歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

「十間橋通り」 最終回 「高松プロダクション」

2006年12月30日 | 東京の風景
昨日の続きです。

十間橋通り、「東武亀戸線」の踏切です。「東武線」「京成線」は「下町庶民派」で「私好み」の私鉄です。「小田急」「東急」は「山の手ハイカラ派」で馴染めないですね。「西武線」は「中間派」です。


警報機の甲高い音を聞きながら、「ボンヤリ」と電車の通過を待っている・・・・・・。踏切って「何だか」いいのです。 空白の時です。


踏切を渡り少し行った所で、金属プレートの案内板を見つけました。

「高松プロダクション・吾嬬撮影所跡」とあり、大正時代、ここに映画の撮影所があったと書かれていました。その案内板を読み終え、ふと向かいの建物を見ると「高松プロ」の事務所に見えてきたのです。


「木製の窓枠」、「割れたガラス」に、「テープ」を貼った「修復跡」、「薄茶色のモルタル外壁」の「くすみ具合」。いいです。


案内板に書かれた、「高松プロ」「関東大震災」「マキノ映画」の文字を読み返し、通りの風景を眺め、大正時代の面影を探しました。



※家に帰ってからチョット調べてみました。

「吾嬬(あずま)撮影所」の「吾嬬」が気になったのです。たぶん地名の筈ですがこの辺りは「京島」なので、何で「吾嬬」なのか「地図」をみていたところ、見つけました。

近所に「あずま図書館」「あずま百樹園」がありました。調べるとこの辺りは、大正の頃は「吾嬬」という地名だったのです。

それと「高松プロ」を調べたところ、

「義憤の血煙」製作=高松プロダクション 
1925.09.11 有楽座 6巻 白黒 無声 。

吉頂寺晃 (キッチョウジ・ヒカル)
本名 (旧姓名) 岡崎光彦(岡崎 光)
旧芸名・別名 吉頂寺光・吾妻三郎・ 岡崎光彦
生年月日 明治39年4月7日生 初出演作品 昭和元年「高松吾嬬プロ」「男児の一諾」
経歴  高松プロダクション吾嬬撮影所研究生

何てものがでてきました。「吉頂寺さん」は、後年、「モスラ」や「ウルトラマン」にも出演していたそうです。

こんな顔の役者さんです。「ウルトラマン」で見たような気が、
「しない・・・・・・?。でもない・・・・・・?」


いや!この顔「見た」気がしてきました。こんな人が出てました。この人、「高松プロダクション」の「研究生」出身だったんですね。

「吉頂寺さん」もあの十間橋通りを歩いていたのですね。


こんな写真も見つけました。昭和30年代の「十間橋」です。


「十間橋通り」よかったです。

この日は、八広、四つ木を通り亀有まで歩きました。カレーで摂取した「カロリー」は全て使い果たしました。

暇人にとっても、「年末」は何かと忙しいです。2日には「孫」が遊びにきます。待ち遠しいです。

  さぁ。早く寝よ   



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする