Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高橋悠治作品演奏会Ⅰ:歌垣

2018年12月30日 | 音楽
 高橋悠治(1938‐)の1960年代の作品を中心とした演奏会。今回が第1回で、第2回は2019年10月29日に予定されている。今回は15:30開演と19:00開演の2公演があった。年末なので家にいたかったが、がんばって2公演とも聴いた。聴いてよかったと思う。初めて聴く曲ばかりなので、1回目は音を捉えるだけで精一杯、2回目でやっと音の流れを追うことができた。

 プログラムの前半は「クロマモルフⅠ」(1964)、「オペレーション・オイラー」(1968)、「あえかな光」(2018 世界初演)。

 その中では「オペレーション・オイラー」がおもしろかった。オーボエ2本の曲。都響の首席奏者・鷹栖美恵子と東響の首席奏者・荒木奏美の演奏。2人は舞台の上手と下手に向かい合って立つ。その位置が1回目と2回目とで入替っていた。線の太い音の鷹栖と細い音の荒木とでは個性のちがいがあり、それが曲の印象を変えた。わたしは2回目のほうがおもしろかった。

 「あえかな光」では木管(Fl.Cl)、金管(Tr.Tb)、打楽器(Vib)、弦(Cb)が舞台の前面に並び(各1人)、ヴァイオリン(4人)とチェロ(4人)が後方に並ぶ。前面の奏者が音楽を主導し、後方の奏者は微かな背景を構成する。通常のオーケストラを逆転した作品。

 プログラム後半は「6つの要素」(1964)、「さ」(1999)、「歌垣」(1971)。

 「6つの要素」と「さ」は、1回目のときにもっとも惹かれた曲だ。「6つの要素」は4人のヴァイオリン奏者のための曲で、ミニマル・ミュージックの発想を取り入れているかもしれない。周防亮介と伊藤亜美の強い個性が光った。

 「さ」はホルンの独奏曲。ホルン奏者はまず舞台の下手の奥の椅子に腰かけて演奏し、次に中央に移動して立奏し、次に上手に置かれたピアノの前に移動して演奏する。ピアノの蓋は開いていて、ホルンの音で振動する。ホルン独奏はN響の首席奏者・福川伸陽。たいへんなヴィルトゥオーソだ。ヴィルトゥオジティに背を向けたように見える近年の高橋悠治だが、本作は例外かもしれない。

 「歌垣」はピアノと30人の奏者のための曲。管理された偶然性の音楽なのだろう、1回目と2回目とでは曲の出だしがちがった。ピアノ・パートはトリルが中心の音楽で、そのトリルが狂おしく駆け巡り、また沈静する。ピアノは黒田亜樹、指揮は杉山洋一。演奏会全体の企画・主催も杉山洋一。
(2018.12.29.東京オペラシティリサイタルホール)
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青柳いづみこ「高橋悠治という怪物」

2018年12月27日 | 読書
 青柳いづみこの「高橋悠治という怪物」(河出書房新社、2018年9月発行)を読んだ。ピアニストという同業者の眼から見た洞察に満ちた高橋悠治論だと思う。また、著者と同世代であるわたしには、人生の中でたどってきた時代が共通するので、時代の空気が蘇ってくるおもしろさもあった。

 たとえばこんなくだりがある。「1970年代前半、私が東京藝大のピアノ科に在籍していたころ、理論武装した友人が高橋悠治の本を持ち歩いていた。持っているだけでかっこいいという雰囲気があった。本のタイトルはおぼえていないが、おそらく74年11月に刊行された『ことばをもって音をたちきれ』だろう。」

 これなどまるで当時のわたしを見るようで赤面する。わたしも同書を持って得意がっていた。そうさせるカリスマ性が高橋悠治にはあった。高橋悠治は武満徹や小澤征爾と並んで若者のアイドルだった。

 当時のわたしは、高橋悠治のLPレコードを何枚か持っていた。その中に「パーセル最後の曲集」があった。わたしのお宝だった。高橋悠治のメインの仕事ではないとはわかっていたが、その比類ない美しさに惹かれた。あのLPレコードはどこにいったのだろう。だれかに貸したっきりになっているようだ。

 青柳いづみこもそうだったように、わたしも高橋悠治が超絶技巧のピアニストとしてクセナキスの難曲をバリバリ弾いていた時期は、リアルタイムでは経験していない。

 そのときの高橋悠治を聴いてみたいと思い、ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗いたら、ジェフスキの「「不屈の民」変奏曲」(1978年録音)が入っていた。難曲で知られる同曲だが、久しぶりに聴いてみると、超絶技巧というよりも、透明な抒情を感じた。時の流れがアクを抜いたようだった。

