★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

中華食堂十八番

2014年10月10日 22時53分58秒 | 徒然(つれづれ)
 天神橋筋五丁目の十八番は、餃子の王将と並び、マイフェイバリット中華屋だ。
 とにかく料理の種類がべらぼうに多く、値段もリーズナブルだ。

 料理は番号での注文制で、1桁番台は海老、10番台は豚肉、20番台は鶏肉、30番台は牛肉、40番台はレバー、50番台は焼そば、60番台は野菜・豆腐料理だ。
 欠番も多々あるが種類は豊富だ。
 その他に麺類、焼飯、丼類、餃子、はては麺と丼の組み合わせ等、100種類は下らない。

 通い始めの頃は、黒ひげ危機一髪みたいな感じで、当てずっぽうに注文していたが、当然すべてが口に合うとは限らない。
 今のところ回鍋肉、ニラ炒め、麻婆茄子は当たりで、十宝菜(八宝菜)、牛肉炒め系、野菜炒めはハズレだ。
 
 当たりの料理がわかると、一定期間そのローテーションになり、新規料理挑戦が億劫になる。大切な昼食代で、ハズレ料理に当たったら目も当てられないからだ。
 飲み代や馬券代は惜しみなく使うのに、昼食代はケチってしまう自分が情けない。
 
 明日の昼飯は思い切って新しい料理にチャレンジだ。

 今までの経験から、牛肉系や海老系は止めておこう。価格がリーズナブルだけに、いい肉や海老は使っていないはずだ。麺類も専門店より旨いとは思われない。

 回鍋肉のバリエーションの味噌味系、麻婆茄子のバリエーションの麻婆豆腐、ニラ炒めのバリエーションのニラ入り系あたりが無難だが、ここは一発、豚肉系か鶏肉系で攻めてみよう。
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故郷(ふるさと)

2014年10月10日 20時43分55秒 | 徒然(つれづれ)
 九州の西の辺境、焼物の町、伊万里が私の故郷だ。
 その昔には伊万里焼は、伊万里の港から長崎の出島経由で、ヨーロッパの列強に輸出されていたらしい。らしいというのは、教科書に書かれていたのを読んだだけで、その歴史や製法など全く知らなかったからだ。
 もちろん日常使いの食器は全て伊万里焼だったが、茶碗や皿など、子供心には何の興味も関心もなかった。

 本家の祖父が漁師だったこともあり、生家は波止場まで歩いて2、3分の距離で、夏休みなどは家から海パン一丁で海水浴に行っていたものだ。
 魚は漁船が網で大量に獲るものだと思っていたので、一匹ずつ釣るなんてやった事もなかった。ましてや、毎日のおかずが魚介系だったので、魚は見るのも嫌だった。

 海が近いだけでなく、反対側へ2、3分も歩けば、もうそこは山の麓だった。
 要するに、海と山に挟まれた細長い土地に、私たちの村落はつつましく存在していた。
 山には段々畑があり、いろんな作物が実っていた。子供の頃はガキ大将に連れられて山登りをしたものだ。

 家の近くには楠久炭鉱というそこそこ大きな炭鉱があった。
 毎日石炭船が入出港していて、たまに外国船も入港していた。
 炭鉱の敷地内には炭住とよばれる、炭鉱従事者の住宅が立ち並び、最盛期には小学校のクラスが各学年2、3クラス増えたりしていた。
 炭鉱の閉山と共に、炭住は消え、多くの同級生が転校していった。
 一時的に広大な更地になった場所には、時を経ずしてベニヤ板工場群が建設された。

 そんな田舎でも、テレビや雑誌から都会の情報は入る。
 その情報と周りの現実とのギャップに苛まされながら、大学は絶対に東京か大阪に行くぞという思いを胸に、私は高校三年までを伊万里で過ごした。

 結局、京都で大学生活を送ることになったが、伊万里の田舎者にとっては京都も充分に都会であった。大阪へも小一時間ほどで行けるし、私の都会願望は完全に満たされた。
 大学生の頃は、夏や冬の休みの度に帰省していたが、社会人になってからは、年に一度、二年に一度と間遠になり、田舎を出て40年ほどが経つ最近では、5、6年に一度ほどになってしまった。

 「木綿のハンカチーフ」の彼のように、私は身も心も都会の絵の具に染まってしまったようだ。
 
 故郷は遠きにありて思うものだね。
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