Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

2014年の回顧

2014年12月29日 | 音楽
 2014年は第一次世界大戦の勃発から100年の記念年だった。でも、そのことを意識せずに過ごしていた。ところが、11月の日本フィル横浜定期で劇的に思い出した。

 同定期ではラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」が演奏された。ピアノ独奏は舘野泉だった。体調が悪かったのだろう。痛々しい演奏だった。でも、技術を超えて、人間の生き様としての‘演奏行為’があった。その顔は紅潮していた。

 そのとき、突然、第一次世界大戦を思い出した。同曲は第一次世界大戦で右手を失ったヴィトゲンシュタインのために書かれた。その悲劇と、そこからの復活が込められている――ということが、知識としてではなく、生々しい傷口として蘇ってきた。

 もし演奏が完璧だったら(まったく無傷だったら)、そんなことは考えなかったろう。演奏がいいとか、悪いとか、あそこがよかったとか、そんな聴き方で終わっていただろう。でも、舘野泉の(その日の)痛々しい演奏で、かえって音楽を超えた‘人類の記憶’が胸に迫った。

 指揮はインキネンだった。いうまでもないが、インキネンと舘野泉は、フィンランド語で打ち合わせをしただろう。その一事をとっても、舘野泉の歩んできた道のりが感じられた。万全なコンディションではなかったが、インキネンは、舘野泉のフィンランドのピアノ音楽への貢献を十分認識しているだろう。温かい尊重の念がステージマナーから感じられた。

 閑話休題。今年の大きな収穫の一つは、三輪眞弘(1958‐)という作曲家を知ったことだ。シュトックハウゼンの「歴年」洋楽版の演奏会のときに、同氏の新作「59049年カウンター」が初演された。その衝撃はシュトックハウゼン以上だった。恐ろしい近未来映画を見るようだった。いや、実感に即していうなら、制御不能に陥った炉心を見るようだった。

 演劇では畑澤聖悟(1964‐)の「親の顔が見たい」という衝撃的な芝居に出会った(新国立劇場演劇研修所の試演会)。都内のある女子中学校で、いじめを苦にした自殺事件が起きる。学校に召集された親たち。親たちはいじめがあったという現実を見ようとしない。自殺した生徒の痛みを感じない。親の顔が見たいというその‘親の顔’(=現代の世相)を見せる芝居だった。わたしは言葉を失った。でも、正直にいうと、そういう親たちをかばうような結末には、違和感をおぼえた。

 では、皆さん、よいお年をお迎えください。
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ホドラー展

2014年12月26日 | 美術
 フェルディナンド・ホドラー(1853‐1918)は、好きな画家だが、その生涯を通しての画風の変遷とか、テーマの全貌とかはつかめないままだった。本展はそれをつかむ絶好の機会だ。

 本展は、ホドラーの作品と、同時代の作曲家・音楽教育家のダルクローズ(1865‐1950)の唱えた‘リトミック’との関連を解明する点に特徴がある。リトミックとは音楽教育の手法だ。大雑把な言い方だが、子どもの自由な感覚(表現意欲)を尊重した教育法といったらいいか。音楽にとどまらずに、舞踏や演劇にも応用された。

 舞踏の写真が多数展示されていた。なるほど、何人かの娘が輪になったり、横に並んだりしながら踊っている様子は、ホドラーの作品にそっくりだ。

 ホドラーの作品の本質が明らかにされた観がある。たとえば「感情Ⅲ」(1905)は、それがリトミックの一場面だと思えば、ひじょうに分かりやすい。だが、リトミックだけで片付けてしまうことは危険だ。ホドラー特有の要素がそこにはあることも留意すべきだろう。

 「感情Ⅲ」を例にとったので、そのついでにいえば、この作品には‘性’の要素があることは否定できない。4人いる女性の、同じようなポーズと衣装の繰り返しの、そのリズムが、最後尾のほとんど全裸の女性で破られている。リズムと同時に、破調のインパクトもまた大きい。

 本展でもっとも深い感銘を受けた作品は「オイリュトミー」(1895)だ。その壁画性は解説のとおりだし、シャヴァンヌからの影響も肯ける。繰り返しのリズムも「感情Ⅲ」と同様だ。

 でも、この作品にも、そういったコンセプトでは掬い切れない要素がある。それは‘死’だ。年老いた5人の男たちは‘死’に向かって歩いている。本作は‘死’の想念にとりつかれている。もちろん本展ではそのことも指摘されている。でも、その点に深入りすることは避けて、壁画性とかリズムとかとのバランスを取ろうとしている節がある。

 アルプスの風景画も面白かった。トゥーン湖とシュトックホルン山脈を描いた作品が5点ある。1910~13年の作品。同一地点の、季節も天候もさまざまな景色だ。でも、これらの作品は、モネのルーアンの大聖堂とはちがう。たんなる(純粋な)眼ではなく、生と死をその背後に見つめる作品だ。その点を閑却すると、(ソフトドリンクのような)口当たりのいい作品で終わってしまう。
(2014.12.24.国立西洋美術館)

↓主な作品の画像(本展のHP)
http://hodler.jp/highlight.html
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ハーガー/読響

2014年12月23日 | 音楽
 「第九」の季節がやってきた。レオポルド・ハーガー指揮読響の「第九」を聴いた。

 レオポルド・ハーガーはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の首席指揮者としてその名を記憶している。下野竜也がウィーン音楽大学に留学したときの恩師でもあったそうだ。その縁もあって読響に招かれたのだろうか。

 プログラムは「第九」だけ。冒頭、第1ヴァイオリンの32分音符と4分音符の下降音型が、実にいい感じで演奏された。粘つかず、短く切るわけでもなく、適度な音価で――という言い方は曖昧だが、端的にいって、ロマン的な演奏スタイルではなく、ピリオド的でもなく、その中間の(今となっては懐かしい)スタイルで――演奏された。

 こういう演奏スタイルが一貫していた。懐かしいが、かといって古びた感じはしなかった。これはこれで生きていた。

 全体に自然な呼吸感があった。楽々と呼吸していた。音楽を緊密に構成するのではなく、遊びの部分があった。見通しのいい、風通しのいい演奏だった。指揮者がオーケストラを引っ張るのではなく、オーケストラと対話する演奏だった。

 細かい点では、第4楽章でチェロとコントラバスに「歓喜の歌」が出てくる直前に‘間’を置かなかった。あそこは「歓喜の歌」の効果を高めるために‘間’をおきたくなるところだが、そんなことはしなかった。一定の拍節感で進んだ。

 同様の例は、第4楽章の終盤、4人の独唱者がカデンツァの最後の音をフェルマータで結び、弦がピアニッシモで入ってくる箇所でも見られた。怒濤のコーダの効果を高めるために‘間’をおきたくなるところだが、(なにもしないで)さっと先に進んだ。

 見得を切ることなど眼中にない演奏だ。昔よく使われた言葉に‘滋味あふれる’という言葉があったが、聴き手側からいえば、当たらずといえども遠からず、といった感じの演奏だった。

 独唱者4人は高度なレベルの歌手たちだった。新国立劇場合唱団もしかり。これらの声楽陣も相俟って、高度なプロ集団による「第九」演奏だった。

 これもよし。でも、年末歳時記の「第九」もまたよし。今年は縁あって北区第九合唱団の「第九」を聴いた。それにも感動した。三ツ橋敬子指揮の東京シティ・フィルが演奏していた。第2楽章のひたすら前進する演奏に息を呑んだ。
(2014.12.22.サントリーホール/12.14.北とぴあ)
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ボストン美術館ミレ―展

2014年12月20日 | 美術
 今年はミレー(1814‐1875)の生誕200年だ。もっとも、そんな今年も残りわずかになったが。

 生誕200年といっても、正直なところ、あまり意識していなかった。ところが、今秋開かれたオルセー美術館展で「晩鐘」(1857‐59)を見て、あまりの美しさに息を呑んだ。‘泰西名画’の代表のように思っていたが、そんな単純な話では済まない傑作であることを思い知らされた。

