フェスタサマーミューザへ。もうすっかり夏の風物詩だ。当夜はアラン・ギルバート指揮の都響の演奏会。プログラムはサマーコンサートにふさわしく楽しいものだった。1曲目はヴォルフの「イタリア風セレナーデ」(管弦楽版)。原曲は弦楽四重奏だが、管弦楽版はマックス・レーガーが作ったものらしい。そんな版があったのかと思うが、ひょっとすると以前聴いたことがあるのに、忘れているのかも。ともかく、独奏ヴィオラを伴う小編成のオーケストラ用の版。独奏ヴィオラを弾いた都響首席奏者・鈴木学氏の美音がさすがだ。
2曲目はレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3組曲。弦楽合奏の曲だが、深く掘り下げて、振幅が大きく、堂々とした演奏で、聴きごたえ十分だった。
休憩後、3曲目はレスピーギの交響詩「ローマの噴水」。冒頭、細かく分割された弦の、絹糸のような光沢のある音。そこに乗って出てくる木管の豊かな表情。ホルンのファンファーレと躍動する金管群。それを縫って噴出する弦のしぶき。すべてが沈静化して夜のとばりが下りるローマに漂う香り。それらすべてが的確に表現され、安心して楽しめた。
4曲目は「ローマの松」。がっしりと構築されて、「リュートのための‥」と同様に深く掘り下げられ、「‥噴水」と同様に弦が美しく、木管が表情豊かで、それらすべての当夜の美点が総合された演奏だった。なかでも第3曲「ジャニコロの松」でのクラリネット・ソロ(サトーミチヨ氏だったと思う)の見事さは特筆ものだ。
一方、意識的なのかどうなのか、「ジャニコロの松」でのナイチンゲールのさえずりは、音量を抑えて、オーケストラの薄いテクスチュアのなかから微かに聴こえてきた程度。あれっ、なにかが鳴いている、と。ホールの空間に響き渡る鳴き声ではない。これも一つの趣向か。
プログラムに都響の芸術主幹・国塩哲紀氏が寄稿しているコラムによると、フェスタサマーミューザは都響にとって「1年に1度、世界的に著名なホールで、耳の肥えた聴衆によって、いくつものオーケストラと聴き比べられる」機会で、「しかも、主催者からは「本格的なシンフォニーコンサートを」というリクエストをいただいており、それならばと毎年、定期演奏会同様の指揮者とプログラムを提供させていただいているつもりです。」と。
たしかにコンサートマスターに四方恭子氏、フォアシュピーラーに矢部達哉氏、その他各セクションに首席奏者を揃えて、万全の態勢で臨んでいた。手を抜かないその姿勢が気持ちよい。
(2019.7.29.ミューザ川崎)
2曲目はレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3組曲。弦楽合奏の曲だが、深く掘り下げて、振幅が大きく、堂々とした演奏で、聴きごたえ十分だった。
休憩後、3曲目はレスピーギの交響詩「ローマの噴水」。冒頭、細かく分割された弦の、絹糸のような光沢のある音。そこに乗って出てくる木管の豊かな表情。ホルンのファンファーレと躍動する金管群。それを縫って噴出する弦のしぶき。すべてが沈静化して夜のとばりが下りるローマに漂う香り。それらすべてが的確に表現され、安心して楽しめた。
4曲目は「ローマの松」。がっしりと構築されて、「リュートのための‥」と同様に深く掘り下げられ、「‥噴水」と同様に弦が美しく、木管が表情豊かで、それらすべての当夜の美点が総合された演奏だった。なかでも第3曲「ジャニコロの松」でのクラリネット・ソロ(サトーミチヨ氏だったと思う)の見事さは特筆ものだ。
一方、意識的なのかどうなのか、「ジャニコロの松」でのナイチンゲールのさえずりは、音量を抑えて、オーケストラの薄いテクスチュアのなかから微かに聴こえてきた程度。あれっ、なにかが鳴いている、と。ホールの空間に響き渡る鳴き声ではない。これも一つの趣向か。
プログラムに都響の芸術主幹・国塩哲紀氏が寄稿しているコラムによると、フェスタサマーミューザは都響にとって「1年に1度、世界的に著名なホールで、耳の肥えた聴衆によって、いくつものオーケストラと聴き比べられる」機会で、「しかも、主催者からは「本格的なシンフォニーコンサートを」というリクエストをいただいており、それならばと毎年、定期演奏会同様の指揮者とプログラムを提供させていただいているつもりです。」と。
たしかにコンサートマスターに四方恭子氏、フォアシュピーラーに矢部達哉氏、その他各セクションに首席奏者を揃えて、万全の態勢で臨んでいた。手を抜かないその姿勢が気持ちよい。
(2019.7.29.ミューザ川崎)