「ああ社長、お帰りなさい」
エレベーターには二人の先客がいた。
一人は、背丈が美奈くらいしかない初老の男である。頭髪もまばらな血色の良い丸顔に、格子縞のはち切れそうなスーツ姿が、所在なげにちょび髭を右手でいじっている。
もう一人は、白衣に身を包んだやせぎすの青年であった。
美奈は、まりのような男からは好奇の視線を投げかけられ、白衣の青年からは、細面の銀縁眼鏡の奥からやや険のある視線で見つめられて、いやが上にも緊張に身を固くした。
男は、そんな美奈をさりげなく自分の後ろになるよう身体の位置を動かしながら、二人に挨拶を返した。
「ただいま戻りました。嶋田さん、今日はなにかご用ですか?」
男は慣れた手つきで素早く5階のスイッチを押した。途端にエレベーターのドアが閉まり、美奈は息が詰まるような思いに出来るだけ男の影になるよう身を小さくした。
「なに、吉住博士が面白いものが出来たから是非見てくれ、っていうんでね。貴方と一緒に拝見しようと出向いてきたんですよ」
嶋田と呼ばれた背の低い男が、絵に描いたような甲高い声を上げた。そのあまりのはまりぶりに、思わず美奈は吹き出しそうになる。
「吉住君、それはこの間君が私に提案してくれた例のものかね?」
吉住と呼ばれた青年は、神経質そうに眼鏡の位置を直しながら答えた。
「そうですよ。やっと完成しました」
例のもの? 美奈はわずかに好奇心を刺激されたが、直ぐにうつむいて男の影に隠れた。嶋田の方が、美奈に数倍する好奇心に満ちた目で、美奈を見つめ返してきたからである。
「それでそのお嬢さんは?」
「ああ、彼女は私の研究を手助けしてくれるボランティアですよ」
「ほーう、まだ小さいのになかなか立派な心がけだ。お嬢さん、お名前は?」
美奈は何故か顔を赤くしてその視線から逃れられないかと考えた。嶋田の顔は柔和で無邪気な老人を思わせる。だがその視線が、何故か自分の内側まで見透かす透視能力を持っているかのように感じたのである。とはいえ、名前を問われて黙っているわけにもいかない。美奈はうつむきながら小さく答えるしかなかった。
「美奈ちゃんか、いい名前だね。私は嶋田輝と言います。一応、このドリームジェノミクス社と吉住博士のナノモレキュラーサイエンティフィックのオーナーと言う事になっているんだ」
この人が? 美奈は恥ずかしさも忘れて嶋田の顔を見上げた。
「驚いたかね? 美奈ちゃん。そんな金持ちには到底見えないでしょう?」
まるで年端のいかぬ少女のようにころころと笑う姿には、確かに会社を経営する資産家を想像するのは難しい。その嶋田の笑いが納まらぬ内に、エレベーターが停止し、ドアが開いた。
「では、30分後でいいかね?」
吉住と共にエレベーターを降りながら嶋田が言った。
「ええ。出来るだけ早く行きますよ」
「では後ほど。美奈ちゃんも、またね」
愛想良く手を振る姿が再び閉じたドアの向こうに消え、美奈はようやく息をついた。すると、男が振り返って美奈に言った。
「そう緊張しなくていい。また改めて君に紹介するが、嶋田さんは私の趣旨に賛同して巨額の投資をして下さった恩人だ。もう一人の吉住君は私の優秀な助手でね。ナノモレキュラーサイエンスの専門家なんだ。私の構想を実現に向けて動かせるようになったのも、まさに二人のおかげなんだよ。まあどちらも少し性格に難があるが、夢魔と闘う同志と言うわけだ。さあ、ここで降りよう」
なのもれきゅらーさいえんす? 美奈はさっぱり判らない単語に面食らいながら、5階で開いた扉から男と共にエレベーターを降りた。そのまま淡い紫の絨毯が敷き詰められた通路を歩き、やがて一つのドアの前に立つと、男はノブを回して内側に開けた。
「研究に協力して貰う間、君にはここで暮らして貰う」
