★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

繁華街詣で

2021年06月17日 16時05分08秒 | 徒然(つれづれ)
 見渡す限り山と田んぼしかなかった、九州の辺境の村から出てきた僕にとって、昭和48年の京都の街は都会そのものだった。
 その中心地、河原町周辺は夢のワンダーランドだった。

 日本有数の百貨店が2軒もあり、大小さまざま店舗や大勢の人通りは、テレビで観ていた東京に匹敵するものだった。
 当時では珍しい、日本進出間もないマクドナルドやケンタッキーもあった。
 何軒もの映画館や、至るところにある喫茶店や飲食店、スーパーマーケットや大型書店、ジーンズショップに専門店。

 新京極には軒を連ねる土産物店、それに群がる観光客や修学旅行生。
 木屋町通りには星の数ほどのスナックやバー、居酒屋があった。
 田舎と違い、大学生活、いや日常生活に必要なものは、金さえあればなんでもすぐに手に入る便利さだ。

 下宿と大学の乗り換え地点が河原町だったので、僕は大学の帰り道や休日はいつも河原町に出ていた。
 百貨店を始め、興味のある店には、何を買うわけでもなく片っ端から入った。
 映画館には、東京とのタイムラグもなく、ロードショーがかかっていた。

 疲れたら、同好会の先輩に教えてもらった王将や春陽堂で食事をして、ジャズ喫茶で休憩した。
 ジャズなどわかりもしなかったが、雰囲気にはすぐに溶け込んだ。

 千年の都、京都のいにしえの文化には興味がなく、寺社仏閣巡りなどは念頭にもなかった。
 学生の街、若者の街としての京都に僕は魅せられたのだ。
 そんな繁華街詣では5月の終わり頃まで続いた。

 当時トランジスタ・ラジオや有線放送から流れていた、ロバータ・フラックの「やさしく歌って」やカーリー・サイモンの「うつろな愛」を今聴くと、当時のことが鮮やかに甦ってくる。
 

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