 遅ればせながらミレーに気が付いて、府中市美術館で開催中のミレー展にも行こうと思った。でも、けっきょく行きそこなった。なので、三菱一号館美術館で開催中のもう一つのミレー展にはぜひ行こうと思っていた。

 金曜日の夜間開館の時間帯に行ったのだが、意外と混んでいた。絵を見ていると、だれかが前に立ちふさがったり、ぶつかってきたり、という具合だった。でも、まあ仕方がない。ほんとうに混雑しているときは、こんなものではないのだから。

 本展はミレーのコレクションでは世界有数のボストン美術館の収蔵品を紹介するものだ。‘3大ミレー’と主催者側が呼んでいる3作品(※)が、中でも有無をいわせぬ傑作だ。

 「刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」(1850‐53)は、画家の力の充溢を感じさせる作品だ。ダイナミックな動き、農夫たちの堂々たる体躯、深い陰影、どれをとってもミレーが画家としての絶頂期を迎えたことを物語っている。

 「羊飼いの娘」(1870‐73)は晩年の傑作だ。最初にこの絵を見たときは、とくになにも感じなかった。‘3大ミレー’が並んでいるその部屋で、ベンチに腰掛けて、ぼんやり見まわしていると、「羊飼いの娘」が目に入った。人々の後姿のあいまから見えた。‘娘’の白いスカートが光を放射していた。えっと思った。絵との距離はそうとうあった。対角線の3倍以上はあったと思う。その距離が必要だったのだ。

 もし、どれか一つあげるといわれたら、「刈り入れ人たちの休息」か「羊飼いの娘」にするだろう。でも、どちらにするか。さんざん迷った挙句、最後の瞬間に「羊飼いの娘」を選ぶのではないか。そう思ったら、すっきりした気分になった。

 もう1作の「種をまく人」(1850)は、ミレーとしては例外的なくらい英雄的、かつ理想化された図像だ。2月革命直後のパリの社会にこの作品を置いてみた。メッセージ性の強い作品だ。
(2014.12.19.三菱一号館美術館)

(※)ボストン美術館の3大ミレー
http://mimt.jp/millet/midokoro_03.html
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星ノ数ホド

2014年12月18日 | 演劇
 新国立劇場の演劇「星ノ数ホド」。ニック・ペインの原作。2012年にロンドンで初演された。風変わりな題名だが、原題はConstellations。「星座」の複数形だ。

 人が生きていく上では、無数の可能性がある。あの時あれを言っていれば……とか、あんなことを言わなければ……とか、そういった無数の可能性の偶然の結果が「今」だ、というコンセプトの芝居。

 その背景には「量子力学」がある。目では見えない分子や原子の世界。その物理学にヒントを得た芝居だ――と言われると、物理はチンプンカンプンなので、腰が引けてしまう。もちろん、そんなわたしにも理解できる芝居だ。

 でも、一風変わった仕掛けだ。冒頭の養蜂家ローランドと物理学者マリアンとの出会いの場面。二人はバーベキュー場で出会う。その出会いの場面が、何度も、しかし少しずつ違って、繰り返される。その内、別の場面が出てくる。それも何度も、少しずつ違って繰り返される。その内、また別の場面が。時間も前後する。

 頭が混乱するほどではない。むしろ様々な場面が残像となって重なっていく。夜空に輝く星座を見ているようだ。

 終わり方は唐突だ。フッと途切れるように終わる。もっと続いてほしいと思った。少なくともこの話では、マリアンが重い病気にかかる。早晩死は訪れる。無数にあった可能性の結果として、動かしがたい「今」=死が訪れる。別の星にもローランドとマリアンがいたとしても(多元宇宙論)、少なくともこの地球上のマリアンには死が訪れる。そのときこの芝居はどう見えるだろう――。

 話はそこまで行かない。上品な抒情の世界にとどまる。それがいいと思う人もいるだろう。クリスマスの季節を意識した企画かもしれない。でも、わたしには少し物足りなかった。