美奈は、ホテルの一室にしか見えない部屋へと招じ入れられた。壁際にセミダブルのベットが据えられ、クローゼットと一体化したテーブルの端に電話が置いてあった。奥の窓は厚いカーテンで隠されていたが、試しに少し空けてみると、単なる転落避けにしてはしっかりした鉄格子が填っているのが見えた。これでは窓から逃げることは出来ない。他にドアは、ユニットバスとトイレがあるばかりだ。
「今日はこのままゆっくり休んでくれたまえ。すぐに食事を運ばせる。何か欲しいものがあったら、その電話で1を回せばホテルで言うフロントに繋がるからそこに注文してくれ。出来るだけのことはさせて貰うよ」
ではこれで、と出ていこうとした男に、美奈は慌てて問いかけた。
「私! いつまでここにいればいいんですか?」
すると男は、半分ドアから身体を出した状態で、美奈に振り返った。
「そう長くはない。せいぜい10日を超えることはないだろう」
「じゃあ、うちに連絡させて下さい」
「今は駄目だ。お母さんの事が心配だろうが、少しの間我慢してくれ。家には取りあえず私から連絡しておく」
男はそれだけ言い置くと、そのまま残っていた半身をドアの向こうにすっと消した。
「あ、待って! もう一つだけ! おじさんは誰? それにあの夢は一体何なの?」
すると、一旦閉じかけたドアが再び開き、男の顔が部屋の中を覗き込んだ。
「私の名は高原。高原研一だ。この会社の社長をしているしがない科学者だよ。あの夢のことはまたいずれ話をしよう。今日はゆっくり休んでくれ」
それだけ言い残して、こんどこそ高原はドアを閉めた。美奈はもう一度、待って! と叫んでドアに取り付いたが、外から鍵がかけられたのか、いくらノブを回しても再び開くことはなかった。美奈はそれでも何度かがちゃがちゃ繰り返していたが、やがて諦めてベットサイドに腰掛け、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。緊張は少し解けたものの、やはり何となく全体が胡散臭く、悪夢に近い不安を覚えずにはいられない。一体、この自分に何をさせようと言うのだろう?
エレベーターには二人の先客がいた。
一人は、背丈が美奈くらいしかない初老の男である。頭髪もまばらな血色の良い丸顔に、格子縞のはち切れそうなスーツ姿が、所在なげにちょび髭を右手でいじっている。
もう一人は、白衣に身を包んだやせぎすの青年であった。
美奈は、まりのような男からは好奇の視線を投げかけられ、白衣の青年からは、細面の銀縁眼鏡の奥からやや険のある視線で見つめられて、いやが上にも緊張に身を固くした。
男は、そんな美奈をさりげなく自分の後ろになるよう身体の位置を動かしながら、二人に挨拶を返した。
「ただいま戻りました。嶋田さん、今日はなにかご用ですか?」
男は慣れた手つきで素早く5階のスイッチを押した。途端にエレベーターのドアが閉まり、美奈は息が詰まるような思いに出来るだけ男の影になるよう身を小さくした。
「なに、吉住博士が面白いものが出来たから是非見てくれ、っていうんでね。貴方と一緒に拝見しようと出向いてきたんですよ」
嶋田と呼ばれた背の低い男が、絵に描いたような甲高い声を上げた。そのあまりのはまりぶりに、思わず美奈は吹き出しそうになる。
「吉住君、それはこの間君が私に提案してくれた例のものかね?」
吉住と呼ばれた青年は、神経質そうに眼鏡の位置を直しながら答えた。
「そうですよ。やっと完成しました」
例のもの? 美奈はわずかに好奇心を刺激されたが、直ぐにうつむいて男の影に隠れた。嶋田の方が、美奈に数倍する好奇心に満ちた目で、美奈を見つめ返してきたからである。
「それでそのお嬢さんは?」
「ああ、彼女は私の研究を手助けしてくれるボランティアですよ」
「ほーう、まだ小さいのになかなか立派な心がけだ。お嬢さん、お名前は?」
美奈は何故か顔を赤くしてその視線から逃れられないかと考えた。嶋田の顔は柔和で無邪気な老人を思わせる。だがその視線が、何故か自分の内側まで見透かす透視能力を持っているかのように感じたのである。とはいえ、名前を問われて黙っているわけにもいかない。美奈はうつむきながら小さく答えるしかなかった。
