久しぶりの読み応えのある新書を読んだ。最近、読みやすくても内容の薄い新書が増えたけど、本書は骨太の日本近現代史本である。2002年発刊なので10年前に出た本だが、偶然本屋で手に取った。
本書は、明治以後の日本が行った対外戦争を取り上げ、戦争に踏み出す瞬間を支える論理がどのようなものであったのか、その歴史的経緯を明らかにする。例えば、日露戦争においては、危機的な東アジア情勢(ロシアが南満州を占領し、更に清から旅順・大連までの鉄道敷設を認めさせたことで、日本にとって利益線としての朝鮮が危機的状況となった)と「文明の敵ロシア」(アメリカの「門戸開放宣言」の文脈から、南満州を門戸閉鎖するロシアは文明国ではないとする考えやツァーリ専制のロシアをよう懲するという考え)という論理で戦争が受け入れられていったプロセスが記述される。
本書の一つの肝は各章で設定される歴史的「問い」である。「戦争」を学ぶ意味は何か(第一講)、軍備拡張論は如何に受け入れられたか(第二講)、日本にとって朝鮮半島はなぜ重要だったか(第三講)などの問題が設けられる。筆者は、歴史を学ぶということは、まさにこうした問いを設定して検証することであると考え、史料をもとに、その問いを解明する。2月に読んだ小谷野 敦『日本人のための世界史入門』が、「歴史に意味などない」、「事実の羅列で良い」という立場を取っていたのとは正反対をなすアプローチだ。読んでいて、学問の世界に生きる歴史家ならではのプロフェッショナリズムを感じる。
一方で、本書に限らずどんな歴史書にも言えることだが、筆者の問題意識や分析が如何に明晰であっても、「筆者の分析、主張は妥当なのか?」という読者のジレンマは残る。たいていの読者は筆者の論理を追い、その合理性や論理性については検証できても、その筆者が提供する根拠(証拠)の妥当性についてまでは、なかなか検証できないからだ。きっと数ある事実や史料の中から、筆者の問いに答えるものとして本書に提示されている根拠は、山のようにある事実、証拠のうちのごく一部であるに違いない。「こんな事実もあるじゃないか」、「この人の日記には逆にこう書いてあったはず」という検証のレヴェルまで議論をするためには、私レベルの読者ではあまりにも知識が足りない。そこが何とも歯がゆいところである。
ただ、本書が素晴らしいのは、いまを生きる我々日本人にとって、現代を見る目を養う1冊になりうることだ。最近、原子力発電の是非、TPP交渉への参加、改憲など国論を分ける幾つかの論点において、潮目が変わりつつあるのを感じる。各問題の考えや立場は人によって異なるだろうが、こうした節目を支える論理を考えることの重要性への気づきは、本書から得られる視座である。
一点、注意を。 記述は易しいが、必ずしも読み易い文章ではないので、漫然と読んでいるとロジックを追えなくなって、本書の主張を読み誤る。注意力を持って読みたい。