Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

新潟県柏崎市訪問

2022年06月30日 | 身辺雑記
 6月初めに新潟県柏崎市に行った。従兄の連れ合いが亡くなったから。20代のころから難病と闘ってきたが、ついに力尽きた。それでも69歳まで生きた。本人は生前に「こんなに生きられるとは思わなかった」と言ったことがある。実感だったろう。

 お通夜は夕方からなので、ゆっくり東京を発てばよかったのだが、何年ぶりかの柏崎訪問なので、早めに行って市内を歩くことにした。といっても、行くあてもないので、柏崎市立博物館に行った。そこに行くのは初めてだ。駅前からタクシーで行くと、美しく整備された赤坂山公園の奥にあった。

 思いがけず、木喰上人の仏像が何体か(8体だったか9体だったか)展示されていた。木喰上人は柏崎に1年ほど滞在したらしい。柏崎で88歳の米寿を迎えた。そのときの作だ。微笑を浮かべた人間味のある木喰仏が完成した感がある。上掲(↑)の写真は館内で購入した絵ハガキだ。木喰仏の特徴がよく出ている。

 夕方からお通夜に参列した。数年ぶりに従兄に会った。従兄とは頻繁に電話で連絡を取り合っていたが、実際に会うと、声のイメージとは異なり、ずいぶん老けたように見えた。わたしと同様に子どもがなく、夫婦二人だけの生活だった。片方が亡くなると、そうとうこたえる様子だ。

 翌日は告別式。その後、火葬場まで行った。田んぼの一角を切り開いたモダンな火葬場だった。こういってはなんだが、その贅沢な造りに驚いた。不意に原発マネーという言葉が浮かんだ。その火葬場が該当するかどうかは、わたしは知るよしもないが、一般論としては、原発が立地する自治体には交付金が出て、自治体はその資金で公民館とか学校とかを整備するという話を聞いたことがある。

 そういえば、前日見た赤坂山公園や博物館も立派だったと思い出した。駅前の商店街のさびれた様子とは対照的だった。火葬場の贅沢な造りと照らし合わせて、なにか腑に落ちる思いがした。

 本来なら国は地方に税金を潤沢かつ公平に配分して、地方の自立を促すべきだが、そうはせずに、地方への配分を抑え、原発などの誘致に頼らざるを得ない状況に追い込む。そんな財政の仕組みとはいったいなんだろう。おりしもわたしが柏崎を訪れる直前に新潟県知事選があった。結果は、原発再稼働の賛否を明らかにしない(選挙の争点にしない)現職が圧勝し、再稼働に反対する候補者は敗れた。県民の中には「現職はいずれ再稼働を認めるのではないか」と危惧する人もいただろう。だが、それには目をつむって、経済優先で現職に投票した人もいるかもしれない。県民も追い込まれているのだ。
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ヴァイグレ/読響

2022年06月27日 | 音楽
 ヴァイグレ指揮読響の日曜マチネーシリーズへ。1曲目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲。バランスのとれた音の構築が快い。冒頭のホルンのテーマが細かくアクセントをつけられ、音楽を推進する。その一方で、おどろおどろしいところがないのはヴァイグレ流か。

 2曲目はモーツァルトのファゴット協奏曲。ファゴット独奏はフランス人の女性奏者ロラ・デクール。デクールはヴァイグレが音楽監督をつとめるフランクフルト歌劇場のソロ・ファゴット奏者だ。ファゴット特有の、どこかとぼけた音色と、滑らかな音の連なりが楽しめた。

 アンコールがまた楽しかった。だれの、なんという曲かはわからないが(読響のホームページにも会場の東京芸術劇場のホームページにも載っていない)、ユーモラスで、むしろコミカルな小品だ。最後は奏者が短いフレーズを繰り返しながら退場する。会場からはドッと笑いが起きる。デクールのプロフィールには「劇やダンスなど」にも関心を持ち、コラボ企画にも参加しているとある。芝居気のある人かもしれない。

 協奏曲ではオーケストラの演奏にも注目した。穏やかで、流れのよい演奏だった。とくに第2楽章での弦楽器の澄んだ音色が印象的だった。わたしが初めてヴァイグレの演奏を聴いたのは、2002年5月のベルリン国立歌劇場でのモーツァルトの「後宮からの逃走」だった。ヴァイグレという名前さえ知らなかったが、流れがよくて、とてもよい演奏だと思った。後年になって、バイロイトで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴いたが、それはあまり印象に残っていない。ともかく、当日のファゴット協奏曲には、もう20年前になる「後宮からの逃走」を想い出させる要素があった。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第7番。リフレッシュされた音と、重くならないリズム。結果、清新な演奏だ。弦楽器はノンヴィブラートだが、チェロはヴィブラートをかけていたようだ(意図あってのことだろう)。第3楽章はけっして野放図に鳴らさずに、弱音が徹底的にコントロールされている。第4楽章は快速テンポ。オーケストラが一糸乱れずについていく。恐ろしいほどの切れ味のよさだ。さりげない所に生まれた名演だろう。

