勘十郎堀

2017年05月31日 | Weblog


田んぼに水を引き込むと、とたんに蛙が鳴き出します。そして、大合唱が始まります。それら蛙はどこから?

 

畑をトラクターで耕すと、蛙が掘り出されてピョンピョン。すると、それを狙ってカラスが来ます。

ハクセキレイも来ますが、くちばしの大きさからして、ハクセキレイは蛙を食べるのか、それとも他の例えばヨトウムシやテントウムシの幼虫とか、小さな虫を食べに来るのか・・・・・。

 
                           カルガモ

トノサマガエルなど、土の中にいますね。ですから、田んぼのような水がビショビショにある所ばかりに居るとは限らないようです。むしろ冬眠は水浸しではないところですごすのかも知れません。

 

江戸時代中期の始まりのころに、水戸藩では運河を作ろうとしたことがあります。

松並勘十郎(まつなみかんじゅうろう)という人が親方になって、今の茨城町にある涸沼(ひぬま)から鉾田(ほこた)に流れ込む川まで林を抜け畑を通り運河を造りました。

パナマ運河方式だったそうですが、結局は上流の細い川からの水の量が少なすぎて、成功しなかったそうです。

 

その工事には近郷近在の百姓が強制的に借り出され働かされたそうです。結局は不成功に終わったとかで、勘十郎は罰せられたのだそうです。

農民は大なる労力を提供させられ大変苦労したのだそうです。

 
 

赤い〇の中は川の名前。北から那珂川、北浦(湖)、利根川、江戸川。
緑の〇は江戸川。
大部分は利根川をさかのぼったわけです。

東北からの物資をこのようなコースで運び江戸まで持っていったのだそうです。しかし
赤の矢印 のところだけは川などの水路がありませんので、船で荷物を運ぶわけには
いかず、困っていたらしいく、運河をつくることになったらしいです。

私の想像では、当時は今のような舗装路ではなく、すぐに深い車の わだち ができて荷車が埋まってしまったり、船のように一度に大量の荷物を運ぶことが出来なかったので、その閒の10km内外の距離を運ぶのには、かなり難儀したのではないかと思います。

先日、メロンを買いに行った農協の近くに、この堀の跡があるので見てきました。

 

今のようにブルドーザーのような機械はあるはずもなく、全部人力で掘ったのでしょうから、それこそ大工事だったのでしょうね。

その間、年貢を納めるための米作りなどはどうしていたのでしょうか。

どうして房総半島を回って東京湾に入らなかったのか。当時の船では外海が荒れて難破することが多かったのでしょうか。