★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

友よ

2015年01月16日 19時29分52秒 | 徒然(つれづれ)
 1973年4月、私の大学生活は京都山科の下宿から始まった。
 その下宿で初めて出会い、卒業後も付き合いが続いたのが和歌山出身の同学年のFだ。
 九州の辺境の地から上洛した私にとって、関西弁を話す彼は心強い相棒となった。

 小柄で色黒、天然パーマのFは、当時流行のVANのアイビールックをカジュアルに着こなし、趣味の油絵のイーゼルを部屋に据え、私が読んだこともないような芸術書や幻想文学小説から、サブカル系の雑誌などの蔵書を本棚一杯に並べていた。

 ファッションに関しては、フォーク少年の私はベルボトムジーンズにTシャツやウエスタンシャツで通したが、読書に関しては彼の影響をもろに受け、植草甚一や澁澤龍彦、寺山修二や唐十郎などにハマった。

 どちらも隔世遺伝的な酒飲みだったのか、同じくらいの酒量を誇り、河原町や木屋町の居酒屋を飲み歩いたものだ。
 彼を基点に友達の輪が広がり、私独自のルートの友達とは、また毛色の異なる交友関係も生まれた。
 
 四部屋の小さな一戸建ての下宿だったので、学校に行っている時以外は、いつも生活を共にしていた。同じ飯を食い、同じテレビを見て、同じ本を読んでいた。
 学部は違っていたが、ふたりとも留年して大学は5年間通った。
 5年目は、他の友達はほとんど卒業していなくなり、三日に空けず飲み歩いていた。

 卒業後は私は普通のサラリーマンになったが、彼は転職やアルバイトを繰り返し、自由人のような生き方をしていた。
 さすがに卒業してからは、年に3、4回程度の付き合いになったが、彼の結婚式にも友人代表で出席し、他の友達を誘っての一泊旅行や花見などもやっていた。
 
 そんなFが、くも膜下出血で急逝したのは40代半ばの時だ。
 突然の死はショックだったが、酒飲みの彼らしい逝き方だったなと思った。
 
 今でも彼と共通の友達と飲む機会があると、彼の話題が出てくる。
 あいつは好きなように生きて、パッといなくなってうらやましい限りだとみんなが異口同音に言う。
 私もそう思う。

コメント
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