今日は若松公民館・センターの竣工式の後、地域医療のシンポジウムに行きました。地域医療については、市民、行政、医療機関の連携だけでなく、議会もどのように関わっていくのか、しっかり考えなければいけないと思いました。
さて、スポーツ計画に関連してですが、スポーツのとらえ方について非常に奇異に感じることがあります。というのは、それはニュースポーツを誰もが参加できるスポーツと表現し、これまでのスポーツを競技スポーツとして分けてしまっていることです。
確かに、サッカーやバレー、野球、バドミントン、卓球などなど、オリンピックやワールドカップなどの形で、勝敗を非常に意識した方向性があるのは事実です。しかし、それがすべてかと言えば、そうでないことはすぐにわかるはずです。
例えば、サッカーであれば広場でしているボールけりから始まって、その行きつく先にプロやワールドカップがあるだけのはずです。ボールが一個あれば、誰でも参加できるはずです。ただ、誰でもが楽しむためには、既存のルールだけではなくて、年齢なども考慮して、独自のルールを作るなどすればいいわけですし、フットサルなども同じ流れで考えることができるはずです。
では、ニュースポーツと言われる競技が、まったく勝敗を意識しないかと言えばそうではなく、そのための大会が行われている現状があることは事実です。試合をして、他者と競い合うことがあるのであれば、程度の差こそあっても、それもまた競技スポーツだと言えるのではないかと思います。
つまり、誰もが参加できるということを錦の旗にして、論理のすり替えをしているように感じるのです。競技スポーツと表現されているスポーツも、誰もができるとされているニュースポーツも、本質的なところでのスポーツの魅力は変わらないはずだからです。
そうであるのに、わざわざ区別するようにしてしまうことは、資源の投資の方向性として、決して良いとはいえないでしょう。
競技スポーツとニュースポーツで区分して考えるのではなく、すべてをスポーツというくくりで扱うべきです。その上で、体育施設の状況であるとか、全ての要素を考えながら、一人でも多くの人がスポーツに取り組めるように考えるべきだと思います。
さて、スポーツ計画に関連してですが、スポーツのとらえ方について非常に奇異に感じることがあります。というのは、それはニュースポーツを誰もが参加できるスポーツと表現し、これまでのスポーツを競技スポーツとして分けてしまっていることです。
確かに、サッカーやバレー、野球、バドミントン、卓球などなど、オリンピックやワールドカップなどの形で、勝敗を非常に意識した方向性があるのは事実です。しかし、それがすべてかと言えば、そうでないことはすぐにわかるはずです。
例えば、サッカーであれば広場でしているボールけりから始まって、その行きつく先にプロやワールドカップがあるだけのはずです。ボールが一個あれば、誰でも参加できるはずです。ただ、誰でもが楽しむためには、既存のルールだけではなくて、年齢なども考慮して、独自のルールを作るなどすればいいわけですし、フットサルなども同じ流れで考えることができるはずです。
では、ニュースポーツと言われる競技が、まったく勝敗を意識しないかと言えばそうではなく、そのための大会が行われている現状があることは事実です。試合をして、他者と競い合うことがあるのであれば、程度の差こそあっても、それもまた競技スポーツだと言えるのではないかと思います。
つまり、誰もが参加できるということを錦の旗にして、論理のすり替えをしているように感じるのです。競技スポーツと表現されているスポーツも、誰もができるとされているニュースポーツも、本質的なところでのスポーツの魅力は変わらないはずだからです。
そうであるのに、わざわざ区別するようにしてしまうことは、資源の投資の方向性として、決して良いとはいえないでしょう。
競技スポーツとニュースポーツで区分して考えるのではなく、すべてをスポーツというくくりで扱うべきです。その上で、体育施設の状況であるとか、全ての要素を考えながら、一人でも多くの人がスポーツに取り組めるように考えるべきだと思います。