 ローランドを演じた浦井健治とマリアンを演じた鈴木杏には、すっかり感心した。この芝居には‘流れ’がない。絶えず元の場面に戻る。しかも少しずつ変化する。音楽にたとえれば、変奏曲のようだ。でも、変奏曲の場合は前の変奏との対比で次の変奏があるが、本作の場合は、前の変奏の第1音に戻り、途中の音に変化記号が付いて、まったく違う調性に移ったり、まったく違うリズムになったりする。よくこういう台本をマスターしたものだ。

 終演後はアートギャラリーの「ザハ・ハディド展」へ。新国立競技場問題を知りたくて。
(2014.12.17.新国立劇場小劇場)

↓ザハ・ハディド展
http://www.operacity.jp/ag/exh169/
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デュトワ/N響

2014年12月14日 | 音楽
 デュトワ/N響の定期Cプロ。前半2曲が‘レクイエム’、後半が「新世界より」というプログラムだ。前半の2曲が興味深い。後半はサービスか――と。でも、その予想はくつがえされた。

 1曲目は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」。冒頭の弦の音が透明だ。一点の曇りもない明るい音の世界。拍節感が明瞭に出る。でも、そこが問題だ。我々日本人がこの曲に抱いている茫漠とした音のイメージとは異質だ。細かい音型(たとえば小さなスラー)には発見があった。でも、表面的なレベルにとどまった。全体としてはなにも語らない演奏。

 外人の指揮者がこの曲を振ると、時々こうなる。デュトワもそうなのか。「鳥は星形の庭に降りる」とか、そういった作品にはない世界がこの曲にはあって、西洋人には理解できない性質のものなのか。

 だが、この曲がこれからも、日本人の間だけではなく、西洋人の間でも、生きていかなければならないとしたら、どうなるのだろう。また、日本人の間であっても、小澤征爾や岩城宏之といった、いわばこの曲の‘第1世代’ではなく、若い人たちに委ねられたときには、どうなるのだろう。話はそう簡単ではないかもしれない。

 2曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」。この曲を、他ならぬ今年の年末に聴くことには、わたしはかなりの思い入れがあった。というのは、今年聴いた演奏会の中で、もっとも鮮烈な経験として残ったものの一つに、メッツマッハー指揮の新日本フィルが演奏したツィンマーマンの「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」があったからだ。

 あの曲の最後にはバッハのカンタータ「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」BWV60のコラール「たくさんです。主よ」が引用されている。いうまでもないが、そのコラールはベルクがヴァイオリン協奏曲で引用したものと同じだ。ベルクは魂が昇天する音楽として引用した。一方、ツィンマーマンは自らの命を断つ予告として引用した。

 でも、デュトワの指揮は、あまりにもデリケート、かつ穏やかな、予定調和的な演奏だった。音の生々しさは消えていた。アラベラ・美歩・シュタインバッハーのヴァイオリン独奏も同様だった。

 一転して3曲目のドヴォルザークの「新世界から」は正気に返ったような演奏だった。こういったスタンダードなレパートリーで信頼できる解釈者の姿がそこにあった。
(2014.12.13.NHKホール)
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大野和士/都響

2014年12月10日 | 音楽
 来年4月に音楽監督に就任予定の大野和士が振る都響の定期。いやが上にも期待が高まる。

 1曲目はバルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」。昔よく聴いた曲だが、最近はいつ聴いたか。ちょっと思い出せない。少しご無沙汰した。久しぶりに聴くこの曲は、ずいぶん懐かしかった。でも、正直にいうと、一種の戸惑いがあった。この曲のどこに、アクチュアリティというか、自分が今この曲を聴く意味(または今という時代にたいする意味)を見出したらいいのか。その糸口をつかみ損ねた。

 なぜかは分からない。でも、「青ひげ公の城」や「中国の不思議な役人」(ともに不条理な要素をもつ曲だ)が今でも面白いのに、「弦チェレ」には距離感があった。もしかするとこの曲、あるいは「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」や弦楽四重奏曲第5番といった同時期の作品は、‘古典’への移行期に入っているのかもしれない。