「美奈ちゃんか、いい名前だね。私は嶋田輝と言います。一応、このドリームジェノミクス社と吉住博士のナノモレキュラーサイエンティフィックのオーナーと言う事になっているんだ」
この人が? 美奈は恥ずかしさも忘れて嶋田の顔を見上げた。
「驚いたかね? 美奈ちゃん。そんな金持ちには到底見えないでしょう?」
まるで年端のいかぬ少女のようにころころと笑う姿には、確かに会社を経営する資産家を想像するのは難しい。その嶋田の笑いが納まらぬ内に、エレベーターが停止し、ドアが開いた。
「では、30分後でいいかね?」
吉住と共にエレベーターを降りながら嶋田が言った。
「ええ。出来るだけ早く行きますよ」
「では後ほど。美奈ちゃんも、またね」
愛想良く手を振る姿が再び閉じたドアの向こうに消え、美奈はようやく息をついた。すると、男が振り返って美奈に言った。
「そう緊張しなくていい。また改めて君に紹介するが、嶋田さんは私の趣旨に賛同して巨額の投資をして下さった恩人だ。もう一人の吉住君は私の優秀な助手でね。ナノモレキュラーサイエンスの専門家なんだ。私の構想を実現に向けて動かせるようになったのも、まさに二人のおかげなんだよ。まあどちらも少し性格に難があるが、夢魔と闘う同志と言うわけだ。さあ、ここで降りよう」
なのもれきゅらーさいえんす? 美奈はさっぱり判らない単語に面食らいながら、5階で開いた扉から男と共にエレベーターを降りた。そのまま淡い紫の絨毯が敷き詰められた通路を歩き、やがて一つのドアの前に立つと、男はノブを回して内側に開けた。
「研究に協力して貰う間、君にはここで暮らして貰う」
美奈は、ホテルの一室にしか見えない部屋へと招じ入れられた。壁際にセミダブルのベットが据えられ、クローゼットと一体化したテーブルの端に電話が置いてあった。奥の窓は厚いカーテンで隠されていたが、試しに少し空けてみると、単なる転落避けにしてはしっかりした鉄格子が填っているのが見えた。これでは窓から逃げることは出来ない。他にドアは、ユニットバスとトイレがあるばかりだ。
「今日はこのままゆっくり休んでくれたまえ。すぐに食事を運ばせる。何か欲しいものがあったら、その電話で1を回せばホテルで言うフロントに繋がるからそこに注文してくれ。出来るだけのことはさせて貰うよ」
ではこれで、と出ていこうとした男に、美奈は慌てて問いかけた。
「私! いつまでここにいればいいんですか?」
すると男は、半分ドアから身体を出した状態で、美奈に振り返った。
「そう長くはない。せいぜい10日を超えることはないだろう」
「じゃあ、うちに連絡させて下さい」
「今は駄目だ。お母さんの事が心配だろうが、少しの間我慢してくれ。家には取りあえず私から連絡しておく」
男はそれだけ言い置くと、そのまま残っていた半身をドアの向こうにすっと消した。
「あ、待って! もう一つだけ! おじさんは誰? それにあの夢は一体何なの?」
すると、一旦閉じかけたドアが再び開き、男の顔が部屋の中を覗き込んだ。
「私の名は高原。高原研一だ。この会社の社長をしているしがない科学者だよ。あの夢のことはまたいずれ話をしよう。今日はゆっくり休んでくれ」
それだけ言い残して、こんどこそ高原はドアを閉めた。美奈はもう一度、待って! と叫んでドアに取り付いたが、外から鍵がかけられたのか、いくらノブを回しても再び開くことはなかった。美奈はそれでも何度かがちゃがちゃ繰り返していたが、やがて諦めてベットサイドに腰掛け、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。緊張は少し解けたものの、やはり何となく全体が胡散臭く、悪夢に近い不安を覚えずにはいられない。一体、この自分に何をさせようと言うのだろう?