 ヴァイグレは現代ドイツの巨匠といってもよいポジションにあるが、その演奏は往年のドイツの巨匠とは一味違い、明るくポジティブで、深刻ぶらない。尖ったところはなく、基本的には保守的だが、ゴリゴリの保守ではなく、現代人の感覚に合ったところがある。そして、わたしなどがいうまでもないが、音楽的な能力がきわめて高いことは、当日の読響がとてもよい状態にあったことが証明する。
(2022.6.26.東京芸術劇場)
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ヴァイグレ/読響

2022年06月22日 | 音楽
 ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はルディ・シュテファンの「管弦楽のための音楽」。ルディ・シュテファンは1887年生まれのドイツの作曲家だ。第一次世界大戦に従軍して、1915年に戦死した。戦死した場所は現在のウクライナだ。プログラムを組んだときにはもちろんロシアのウクライナ侵攻は始まっていなかったので、たんなる偶然に過ぎないが、現在のウクライナ情勢のもとでこの曲を聴くと、今こうしている時も多くの若者が命を失っている現実と重なる。

 「管弦楽のための音楽」は1912年の作品だ。近年ではキリル・ペトレンコがベルリン・フィルを指揮して演奏している。またこの作曲家には「最初の人類」(1914年)というオペラがあり、最近ではフランソワ=グザヴィエ・ロトがオランダ国立歌劇場で上演している。ヨーロッパで再評価が進む作曲家なのだろう。

 わたしはルディ・シュテファンの作品を聴くのは初めてだ。一聴したところ、同世代のアルバン・ベルク(1885‐1935)とは距離があり、むしろシュレーカー(1878‐1934)につながる資質の持ち主かもしれないと思ったが、どうだろう。具体的にいうのは難しいが、同じ文化の爛熟とはいっても、12音技法には向かっていきそうもないものを感じた。

 2曲目はブルックナーの交響曲第7番(ノヴァーク版)。第1・第2楽章の、ゆったり抑揚をつけた深い呼吸の演奏と、それとは対照的に第3・第4楽章の、指揮者とオーケストラが寸分の隙もなく一体化した躍動的な演奏と、それぞれが達した高度な水準に息をのんだ。とくに第3・第4楽章の充実した音は驚異的だった。ヴァイグレは1961年生まれだ。今年61歳。ちょうど脂がのりきった時期なのだろう。この時期でなければ出せない音が出ていたように思う。

 わたしは心からその演奏を称賛するが、その上であえていえば、ヴァイグレの演奏には一種の楽天性を感じる。滑らかで、耳障りなところがなく、しかもフォルテの音は充実しているのだが、その反面、あまり深刻にはならない。その意味でリヒャルト・シュトラウスの作品には抜群の相性の良さを感じる。一方、他の作品には判断を留保したいときがある。もちろん、慌てて付け加えれば、今度のブルックナーは、オーケストラを聴く醍醐味という点では、なにら文句をつける筋合いはないが。

 ヴァイグレの評価ということでは、もうひとつ、山崎浩太郎氏がプログラムに書いているように、ハンス・ロットやフランツ・シュミットなど「ドイツ語圏の知られざる音楽」を継続的に取り上げている点も重要だ。それが読響のプログラミングを幅広くさせ、ヨーロッパの第一線のオーケストラ並みにアップデートしている。
(2022.6.21.サントリーホール)
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秋山和慶/日本フィル

2022年06月18日 | 音楽
 ラザレフがウクライナ情勢を受けて来日を見合わせた。代役を引き受けたのは秋山和慶。それに伴い曲目も変わった。フランス音楽名曲選のようなプログラムだ。名匠・秋山和慶が日本フィルからどのような演奏を引き出すか。日本フィルの常連の指揮者にはないタイプなので、興味と期待が高まった。

 1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。アーティキュレーションの明確な演奏だ。細部に緻密なニュアンスが施されている。リズムが明瞭に浮き出る。ムードに流れる演奏ではなく、音楽的な構造がしっかりしている。一言でいうと、秋山和慶らしい演奏だ。それが日本フィルには新鮮だ。フルート独奏は首席奏者の真鍋恵子。当夜のプログラム中、3曲にフルート独奏がある。フルート奏者にはおいしいプログラムだ。

