かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

最近すっかりレクター博士に浸っています。今日は映画「ハンニバル」を観てみました。

2007-04-21 23:59:41 | Weblog
 今日は、週明けに少々改まったお客を迎えるために、部屋の大掃除に取り組んでおりました。まあごみが出るわ出るわ。溜め込んでおいたスーパーの買い物袋が次々とパンパンに膨らんで口が縛られていき、久々に床が見える、というくらい部屋が片付いてきました。とは言え、まだ道は半ば。明日は残りを徹底して片付け、わずかに灯油が残っているストーブも物置にしまいこんで、何ヶ月ぶりかの整理整頓された部屋模様を取り戻す予定でおります。
 と言うような多忙な一日にもかかわらず、今日は合間を見て映画「ハンニバル」を鑑賞しておりました。この忙しいときにこれを観ていたがために一日で掃除を終えられなかった、とも言えるのですが、「羊たちの沈黙」を読み終えたところで、映画館に行きそびれたこの作品を、どうしても一度観ておきたくなったのです。ちょうど「ハンニバル・ライジング」も始まりましたし、できればこれは観に行こうと思っておりますので、その予習も兼ねて,と言うことで、急に見てみる気になったのでした。
 さて、「ハンニバル」の原作は、上下巻2冊になった分厚いものです。ワシントンDCで窮地に追い込まれていくヒロインのクラリス・スターリングと、名前を偽って表世界に現れたレクター博士の血みどろな活躍を描く前半、そのレクターに復讐することを願うかつての患者にして大金持ちのメイスン・ヴァージャーとの死闘を描く後半、それぞれだけで一本の作品として独立して描けるのではないか、と思えるほどの贅沢なつくりの内容ですが、それを一本の映画に収めることが果たしてできるのか、鑑賞前にかなりの疑問を覚えておりました。その疑問は前半わずかに外れ、後半大きく首肯せざるをえなかったのですが、一方私も「ハンニバル」を読んでから随分経ってしまっていますので、映画を観ながら、ああそういえばこんなエピソードもあった、と思い出すような按配でしたから、疑問そのものが怪しいと言えばかなり怪しい状態でもありました。それを加味して判断すれば、一つの映画作品としては、十分に楽しめる内容だったということは言えると思います。今、その辺を改めて考えるべく「ハンニバル」の再読を始めているところなので、今日の感想はある意味暫定的なものです。そこで、今回は「ハンニバル」公開時に結構議論もあったやに聞くラストシーンの改変についてだけに絞っておこうと思います。
 あれは、今更ではありますが、私は正直言って残念に思いました。レクターがクラリスの未来を閉ざした司法省のクレンドラー次官補の頭を切り開き、その脳みそを調理しているシーン。その残酷な描写はさすがに戦慄を覚えましたが、原作にあるレクターとクラリスの和やかな交歓は一切無く、ただレクターの残酷さだけが突出して描きこまれているような印象を受けました。レクターの怪物らしさを強調したかったのではないかと思いましたが、原作の異常な優雅さに比して、その見せ方が少々陳腐だったような気がしてなりません。また、ラストシーン、クラリスの抵抗によって手錠でつながれた自分とクラリスの腕。すぐそこに迫る警官隊から逃げるために、なたのような包丁を振りかざし、その腕を切り落とすことにしたレクターと衝撃に顔をしかめるクラリス。しかし、切り落としたのは自分の腕の方だった、というオチも、稀代の天才犯罪者が選ぶ道としては、将来に禍根を残すような選択が疑問に感じるラストでした。そして、これはラストだけの問題ではないのですが、一番不思議だったのは妹ミーシャの記憶、と言う悪夢に苛まれるレクターの描写が一切無かったこと。2時間少々に話を収めるため色々なエピソードや登場人物が削られたのは致し方ないにしても、このエピソードだけは削るべきではなかったのではないか、と私には思えます。所詮後悔先に立たない話ではありましょうが、「ハンニバル・ライジング」のためにも、しっかり描写しておく必要があったんではないでしょうか? 

コメント
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