 演奏はきちんと整ったフォルムを持つものだった。モダニズムからは遠く、(いうまでもないが)バーバリズムからも遠い。正統的な、格調高い演奏。でも、もう一つ精彩がなかった。生き生きした表情に欠けていた。

 2曲目はフランツ・シュミットの交響曲第4番。これは名演だった。曲にたいする共感に裏打ちされた演奏だった。甘美な陶酔にも事欠かず、また悲劇的なトーンにも事欠かなかった。この曲のすべてを語り尽くした演奏だった。

 大野和士の美質は、正攻法のアプローチと、(曲にたいする)深い共感にあるのだと思った。思えばそのことは、デビュー当時からのものだ。そのような美質が今も生きているのだ。

 あえていえば、フランツ・シュミットのこの曲では、‘第1部’のクライマックスの最強奏のときに、音が立体感を失った。もう少し余裕を持って鳴らしてほしかった。

 これら2曲はいずれも20世紀の歴史と深くかかわっている。交響曲第4番は1932~33年の作曲。ヒトラーが政権を取るまさにその時期だ。ドイツはもちろん、ウィーンでも緊張が高まっていただろう。悲劇的なトーンの背景にはそういう時代が感じられる。

 いうまでもないが、バルトークはナチスと厳しく対峙していた。「弦チェレ」が作曲された1936年はナチスが猛威を振るっていた時期だ。もっとも、そういう時代背景は、今回の演奏には感じられなかったが。
(2014.12.9.サントリーホール)
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デュトワ/N響

2014年12月08日 | 音楽
 デュトワ/N響による「ペレアスとメリザンド」の演奏会形式上演。弦は16型だから、オペラハウス的には大編成だが、抑えに抑えた演奏なので(とくに休憩前の第3幕までは)、声にかぶることは一切なかった。

 演奏会形式で聴くと、やはり発見がある。たとえば第2幕の最後の場。ゴローに命じられてペレアスとメリザンドが夜の海岸に指輪を探しに行く。一瞬、月の光が射す。そのとき、ハープがポロンと鳴った。なるほど、あの月光の印象は、ハープによってもたらされていたのかと――。

 もう一つは、第5幕でメリザンドが息を引き取るとき、フルート3本にトランペット(1番奏者)が音を重ねていた。第5幕ではトランペットが重要な役割を果たすが、この箇所でのトランペットの効果には、今まで気付いていなかった。

 デュトワの指揮は精妙かつ静的。とくに第3幕までは各場ごとに1枚の絵(フランス語で‘タブロー’といってみたくなる)を描いていくような趣があった。休憩後の第4幕からはダイナミックレンジが広がり、表現の振幅も大きくなった。といっても、休憩を挟んでガラッと変わったわけではなく、第3幕から徐々に変化が現れた。

 オーケストラの話が先行したが、この公演で特筆すべきは歌手だった。とくにペレアスを歌ったステファーヌ・デグーとゴローを歌ったヴァンサン・ル・テクシエ。ともにフランス語のディクションがすばらしい。声そのものにドラマがある。人間的な生々しい感情を内面に抑えた、息詰まるようなドラマ。

 でも、それとは別の次元だが、デグーはバリトンだ。テクシエはバス・バリトン。もちろんバランスは取れているのだが、アンサンブルの重心はどうしても低くなる。テノールに優れた歌手がいれば、ペレアスはテノールの方が――、と思った次第だ。

 メリザンドはカレン・ヴルチ。上述の2人にくらべると、単調さを感じた。でも、それがヴルチのせいだと言い切れるものかどうか。メリザンドは、つかみどころのない、不思議な女性だ。ドビュッシーの音楽もそう書かれている。なので、舞台で演技をともなって初めて効果が出るのであって、演奏会形式では不利かもしれない。