 2曲目はラヴェルの(両手のほうの)ピアノ協奏曲。ピアノ独奏は小川典子。5月に角野隼斗の独奏で聴いたばかりだ(オーケストラは藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル)。角野の尖った演奏にたいして、小川典子の演奏は、オーソドックスではあるが、磨き上げた仕上げのよさが見事だ。第2楽章はガラス細工のような輝きがあった。

 アンコールにドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が演奏された。しっとりとして、感性の襞にしみこむ演奏だ。わたしは小川典子がBISレーベルから出したドビュッシーのピアノ曲全集が好きなのだが、その演奏を思い出した。

 休憩後の3曲目はフォーレの管弦楽組曲「ペレアスとメリザンド」。きめの細かい細心のアンサンブルだ。これは悪口ではなく、賛辞としていうのだが、日本フィルのイメージを一新するようなインパクトがあった。わたしは日本フィルの定期会員なので、ラザレフ、インキネン、カーチュン・ウォンなどとの最上の演奏を聴いているが、それらの演奏とはまた肌合いの異なる、日本人的な感性の湿り気をもつ演奏といったらよいか。

 4曲目はラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲。もう何度聴いたかわからない曲だが、冒頭の「夜明け」の音型が、まさに泉が湧き出るように聴こえたのは、ほんとうに久しぶりだ。「無言劇」での真鍋さんのフルート独奏は、当夜のフルート・プログラムを締めくくるかのように、一段と高らかに鳴り響いた。

 秋山和慶は日本フィルが吸収すべきものを多く持っていることが、当夜の演奏を通じて明らかになったように思う。言い換えれば、いまの日本フィルは秋山和慶が持っているものを吸収できる状態にある。ラザレフの来日中止というアクシデントがもたらした共演ではあるが、それが今後につながることを願うのは、わたしだけではないと思う。
(2022.6.17.サントリーホール)
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川端康成「眠れる美女」

2022年06月13日 | 読書
 川端康成の「眠れる美女」は紛れもない傑作だと思う。三島由紀夫は新潮文庫の解説で「この作品を文句なしに傑作と呼んでいる人は、私の他には、私の知るかぎり一人いる。それはエドワード・サイデンスティッカー氏である」と書いている。解説が書かれたのは1967年11月だ。その後の時代の趨勢により、今では本作品を傑作だと思う人はもっと増えているような気がする。

 なぜそう思うかというと、本作品のグロテスクな幻想性が、今の時代に一層精彩を放つようになっていると感じるからだ。正確にいえば、本作品には執筆当時の時代的な制約を受けた部分と、時代を超越した部分があり、時代を超越した部分が、今でも異彩を放っていると感じるのだ。

 物語の場所は、海辺の一軒家。その家は老人限定の娼家だ。美女が全裸で眠っている。おそらく強い睡眠薬を飲まされているのだろう。叩いても揺すっても起きない。客の老人はその美女と添い寝をする。老人はすでに男性機能を失っている。だから安全だ。そういう老人でないと客になれない。主人公の江口老人はその家に5夜通う。

 5夜の出来事が本作品だ。美女は毎夜異なる。江口老人の欲情と、脳裏に浮かぶ過去の苦い想い出と、そしてその夜に見る悪夢が描かれる。本作品は三層構造だ。

 過去の想い出では、悔恨の情が江口老人を押しつぶす。一方、悪夢は、血の滴る凄惨な夢が多い。どこからそのような夢が訪れるのか。深層心理からだろうが、では、深層心理にはなにがあるのか。老いの実感、死への恐れ、性への渇望、悪への衝動、その他諸々。そこは溶鉱炉のような闇の世界というしかない。

 第一夜の想い出には、若き日の川端康成の実体験が投影されているのだろう。それは清純な想い出だ。ところがその夜に見る夢は、5夜の中でももっともグロテスクだ。その対比をどう考えたらよいのか。第二夜の江口老人の欲情は、5夜の中でももっとも激しい。それは老いにたいする性の反抗のようだ。第三夜には江口老人は過去に犯した悪を思う。第四夜には江口老人は魔界の存在を思う。そこでは善悪の区別が無意味化する。そして第五夜は死が訪れる。もっとも、死は江口老人に訪れるのではない。だが、三島由紀夫が解説で指摘するところによれば、江口老人も無事ではない。

