歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

奥戸橋の「ペスタロッチ」と「永六輔」

2007年04月22日 | 映画の話し
昨日の続きです。

永六輔とペスタロッチの関係なのですが、それは、私が20代の頃に、観た映画です。今から30年ほど前のことです。

その頃、働かないで「半年ほど」、「ブラブラ」していた時期があるのです。本を読んだり、映画を見たりしていました。

お金はないけれど、時間があったので、映画を見に「池袋」の「映画館」まで、歩いて行ってました。赤羽に住んで居たので、片道2時間以上かかったと思います。

その時に観た映画がの中で「唯一」「封切り館」で観たのが、永六輔の『※第一回主演作品』の『春男が翔んだ空』です。

※当時、彼が冗談で言ってました。映画館の前にもそんな看板が立っていた記憶があります。

その映画は、「野杉春男」という日本の「心身障害児教育」に、先駆的役割を果たした「教育者」の半生を画いた作品でした。

野杉春男は昭和47年(1972年)に航空機事故でモスクワで42歳で亡くなりました。ちょうど厄年ですね。

その彼が信奉していたのが、スイスの教育者「ペスタロッチ(1746~1827)」です。映画の中に名前が出てきました。

それで、その池袋の「封切り館」で、平日の午前中に観たのですが、館内は空席のほうが多かった気がします。

冒頭の「タイトルバック」に、早朝、緑の土手を「詰め襟」姿の「春男=永六輔」が「自転車オートバイ」で「登校」するシーンが流れたのです。

その時、私は、それだけで「涙」が出てきたのです。それだけで、感動してしまったのです。

「ブラブラ」している自分と、「真面目」で「立派」な「春男」の「姿」に泣けてきたのです。

「詰め襟」と「自転車オートバイ」が泣けました。その時のことは今でハッキリ覚えています。客席は「がらがら」でしたから、回りを気遣う必要はありませんでした。

しかし、それから、私は「心」を新たに「真面目」に働き出した・・・・・・という事にはなりませんでした。

それで、この映画ですが「永六輔」が「初主演」として、少しは「話題」になりましたが、内容的には、「地味」で「真面目」な「内容」を「普通」に画いた「普通の作品」でした。

当時、『そうか、そうか』と云った評価で、賞もとらず、ベストテンにも入らず、話題にもならず、興行的にも失敗だったと思います。

この年(1977年)、話題になったのは『幸福の黄色いハンカチ』で、ほとんどの賞を持って行きました。 この映画、いまだに見てません。


それで、奥戸橋で「ペスタロッチ」を見て、「春男」を思いだし、帰宅後に「本棚」から、当時、映画館で買った「脚本」と「本」を引っぱり出し、ページをめくってみました。


これが脚本です。


土手を「自転車オートバイ」で疾走するシーンは「冒頭」ではありませんでした。


こちらが「シーン1」でした。

これが1975年に出版された本です。映画の「原作本」です。本の内容が「装丁」に反映されていません。地方の小さな出版社で「予算」が無かったのでしょう。


この方が、日本の「ペスタロッチ」、「野杉春男」さんです。


1972年に飛行機事故で亡くなられ、1975年に本が出版され、1977年に映画化されました。

それでです。何故?「ペスタロッチ」の「碑」が奥戸橋にあるのか、どんな関わりがあるのか調べてみたのです。

長くなりました。この疑問の答えは次回とします。

それでは、また明日。

コメント (2)
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