは、というところで、私たちはその先を考えている。乞うご期待。

「ブギ・午前一時」の一部を紹介。




信長貴富 : 組曲「スピリチュアルズ」から 4. アラバマの夜明け

2011-12-08 23:15:08 | 指揮

この「スピリチュアルズ」という組曲、3曲目まで、それぞれ個性的で魅力がある。が、ここまでは他の作曲家でもそれが書ける人はいる、という範囲内だと敢えて述べよう。

この4曲目は、興味深いことがいくつかある。

まずテキスト。

作曲家に なるという そのときは

ぼくは 音楽を 書くんだ

アラバマの 夜明け について

そのなかに いちばん きれいな歌を いれるんだ

アラバマの黒人の少年が、夜明けの歌を書いて作曲家になる、という情景・・・

そんなこと、あるだろうか?

とも思うけれど、合唱のメンバーが「書くんだ」「書くんだ」と歌い続けると、こりゃあ井財野も書かなきゃ、という気持ちになってしまう。指揮しながら、一方で追い立てられる自分を感じてしまう、妙なところがある歌なのだ。

そして、作曲者の信長貴富がダブってくる。信長が「いちばんきれいな歌をいれるんだ」と我々に語りかけているような錯覚も覚える。本当に一番きれいな歌がはいっているから・・・。

ただ、ここでちょっと目には、とても理解しがたい楽器が登場する。

「霧のように大地から・・・」と歌う部分のバックにカタカタカタ、コトコトコトという音が聞きとれるだろうか。これはカウベルのトレモロなのである。

いちばんきれいな歌で盛り上げて、最上の映画音楽か上質のポップス調とでも言うべき楽想のところに、なぜカウベルのトレモロなのか?

考えられる理由

1. そのままではお涙ちょうだいになってしまうかもしれないので、わざと「お笑い」を入れた。

2. アラバマの大地には牧牛がいっぱいいて、朝になると牛たちが一斉に起きてカタカタゴトゴトやる、という情景を描いている。

皆さんはどう思われるだろうか?

答が何だかはわからないけれど、こういうことを考える人はそうそういない。真に信長が他と一線を画すのは、ここからだと思っている。

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3. I am a Negro from Spirituals

2011-12-07 20:09:46 | 指揮

信長貴富作曲の組曲「スピリチュアルズ」から3曲目、"I am a Negro"

この曲には合唱メンバーのナレーションが訳された詩を語り、歌は原語のまま歌う。ナレーションと音楽が次第に混ざり合ってカオスを作り、真中のクライマックスを作る。緊張感の高い部分だ。

その後、アカペラの合唱で「イエスの足もと」を歌う。緊張感は持続し、悲痛な思いが伝わってくる。

そして、器楽の間奏が、その緊張を解放しつつ、新たな山場を作った後鎮静し、次の曲を導き出す構造になっている。

合唱メンバーのナレーションにはマイクが使えないから、思いっきり演劇調にならざるを得ない。

正しいタイミングで出てくれると良いけれど・・・という心配は杞憂に終わった。やはり難しいのは英語が英語らしく聞こえることのようだ。


信長貴富 : 組曲「スピリチュアルズ」

2011-12-06 23:25:42 | 指揮

名前からして偉そうな作曲者名だが、知る人ぞ知る、合唱界では押しも押されぬ存在、本当に偉大な作曲家である。その方の作品、組曲「スピリチュアルズ」を来年の3月4日、福岡市近郊の「サンレイクかすや」というホールで演奏する。例の「大志の歌」と一緒に、である。

音楽でスピリチュアルと言えば黒人霊歌、だが、これは黒人文学を代表するラングストン・ヒューズの作品に曲をつけている。

ここでは2曲目、組曲名と同じタイトルの「スピリチュアルズ」の一部をまず紹介しよう。オスティナートに乗った、バイタリティあふれる曲である。編成は混声合唱以外にピアノ、ヴァイオリン、コントラバス、打楽器。この日、この楽器群と初めて合わせた。

打楽器がかなり必要なのだが、全て集めるにはかなり駆けずりまわらなければならないので、とりあえずはボンゴ、トムトム、グロッケン、ハイハット、カウベル程度にしてもらったのだが…。

トムトムの音のデカさに、まず参った。本番ではティンパニもあるのだけれど、合唱は聞こえるのかね、と少々心配になる。

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しかし、太鼓を入れるとなかなか面白いのは確かである。

ちなみに筆者は指揮で、ヴァイオリンは影武者、緒方さん。そしてコントラバスは伊藤さん、打楽器の岩崎さん、である。


オフィクレイドとテューバ

2011-12-01 19:37:15 | 音楽

11月27日のN響アワーで、オフィクレイドの実演があった。ベルリオーズやメンデルスゾーンのスコアでは昔からおなじみの金管楽器なのだが、音を聞いたのは生まれて初めて。

低音楽器なのだが、サクソフォーンのようなキーがついていて、管に空いた穴を開け閉めして音高を変える。響いている管の部分が短いからなのか、かなり生々しい印象を持った。

もっともこれは、どうしてもテューバと比較してしまうせいかもしれない。オフィクレイドは百年以上前にすたれてしまったために、現代ではテューバで代用するのが普通だ。テューバは胴体そのものが大きいから、朗々と鳴り響く。

オフィクレイド用のパートを、そのように朗々と鳴り響かせてしまったら、かなり違和感があるのではないか?

と、思わなくもないが、感覚というものは常に「慣れ」で何とでもなるところがある。今、オフィクレイドを復元して、ベルリオーズやメンデルスゾーンを演奏しても、貧弱に感じるだけかもしれない。

ここで思い出すのが、バロック・トランペット。本来、自然倍音だけの高音域を使用するのだが、不安定この上ない。現在ではピッコロ・トランペットで代用することもあるけれど、これは「安定」するだけで、演奏上の難しさは変わらないのだそうだ。

昔は、ヘンデルのメサイアや、バッハのカンタータで、はずしまくったトランペッターをよく耳にした。他の楽器奏者の苦労を水の泡にしてくれたものだ。そこで、こんなことを言った人がいる。

トランペット・パートはソプラノ・サクソフォーンで代用すると良い。

TPO次第では、空気が凍りつきそうだが、これを言ったのは20世紀の名チェリスト、パブロ・カザルスである。となると、これはスゴいアイディアだ、となるかもしれない。

試したことがないから、効果がどのようなものなのかはわからないが、一考の余地はありそうだ。少なくとも、トランペットがみつからなければサックスがあるさ、と考えると、気が楽になる部分はある。

そうやって考えると、いろいろ思いつく。バッハを演奏する時、オーボエ・ダモーレで頭を悩ませる。これは所有者が極端に少ない。東京中に多分10本ちょっと、という程度。何せ、一本200万くらいするのだが、出番がないから、一般的にオーボエ奏者は持っていないのだ。必要な時は、数少ない所有者から借りだすのである。

オーボエ・ダモーレが手に入らないから、マタイ受難曲は演奏できない、というのは少々馬鹿げている。それがなければ、例えばクラリネットで演奏してはどうだろうか。バロック時代は、ある楽器が調達できなければ、別の楽器で代用させることを日常的にやっていた。今でもチェンバロ・パートをピアノで弾くことは珍しくない。半世紀前はコルトーがピアノでブランデンブルク協奏曲を弾いていたものだ。

クラリネットでマタイ、やってみたいな、と思うが、なかなか実現には至らない。早い話が、オーボエ・ダモーレが手に入らないから演奏できないのではなく、これを歌える合唱団がいないから演奏できない、という、もっとオオモトの問題にぶちあたる訳だ。残念!

楽器の問題は、所詮この程度で、大したことではないのかもしれない。