 高橋悠治はキャリアの絶頂で「水牛楽団」に(こういってよければ)ドロップアウトしたように見えた。当時、わたしは戸惑いつつも、その演奏会に行った。東京文化会館大ホールだったと思う。おもしろかったが、追っかけにはならなかった。

 最近では2014年2月の浜離宮朝日ホールでのリサイタルに行った(青柳いづみこも聴いたそうだ)。そのときのハジダキスは今でも鮮明に覚えているが、バッハは記憶から消えている。でも、それは高橋悠治のバッハをわかっていなかったからのようだ。本書を読んでそう思った。

 今の高橋悠治がなにを考え、なにをやっているか。本書は示唆に富んでいる。
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松平頼暁「The Provocators~挑発者たち」

2018年12月22日 | 音楽
 松平頼暁(1931‐)がオペラを書いた。そのこと自体はすでに公表されていたが、そのオペラを上演しようとする人々がいて、本来は室内オーケストラのオペラだが、まずピアノ・リダクション版(小内將人作成)で上演された。題名は「The Provocators~挑発者たち」。台本は作曲者自身が英語で書いた。

 ストーリーは――ある架空の軍事独裁国での話。抵抗運動を続けるグループ(男1人と女2人)が隠れ住むアジトに、抵抗運動に加わるために男が1人現れる。徹底した監視体制のもと、性さえ厳しく管理される社会だが、新参者の男と女たちは欲情に溺れる。秘密警察官が時々訪れて賄賂を要求する。抵抗運動を続けるグループは、じつは国が軍備や警察力を増強するための口実に利用されていた。

 と、そう書くと、いかにもシリアスな話に見えるが、実際はそうでもない。シリアスな含意があるのかもしれないが、それを打ち消すようなコミカルな展開になっている。

 演奏時間は約1時間。その中で3曲のアリアがある。それらのアリアが中心になったオペラ。まずアリアが書かれ、次にそれを組み込んだオペラが構想された。それら3曲のアリアがおもしろい。ソプラノのためのアリアが1曲、アルトが1曲、バリトンが1曲。とくにバリトンのアリアがおもしろい。不思議な音楽だ。

 そのバリトンのアリアでは、ピアノは4拍子で書かれているが、「歌のパートはすべて4泊5連です。しかも1フレーズは5連符6つ分なので、ピアノとのリズムの関係は極限まで複雑になります。」(バリトン・パートを歌った松平敬のFacebookより)。その不思議な感覚は、体感しないとわからないかもしれない。

 オペラは「1980~2008年に作曲されているが、大部分の曲の作曲年代は2008年の2~8月である。」(プログラムに掲載された松平頼暁の「解説」より)。だとすると、ピアノ独奏曲「24のエッセーズ」(2000~2009年)と同時期だ。わたしは「24のエッセーズ」の透明感と硬質なリリシズムに惹かれているのだが、それと同じ要素がオペラにもあったのか。

 演奏は、ソプラノ太田真紀、アルト薬師寺典子、テノール琉子健太郎、バリトン松平敬、バス米谷毅彦、ピアノ藤田朗子、指揮杉山洋一で献身的な演奏だった。

 2020年には本来の室内オーケストラ版の上演を目指しているとのこと。
(2018.12.21.イタリア文化会館)
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アラン・ギルバート/都響

2018年12月20日 | 音楽
 アラン・ギルバート/都響のB定期(「春」のプログラム)を聴いたが、必ずしも満足できなかったので、C定期(「スペイン」のプログラム)も聴きに行った。同プログラムはA定期にもあるので、普通だったらA定期に行くところだが、当日は出張が入っていたので、平日マチネーではあるが、C定期に行った次第。

 C定期に行くのは初めてだった。さすがにシルバー世代が多いと思った。席にすわると、隣の席の人がひっきりなしに鼻をすするので、本当はいけないことだが、後ろの席にそっと移動した。演奏が始まると、今度は一つ空席をはさんだ隣の人が、大いびきをかき始めた。大いびきは1曲目の間中続いた。

 それもご愛敬だと思った。かくいうわたしだって、若者から見たら、同じような世代に見えるだろう。あれこれいえた義理ではない。

 その1曲目だが、曲はリヒャルト・シュトラウスの「ドン・キホーテ」。冒頭、木管の導入に続いて弦が奏する旋律が、アーティキュレーションを細かく切って、ニュアンス豊かに演奏された。思わずB定期で聴いた「春の祭典」の冒頭のファゴットを思い出した。「春の祭典」では、主部に入ったら、そのような細かなニュアンス付けは消えたが、今回はそれがずっと続いた。