 いうまでもなく、今のジェンダーの視点からは、問題大有りの作品だ。しかし、だからといって、禁忌すべき作品なのかどうか。ジェンダーに真摯に向き合うことと、人間の闇の部分に目を向けることと、両者は両立しないのか。本作品は心の奥底に虚無を抱えた川端康成の、自分も他人も突き放して眺める透徹した視線が交錯する作品だ。
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「自然と人のダイアローグ」展

2022年06月08日 | 美術
 国立西洋美術館で「自然と人のダイアローグ」展が始まった。ドイツの中部の都市エッセンにあるフォルクヴァング美術館の作品と国立西洋美術館の作品を並置したユニークな企画展だ。

 フォルクヴァング美術館には何度か行ったことがある。エッセンには演目および演出の両面で意欲的な活動を続けるエッセン歌劇場があり、わたしはオペラを観るために行ったのだが、昼間は暇なので、フォルクヴァング美術館で過ごした。静かな美術館の中で好きなだけ作品に向き合うことのできる贅沢な時間だった。

 本展に来ている作品には記憶に残っている作品もあれば、見たことのない(あるいはすっかり忘れている)作品もあるが、それらの作品が、質量ともに同等に、国立西洋美術館の作品と並べて展示され、しかもその並べ方が、ある共通のテーマにしたがって、そのテーマを深掘りするように並べられている点が特徴だ。

 さらにいえば、その並べ方は、フォルクヴァング美術館の作品と国立西洋美術館の作品を並べるだけではなく、フォルクヴァング美術館の作品同士を並べるケースもあれば、国立西洋美術館の作品同士を並べるケースもある。結果、展覧会全体が、作品同士の対話のざわめきで満たされているような印象を生む。

 チラシ(↑)にある作品はフリードリヒ(1774‐1840)の「夕日の前に立つ女性」だ。フリードリヒは本作を描いたころ、カロリーネ・ボマーと結婚した。作品に描かれているのはカロリーネだろう。夕映えの空にむかって両腕を少し広げている。そのポーズはカロリーネの感動を表すとともに、カロリーネの純粋さを表しているようにも見える。

 本作と並べて展示されている作品は、フリードリヒの周囲にいたカールス、ダール、シンケルの作品だ。詳細は省くが、カールスの作品はフリードリヒの作品(今では失われた「スイスの風景」だろう)の模写だ。またダールの作品はフリードリヒの「月を眺める男と女」(「月を眺める二人の男」の別バージョン)を参照していると思われる。

 本展のホームページ(※)に画像があるが、ガッレン=カッレラ(1865‐1931)というフィンランドの画家の「ケイテレ湖」という作品に惹かれた。2021年に国立西洋美術館が購入した作品だ。静かなフィンランドの湖。湖面に残る曲線は、フィンランドの民俗的な叙事詩「カレワラ」の英雄の航行の跡だそうだ。本作品はスイスの画家ホドラー(1853‐1918)の「モンタナ湖から眺めたヴァイスホルン」と並べて展示されている。スイスの湖とフィンランドの湖が共振し、互いに引き立てあっているようだ。
(2022.6.7.国立西洋美術館)

(※)本展のホームページ
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川端康成「掌の小説」

2022年06月05日 | 読書
 今年は川端康成の没後50年に当たる。そうか、もうそんなになるか、と思う。川端康成の自死は衝撃だった。若い作家ならともかく、功成り名遂げた老作家が……。

 没後50年を記念して、文学展が開かれたり、新たな研究が発表されたりしている。その報道に接するうちに、久しぶりに川端康成を読みたくなった。とはいえ、「伊豆の踊子」、「雪国」、「山の音」といった代表作には触手が伸びない。まず手に取ったのは「掌の小説」だ。「掌」は「てのひら」とも「たなごころ」とも読める。新潮文庫の解説では「てのひら」と読ませている。

 「掌の小説」とは(短編小説よりもさらに短い)掌編小説のことだ。川端康成の掌編小説は一作当たり平均して400字詰め原稿用紙で7枚程度だ(作品によって多少のちがいがあるが)。川端康成は作家生活の初期から晩年にいたるまで掌編小説を書き続けた。その数は諸説ある(研究者によって「掌の小説」にふくめたり、ふくめなかったりする作品があるからだ)。新潮文庫には122篇が収められている。

 122篇の中には駆け出しのころの作品もあれば、戦中戦後の世相を色濃く反映した作品もあり、また晩年に入ってからの作品もある。それぞれおもしろい。わたしが今回再読したのは晩年の中でも最晩年の作品群だ。