 イニョルドのカトゥーナ・ガデリアは、声がまっすぐに出る。医師のデーヴィッド・ウィルソン・ジョンソンはすごい存在感だ。ジュヌヴィエーヴのナタリー・シュトゥッツマンは、この位できて当たり前か。
(2014.12.7.NHKホール)
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外山雄三/日本フィル

2014年12月06日 | 音楽
 外山雄三が日本フィル定期を振った。17年ぶりだそうだ。もっとも、その間に横浜定期を振ったことがある。ベートーヴェンの「英雄」を記憶している。そのときは元気がなかったので、今回も心配していた。でも、なんの、なんの、お元気だ。

 年齢のことで恐縮だが、現在83歳。先日、児玉宏が2016年3月末で音楽監督・首席指揮者を退任する大阪交響楽団に、同年4月付けで外山雄三がミュージックアドバイザーに就任するというニュースが流れた。正直、びっくりしたが、元気なお姿を見て納得した。

 1曲目は外山自身の作品、交響詩「まつら」。日本フィルの争議を支援してきた者には懐かしい曲だ。九州公演(今も続いている)を通して絆を深めた唐津の市民が、カンパを集めて(1人1,000円、それ以上はもらわない。市民2,000人から集まった)、外山氏に新作を委嘱した。それが本作だ。今思うと熱い時代だった。1982年(昭和57年)のこと。

 演奏が始まって、あぁ、そうだ、こういう曲だったと思い出した。懐かしかった。昔よりもしっとりと歌われている気がした。しみじみと胸に染みた。最後はこういう終わり方だったか。素人の大胆さでいうと、冒頭の静かな音楽に戻ったらどうかと――。素人の妄言、お許しいただきたい。

 会場には昔懐かしい方を何人かお見かけした。争議時代の執行委員長のM氏、当時のコンサートマスターのO氏。皆さんお元気そうだ。外山氏が振るので来たのだろう。そういえば、オーケストラの中にも、当時のアシスタント・コンサートマスターのI氏の姿があった。

 わたしもいろいろ想い出した。争議が解決したのは1984年(昭和59年)3月だが、同年6月に記念コンサートがあった。会場は新宿の厚生年金ホールだった。マチネー公演と夜公演の2部構成。マチネー公演はゲストを迎えて賑やかに、夜公演はオーケストラ・コンサートとして本格的に、という色分けだった。

 あのとき指揮をしたのも外山氏だった。曲目はなんだったろう。夜公演にはベートーヴェンの「運命」があったような気がするが、定かではない。マチネー公演のゲストには山岡重信氏がいた。争議の最初期からずっと日本フィルを支えた指揮者だ。「はじめて音が出たときには、みんな泣いていました」といって目頭を押さえた。忘れられない。涙、涙のコンサートだった。

 そんな記憶が交錯する。
(2014.12.5.サントリーホール)
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カンブルラン/読響

2014年12月05日 | 音楽
 カンブルラン/読響が来年3月のヨーロッパ公演に持っていくプログラムでの定期(同プログラムはユトレヒトとブリュッセルで演奏予定)。

 1曲目は若手作曲家、酒井健治の新作「ブルーコンチェルト」。音の鮮度がいい。明るく瑞々しい音だ。演奏のよさも与って力がある。そう思って聴いているうちに、意外に長いなと感じ始めた(後でプログラムを見ると、演奏時間は約17分)。

 音の生成、発展そして変容が繰り返される。意外な展開を伴うこともある。その論理というか、‘帰結の仕方’を追うことが段々難しくなった。山歩きをしているときに踏み跡を見失ったような感覚だ。

 メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の前に演奏されることを念頭に置いて作曲された(作曲者自身のプログラムノーツより)。たしかに、後半に頻出する下降音型は、トゥーランガリラを髣髴とさせた。2曲目にトゥーランガリラが演奏されたとき、その効果が表れた。1曲目と2曲目とがシンクロした。

 2曲目はそのトゥーランガリラ。冒頭から、明るく、かつパワフルな演奏が続いた。カンブルランは2006年の読響初登場のときも、トゥーランガリラを取り上げた。鮮烈な登場だった。そのときはスタイリッシュな演奏だったと記憶する。今回はもっと掘り下げた演奏だ。

