こげの耳に★ねんぶつ★

たわいない日々の思うことと愛犬こげと花が咲いていたら花の写真など

西村記念館 ②

2009-11-09 06:00:01 | 和歌山県

          ストーブのあったところから居間をみる

14歳、広島で牧師の妻となっていた叔母宅に身を寄せ、私立明道中学校に入学、

卒業後下北山に戻り、山林資産家の後継者として自学自習の生活に入る。

1904明治37年、誠之助は生活改善啓蒙のため≪太平洋食堂≫を開き伊作も

手伝う。

1906明治39年、米国で流行していたバンガローを新宮・日和山に建てる。こ

れがわが国における現代の家の居間を中心にした住宅。      前出から

 館長さんのお話によるとそれまでの日本家屋は、客間中心の建て方であったけど

伊作さんは家族が中心に集まる居間を大事に設計し、それをこの館に用いたそうだ

この館はスイスシャレーと郷里である北山村の民家のスタイルを主としてはいるが

内部は洋式生活を取り入れている。どおりで今風にもなれる雰囲気が漂っているん

だわ!私は「こんな家に住みたい」を連呼していたのだけど、伊作さんは設計監督

しながら日本人の大工さんと造り上げたのだ。大工さんも困ったと思ったよ、だっ

て窓下が丸くなっているんだもん、そんな明治大正時代、洋風の家なんてその辺に

ないんだもん。伊作さんは屋上に水槽を作り地下に井戸を掘って、手押しポンプで

くみ上げ、(昔はトイレやお風呂は外に作ったけど)それを一階、二階のトイレに

水洗トイレとして使ったり、二階にお湯と水が出るお風呂を作ったりと驚くことを

やっているのだ。当時なら≪ハイカラさん≫か≪洋風かぶれ≫なんて言われたこと

だろうな。



 伊作さんがデザインしたテーブル。彼はシンプル・ライフをモットーとし、その

頃は洋風といえば華美に装飾された家具調宅品が主だっていたのを、全ての家具を

直線で表した。いや、この直線は座ると背筋ビシッとだけど、クッション性がない

私が学生の頃≪シンプル・イズ・ベスト≫という流行語があったのをふと思い出し

た。人間、すっきりしたものを欲しがる時期というものがあるのだな。



ここは家族の食堂だそうだ。さきのテーブルやストーブの置かれた部屋は、サロン

として使用し、そこには歌人の与謝野寛・晶子夫妻や画家石井柏亭、彫刻家保田龍

門、陶芸家冨本憲吉、土地の文学者佐藤春夫などの芸術家が訪れ交友を持ったそう

だ。勉強不足で画家や彫刻家、陶芸家の人は知らないのだけど伊作さんが残してい

る絵画や陶芸品にはきっと何らかの影響を与えたんでしょうね。とはいっても、

伊作さんって職業はなに?と思ったんだけどマルチな才能とキリスト教から教えで

これからは日本式の教育ではなく、日々の生活を外国の生活と比べて恥ずかしくな

いように、当時は女子は裁縫・家事のための学校教育ではいけない・・と思ったよ

うだ。それは女子はこうあるべきだ・・という封建制度に変革を示したかったわけ

で、彼の生活哲学でもあったそうだ。

1921大正10年、伊作の第一子が尋常小学校を卒業するに際して友人与謝野夫

          妻、石井柏亭らと語り合って東京神田駿河台に新しい自由な

          芸術学問の学園、国際的な広い視野と生活方法を身につけた

          日本人を育てる学校として文化学院を創立したのである。

 文化学院は天災や官憲の圧迫にも堪えて、彼の息子娘達によって引き継がれ、現

在も彼の言っていた≪小さくて良いもの≫としてその存在を続けている・・・

文化学院の創立者だったんだ!他にもいくつかの著書を残している。
コメント
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