 川端康成は昭和37年(1962年)11月10日から翌年8月25日までの朝日新聞PR版に10篇の掌編小説を発表した。また昭和39年(1964年)1月1日の日本経済新聞に1篇を発表した。さらに同年11月16日の朝日新聞PR版に1篇を発表した。それらの12篇が最後の作品群だ。各々の作品は透徹した世界を形作っている。まるで硬い結晶体のようだ。

 それらの作品のどれか数篇を取り上げて、プロットを紹介してもよいのだが、その必要を感じない。どの作品もきわめて短いので、読めばすぐわかる。また作品の真価はプロットにあるのではなく、一切の無駄のない簡潔な文体にあるという気もする。

 それらの掌編小説が上記のように朝日新聞PR版に掲載されたとき、そこには東山魁夷の挿画が添えられていた(川端文学研究会編「論考 川端康成―掌の小説」(おうふう、2001年発行)所収の武田勝彦『「乗馬服」』より)。そして興味深い点は、「不死」、「月下美人」、「地」、「白馬」の4篇は、まず東山魁夷の挿画ができて、川端康成はその挿画に合わせて掌編小説を書いたということだ。そのせいなのかどうなのか、「不死」と「地」は12篇中で(というよりも、すべての掌編小説の中で)もっとも幻想的だ。また「月下美人」では(最後のシーンに出てくる)二階のバルコニーでバイオリンを弾く令嬢の姿が、どことなく唐突だ。それはそのような(先に挿画ができたという)経緯があったからかもしれない。
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SOMPO美術館「シダネルとマルタン展」

2022年06月01日 | 美術
 新宿のSOMPO美術館で「シダネルとマルタン展」が開催中だ。ウクライナ情勢その他で気持ちがすさみがちな昨今、せめて絵をみて、穏やかな日常を取り戻したい、と思うむきには格好の展覧会だ。

 本展に展示されているアンリ・ル・シダネル(1862‐1939)とアンリ・マルタン(1860‐1943)、そして本展には展示されていないが、エドモン・アマン=ジャン(1858‐1936)などの一群の画家たちは、親しく交わりながら、1890年代以降、旺盛な制作を続けた。その時期は、象徴派、フォービスム、キュビスムなどの新潮流が台頭する時期と重なった。それらの先鋭的な画風に比べると、シダネルもマルタンもアマン=ジャンも、印象派およびポスト印象派の末裔に位置付けられ、目新しさに欠けた。そのため美術史的にはあまり語られることはなかった。だが、そんなシダネルたちの画風は、主義主張に疲れた現代人には、かえって新鮮に感じられる。

 チラシ(↑)に使われているのはシダネルの「ジェルブロワ テラスの食卓」だ。テラスに置かれた食卓。椅子が一脚。だれもいない。シダネル自身の食卓だろうか。テラスの先にはジェルブロワの村が見える。家々が明るい陽光に照らされている。一方、テラスは日陰になっている。心地よい静けさ。平穏な日常。

 だれもいない食卓は、シダネルのトレードマークだ。人の不在。だがそれは(この絵もそうだが)必ずしも孤独を感じさせない。むしろ安らぎとか、穏やかさとか――そんなポジティブな感情を漂わせる。

 本作は明るい陽光に満たされているが、シダネルの本領は、むしろ夕暮れまたは夜にあるのではないだろうか。本展のホームページ(※)に画像のある「ヴェルサイユ 月夜」は、夜のヴェルサイユ宮殿の噴水を描いている。昼の喧騒が嘘のような、人っ子ひとりいない静かな夜景だ。空には月が出ている。空一面に広がる雲を照らしている。美しい夜空だ。ついでにいえば、岡山県倉敷市の大原美術館が所蔵する「夕暮れの食卓」は、夕暮れの運河に面して置かれた食卓を描いている。わたしはシダネルの最高傑作のひとつと思っている。

 マルタンの作品も本展のホームページで見ることができる。どれも明るい陽光にあふれた作品だ。シダネルの作品と比べると、マルタンの作品は光線が強く、空気が乾いている。「マルケロル、テラス」はその好例だ。シダネルのようなメランコリーの入り込む余地がない。上野の国立西洋美術館にある「花と噴水」も「マルケロス、テラス」とよく似た作品だ。思えば、大原美術館の「夕暮れの食卓」といい、国立西洋美術館の「花と噴水」といい、日本にはシダネルとマルタンの優品がある。
(2022.5.20.SOMPO美術館)

(※)本展のホームページ
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