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★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

冬の夕暮れの家路

2021年06月14日 21時00分15秒 | 徒然(つれづれ)
 故郷の田舎の村の、子供時代のヒエラルキーの話は既報(5/28投稿)の通り。
 いつも一緒に遊んでいたのが、小学4年生で、私より二つ上の中隊長のヒロちゃん、二等兵の私、一つ年下の新兵のシン坊とヤスだった。

 初冬のその日も、僕たちは中隊長のヒロちゃんを先頭に連れ立って歩いていた。
 隣の村を抜けても、ヒロちゃんはズンズン歩いて行く。
 僕にとっては、何度か親に連れられてバスで通ったことはあったが、歩くのは初めての道だ。
 シン坊やヤスにとっても初めての道のりだ。

 初めて見る家並みや神社や雑貨屋に僕たちの心は踊った。
 左手には海が見えていた。
 眼前に見える、ひょうたん島に似た小さな島に、僕たちははしゃいでいた。

 途中からはそのバス通りも外れて知らない道へ入った。
 相変わらずヒロちゃんは前進する。

 初冬の陽は短い。
 急にあたりが陰ってきて、ヤスがもう戻ろうとグズり出した。
 僕やシン坊も同じ気持ちだった。

 一軒の民家の前で立ち止まったヒロちゃんが言った。
「おいはここの親戚の家に泊まっていくけん、おまえたちは早よ帰れ」
 予期せぬ言葉に僕たちは呆然とした。
「気いつけて帰れよ」
 そう言うとヒロちゃんは民家の中へ入っていった。

 あたりは薄暗くなりかけだ。
 躊躇してはいられない。
 僕たちは急ぎ足で元来た道を戻り出した。
 途中でベソをかくヤスとシン坊をなだめながら、僕たちは必死で家路を急いだ。
 
 芥川龍之介の「トロッコ」を中学で習った時に、あの時のことがデジャブのように甦った。



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テレビジョンが来た日

2021年06月14日 17時16分50秒 | 徒然(つれづれ)
 夏の夕暮れ時の、開け放たれた座敷の縁側には、近所の人々の人だかりができていた。
 大人も子供もほとんどが知った顔だ。

 親戚は座敷に陣取っている。
 クーラーはおろか、扇風機さえない座敷は、家中すべての窓を開け放していたが、昼間の暑さの名残りと人いきれで、蒸し返っていた。

 昭和37年大相撲名古屋場所の千秋楽の日だ。
 結びの一番は大鵬柏戸の取り組みだ。
 女子供はほとんどが大鵬ファンで、大人は玄人好みの柏戸ファンだ。
 大鵬が千秋楽前に優勝を決めていたにもかかわらず、横綱同士の柏鵬戦は盛り上がる。

 人々の目は一点に集中していた。
 床の間のテレビジョンだ。
 
 親父はその一番をリアルタイムで観るために、事前に電器屋にテレビジョン設置を依頼していた。
 子供の私と弟に知らされたのも当日だった。

 昼間から屋根の上にアンテナを設置し、配線や接続、調整が済んだのは前頭上位の取り組みあたりだった。
 それまではラジオで聴いたり、病院の待合室のテレビで観るだけだった大相撲を、家のテレビで観られるというだけで舞い上がったものだ。
 
 当時、テレビジョンのある家は田舎村でも裕福な家に限られていた。
 うちは両親が小学校の教師だったので、とりわけ裕福な家庭でもなかったが、新しもの好きの親父が多分、無理をして月賦で買ったのだろう。

 その日から私はテレビっ子になった。
 

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