 弦の音色も、B定期のときより瑞々しく、艶があった。その時点でわたしのB定期での不満は解消されたが、細部へのこだわりのあまり、全体的な流れが生まれず、胃もたれ感が残った。

 チェロ独奏はターニャ・テツラフ。3階席のわたしには、時にチェロの音がオーケストラに埋もれ、よく聴こえないことがあった。フィナーレでのチェロ独奏は(オーケストラが薄いこともあり)しみじみとした味があった。この部分はだれが演奏しても聴かせどころかもしれないが、ターニャの演奏はその中でも印象深いものの一つだった。

 プログラム後半は名曲コンサートのようだった。まずビゼーの「カルメン」抜粋。前奏曲が目も覚めるように鮮やかに始まった。以下、第4幕への間奏曲(アラゴネーズ)や第3幕への間奏曲など、元々オーケストラだけで演奏される曲の場合はよいのだが、ハバネラや闘牛士の歌など、声楽が入る場合のトランペットなどでの代用は、居心地が悪かった。

 最後はリムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」。これはあまり作り込まずに、気楽に演奏された。これはこれでよいのだろう。
(2018.12.18.東京芸術劇場)
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スカイライト

2018年12月18日 | 演劇
 イギリスの劇作家デイヴィッド・ヘア(1947‐)の「スカイライト」(1995年初演)を観た。場所はロンドンの場末のアパート。キラの住む部屋にトムが訪れる。キラとトムは3年前まで不倫関係にあったが、それをトムの妻に知られ、キラは姿を消した。その後、トムの妻は病気で亡くなった。キラを忘れられないトムはキラの部屋を訪れた――。

 本作は初演当時ローレンス・オリヴィエ賞の最優秀新作演劇賞を受賞。2015年にはトニー賞のベスト・リバイバル賞を受賞した。英米で高く評価されている作品。日本では1997年にパルコ劇場で上演された。

 とにかく台詞の量が膨大だ。第1幕80分、第2幕65分の間、山のような台詞が語られる。それは音楽のようでもある。ある一つの音が鳴ると、あっという間に無数の音が後に続き、巨大な波のように高まる。それが静まると、別の音が生まれて、それがまた巨大な波のように高まる。それが何度も繰り返される。

 それらの台詞を聴くうちに、キラとトムの間にあったことが「ジクソーパズルを一片ずつ埋めていく」ように(プログラムに掲載された原田規梭子氏のエッセイより引用)明らかになっていく。キラとトム(=女と男)の容赦ない戦い。そこには一種の普遍性がある。

 だが、一方では、その戦いの背景に当時のロンドンの社会状況や地域性がひそんでいる面もある。その反映が色濃い分だけ、今の日本で本作を観るわたしには、その面に十分には触れ得ないもどかしさが残った。

 思えば、先月上演されたハロルド・ピンター(1930‐2008)の「誰もいない国」(1975年初演)にも、ロンドンの社会を反映した面があった。どちらも鋭い社会批評であり、当時のロンドンの状況と正面から向き合った作品だが、では、日本はどうなのか。今の日本と真っ向から切り結んだ作品を観たいと思った。

 キラを演じた蒼井優が好演。滑舌の良さとか、体のキレとか、繊細さとか、そのどれをとってもすばらしく、またそれ以上にキラという(人生を全力で生きているような)人物になりきっていた。わたしにとっては永遠のキラだ。一方、トムを演じた浅野雅博は、わたしには善人すぎるように思われた。もう一人、トムの息子のエドワードが出てくるが、それを演じた葉山奨之はこれからの人。

 膨大な台本を読みこんだ小川絵梨子の演出は見事だと思った。
(2018.12.17.新国立劇場小劇場)
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吉村芳生展

2018年12月16日 | 美術
 吉村芳生は1950年に山口県で生まれた。山口芸術短期大学を卒業して、広告代理店にデザイナーとして勤務した後、東京の創形美術学校で版画を学んだ。国際版画展に出品して高い評価を得たが、山口県に戻って地道な活動に入った。2007年に「六本木クロッシング2007」に出品した作品が大きな話題となり、現代アート・シーンの寵児となったが、2013年に早逝した。

 たとえば「ジーンズ」(1984年)は、一見写真と見紛う作品だが、じつは手で描かれている。紙に鉛筆で描いた作品と、フィルムにインクで描いた作品とがある。フィルムにインクで描いた作品の場合の制作過程は――

