「立石シリーズ」の「おまけ」です。
「青砥」は「青砥」で、すべて「青砥」と思っていました。今回、始めて気が付きました。
町名は「青戸」で、
京成の駅名は「青砥」だったのです。
これって以前に書いた、JRの「尾久駅」が「おく」と濁らず、町名の「尾久」は「おぐ」と濁る、あれと「ちょっと似て」います。
『ナゼ?何だろう! ドウシテ?何だろう!』と、大調査を敢行しました。先ずは、「PC」の所から、3歩ほど離れた所にある「本箱」を「捜索」しました。
捜索を開始して3分ほどで発見! 『東京地名考下・・・朝日新聞社』。1986年に発行された文庫本です。
ありました、85ページに「青戸」が、冒頭の文章は「いきなり」、「葛飾区史」の引用で始まりました。
------ 引 用 開 始 ------
地名は、古今を通じて青戸である。京成電鉄の駅名・青砥の文字は「むかしから公称として使われたことは一度もない」と『葛飾区史』も念を押す。
「村名の起こりは青砥左衛門の城跡に御座候」と青戸村名主が慶応四年(1868年)に記しているように、鎌倉幕府の名判官・青砥藤綱が晩年をこの地で過ごしたと地元で信じられていた。
ー中略ー
青戸=青砥説は、地名の類似から、また葛西城を藤綱の居宅跡と誤り伝えたことから生じたらしく、いまだに混乱があるそうだ。
戸は津の転訛で、大昔の船着き場の意味。この地も古利根川の沿岸にあたり、奥戸、松戸、今戸と同じく地形から生じた古い地名である。
------ 引 用 終 了 ------
面白いですね、もしかして、京成の駅名を決める時に「一悶着」あったような気がします。
青砥藤綱は「名判官」として「人気」があったらしく、「青戸」の住民は、読みとして「同じ」なので、人気者と地元を関連付けたかったのでしょう。
史実に基づかぬ「青砥」説を主張する地元民に対して、歴史的に正しい「青戸」説を主張する役場との「熾烈」な「闘い」があり、住民側が勝利して「青砥駅」が誕生したのかも?知れません。
青砥駅が開設されたのは昭和3年(1928年)のことです。区は『むかしから公称として使われたことは一度もない』と「怒って」いる様子です。
しかしです。「公称」として、その後「青砥」が使われてしまった事実を! 今回、わたくしは発見しました。(誰でも知ってるぞ!)
「青戸」を通る、環状七号線に架かる橋は「青砥橋」なのです。この時も「第二次青戸・青砥戦争」が「勃発」したのかも?知れません。
東京オリンピックが開催された1964年に、※環七のこの区間が開通しているので、青砥橋が架けられたのはこの頃です。この時も、「青砥」説が勝利しました?
※環七のこの区間の開通は1985年で1964年は誤りでした・・・2010年11月8日訂正
たぶん普通の東京都民は、私のように「青砥」は「青砥」と思っている筈です。「青戸」の町民は別ですけどね。
きっと、この橋の名前を決めた時は、何も考えることも、迷うことも「無く」、青砥橋に決まってしまった気もします。
葛飾区はその時に 歴史の「改竄だ!」と「抗議」しなかったのでしょうか?「青砥藤綱」の「誤認」を含めて、「歴史」となってしまったようです。
上の青砥橋の写真ですが、まさしく、青戸の「戸」は「津」が転訛したものを「証明」するように、今でも「漁船」が係留されています。
青戸は「やっぱり」船着き場なのです。ここで敢えて「青砥橋」は「青戸橋」と主張したいと思います。
「駅名」については、「青砥」のままで、「まぁ。いいか」と思うのであります。
「青砥・青戸」も「いろいろ」あります。「立石シリーズ」の「おまけ」でした。
明日も「おまけ」の可能性があります。
それでは、また明日・・・・・・