かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

松永弾正久秀の子孫が今も続いている事に驚きました。

2015-10-13 19:29:20 | Weblog
 今日は、午前中から胃が重く、昼過ぎ、2時位からは痛みが強く、まるでナポレオンの肖像画みたいに、終始左手の平を服の上からみぞおちやや上にあてがっていました。原因は、この間の人間ドックで十二指腸が荒れていると宣告されていたのが悪化したのだろうと思いますが、多分この所睡眠不足気味だったことや、昨夜は仕事でビールやワインと共に中華系の夕食を若干暴飲暴食気味に食べてしまったため、ついに限界を超えてしまったのでしょう。朝は昨夜の事を鑑み、ホテルの朝食もおかゆを中心に油物を避け消化の良い物を取るようにしたのですが、昼食は選択ができず、カレーライスを食べるよりありませんでした。調子が良くないのは朝から自覚しておりましたから胃薬も飲んだのですが、とてもそれくらいで追っつくレベルではなかったのでしょう。幸いにして夕方には痛みが薄れてきましたので、夕食は油と刺激物を避け、消化が良いものを選んで、胃薬もしっかり飲みましたが、食後1時間を経て、とりあえず痛みは出ておりません。このまま夜痛みが出たりしなければよいのですが、いずれにせよ早く寝てゆっくり休む必要があるでしょう。

 さて、一昨日の10日、松永弾正久秀の子孫の方々など50人が、奈良県王寺町の達磨寺にある久秀の墓所で法要を営んだとのことです。松永弾正といえば、将軍殺し、主家乗取り、大仏殿放火、度重なる裏切り行為と戦国時代最大級の悪人として世に知られる梟雄です。ただ、主家関連は戦国時代のこと、どこの誰も皆やっていると言ってもあながち間違ってもいない下克上の世の中の話ですし、大仏殿放火については実は濡れ衣という話もあり、裏切りもまたこの時代の一つの特徴でもあり、色々顧みると、実は13代将軍義輝を三好三人衆とともに殺害した事位が正当な悪事として数え上げられるだけなのではないか、と思われます。
 それよりも、築城術に長け、戦に強く、当時有数の文化人と、実に魅力的な御仁であり、私は戦国武将の中で1,2を争う好きな人物です。多分当時の人材としては飛び抜けて頭が良く、自ら頼むところの多い力のある人物だったのでしょうが、そういう人物が最後の最後で選択を誤って自滅するという劇的な物語は、私が最も好むものでもあります。しかもラストが本邦初の自爆、道連れは国宝級茶道具の平釜とあって、その徹底した劇画チックな終焉は、もう見事というよりありません。
 我が国の勧善懲悪的な倫理観からは最も外れた一人で、評価もさんざん、描かれる時はとにかく大悪人として描かれてしまいますが、多分そんな自分の姿をカンラカンラと笑い飛ばす位はするんではなかろうか、と勝手に想像してしまう快男児だったのでは、と思います。

コメント
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