 個々の楽章では、3、7、9の各楽章の「トゥーランガリラ」(Ⅰ~Ⅲ)が面白かった。リズム処理の明快さが際立っていた。一方、緩徐楽章に相当する第6楽章「愛のまどろみの園」の細やかな起伏にも魅せられた。弦楽器が、たとえていえばオーロラのように、ゆっくり波打ち、木管楽器と打楽器がアクセントを添える。そのニュアンス豊かな表現は、今まで聴いた演奏の中で最上のものだった。

 アンジェラ・ヒューイットのピアノ独奏も絶品だった。今まではバッハしか聴いたことがないが、思えばそのバッハ演奏も、モダン・ピアノの美質を最大限に活かす性質のものだった。なので、メシアンに適性があるのも不思議ではないかもしれない。これなら、今度は「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」か「鳥のカタログ」でも聴いてみたいと思った。

 オンド・マルトノはシンシア・ミラー。オーケストラに埋もれもせず、また音像が大きすぎもせず、適当な音量だったことが、なによりも幸いだ(2階正面後方席)。安心してこの曲の二重協奏曲としての側面を楽しむことができた。
(2014.12.4.サントリーホール)
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ドン・カルロ

2014年12月04日 | 音楽
 新国立劇場の「ドン・カルロ」。2006年の初演のときも観ているので、これで2度目だが、初演から8年もたったせいか、新鮮な感覚で観ることができた。

 マルコ・アルトゥーロ・マレッリの常として、演出と美術の両方を兼ねている。ひじょうに洗練された舞台だ。美術から入った舞台、感覚的な舞台――。これは成功作だ。この舞台が初演から今まで8年間もお蔵入りしていた。それが不思議なくらいだ。逆に、具体名は触れないが、凡庸な舞台が再演を重ねているケースもある。制作コストの問題だけだろうか。

 個々の場面で印象深かったのは、第2幕の火刑の場面だ。ああ、そうだったかと思ったが、火刑は舞台の一番奥で行われる。少しもスペクタクル的ではない。抑制的で、かつ内省的な作り方だ。それがこの演出の本質だ。また「天よりの声」は赤ん坊を抱いた貧しい母親の姿で登場する。これにもハッとした。

 今回、歌手はきわめて高水準だった。ドン・カルロのセルジオ・エスコバルは強い声の持ち主だ。ロドリーゴのマルクス・ヴェルバとフィリッポ二世のラファウ・シヴェクは、声も容姿も相応しく、また演技力もあった。宗教裁判所長の妻屋秀和は、声に不足はなく、また盲目の老人を‘怪演’していた。

 女声では、エリザベッタのセレーナ・ファルノッキアは、第1幕のドン・カルロとの二重唱ではセーブ気味だったが、第4幕のアリアとそれに続くドン・カルロとの二重唱では実力を発揮した。エボリ公女のソニア・ガナッシの熱唱は全体のけん引役の一人だった。

 ピエトロ・リッツォ指揮の東京フィルも好演だった。切れば血が噴き出るようなイタリア・オペラ的な演奏ではなく、もっと入念な、濃やかな陰影をもつ演奏だった。第1幕後半でロドリーゴがフィリッポ二世に「それは墓場の平和!」と言い放つ個所では、恐ろしく暗い音が鳴った。わたしは震撼した。

 合唱は、どういうわけか、第2幕冒頭の女声合唱が、口先で歌っているような、言葉が立ち上がってこないもどかしさがあったが、それ以外は違和感がなかった。

 全体としては‘静かな’印象があった。エスコバルほか、声の競演でもあるのだが、それにもかかわらず、深い湖のような‘静けさ’を湛えていた。その印象は先日の「パルジファル」と似ていた。あの公演も、声楽がきわめて高水準で(むしろ極上で)、しかも全体の印象は‘静けさ’が支配していた。
(2014.12.3.新国立劇場)
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