(1)ジーンズをモノクロ撮影し、84.0×59.0㎝になるように写真を引き伸ばす。
(2)(1)で用意した写真に鉄筆で2.5×2.5㎜のマス目を引く。各マス目の濃度を10段階に分け、濃度に応じて0から9までの数字をマス目に書いていく。
(3)写真と同じサイズの方眼紙を用意して、(2)で書いた数字を書き写していく。
(4)方眼紙と同じサイズの透明フィルムを上から重ねる。
(5)左端の行から順に数字に対応する斜線をインクで引いていく。(0=斜線1本、1=斜線2本、2=斜線3本……)
(6)完成。

 「ジーンズ」はこうして制作された。結果は写真と似ているが、写真とは違う手触りがある。膨大な作業量とか、根気強い営みとか、何かそんな途方もないものに圧倒される。

 それを超写実主義とか、超絶技法などというと、少しニュアンスが違ってくるような気がする。そういうことではなくて、何かもっと根本的な問いかけがあるように思える。その問いかけが何かは、簡単にはいえないが、描くという行為を異化するものだ。

 吉村芳生の代名詞ともいえる「新聞と自画像」シリーズには、新聞に自画像を描いた作品と、新聞そのものを描いて、そこに自画像を重ねて描いた作品とがある。それらはともに吉村芳生の生きた痕跡であると同時に、わたしたちに「生きる」ということの意味を考えさせる。

 一方、多彩な色鉛筆を使って描いた「花」シリーズには、写実性というよりも、不思議な非現実感があった。それらの花の作品も、(おそらく写真から)マス目ごとに転写して制作されているのだろうが、その結果現れる作品には、何か(この世ならざる)彼岸めいたものが感じられた。
(2018.12.14.東京ステーションギャラリー)

(※)主な作品の画像(本展のHP)
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葵トリオ

2018年12月15日 | 音楽
 今年9月に開かれたミュンヘン国際音楽コンクールのピアノ三重奏部門で第1位を獲得した葵トリオの凱旋リサイタル。「葵」という名称は、ヴァイオリンの小川響子、チェロの伊東裕、ピアノの秋元孝介のそれぞれの名字の頭文字からとられている。花言葉の「大望、豊かな実り」への共感をこめているそうだ。

 プログラムは、以下順次触れるように、堂々たるもの。いずれもコンクールで演奏した曲だそうだ。コンクールは、録音審査、1次予選、2次予選、セミファイナル、ファイナルと続き、ファイナルに残ったのは3組。その中で葵トリオが優勝し、他の2組は同順位の3位となったそうだ。

 1曲目はハイドンのピアノ三重奏曲第27番。真嶋雄大氏のプログラム・ノートによれば、ハイドンはピアノ三重奏曲を「合計45ないし47曲」遺した。第27番は「おそらく1796年に書き上げられたとみられる」。すでにロンドンで成功し、国際的な巨匠になった時期の作品だ。

 ピアノ主体の作品で、ヴァイオリンとチェロがオブリガート風に絡む。第3楽章フィナーレの演奏が情熱的に盛り上がった。

 2曲目はブラームスのピアノ三重奏曲第1番。わたしの愛してやまない曲だ。久しぶりに聴いたこの曲に胸が締めつけられた。演奏の面では、1曲目のハイドンでもチェロのしっかりした足取りに注目したが、この曲ではチェロの旋律が多いので、まっすぐな感性を感じさせる演奏にさらに引き込まれた。

 3曲目はシューベルトのピアノ三重奏曲第2番。第1番も名曲だが、第2番も名曲だ。ともにシューベルト最晩年の作品。2曲目のブラームスとはピアノの音がガラッと変わるのがおもしろかった。重厚で深々としたブラームスの音に対して、みずみずしく淡い色彩感のあるシューベルトの音、といったらよいか。

 以上の3曲とも、葵トリオの演奏は、表情豊かなヴァイオリンと(前述したような)まっすぐな感性を感じさせるチェロと、それを支える安定したピアノ、という構成のように感じられた。そのアンサンブルでどの曲も初々しく情熱的に演奏された。

 コンクールの課題曲には、アイヴズ、ヘンツェ、リームと(わたしには未知の作曲家だが)シュルンカの作品があったそうだ。それらの現代曲ではどんな演奏をしたのだろう。いずれ機会があったら聴いてみたいと思った。
(2018.12.14.サントリーホール小ホール)
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アラン・ギルバート/都響

2018年12月11日 | 音楽
 思えばアラン・ギルバートの指揮はN響時代から聴いている。長い付き合いになったものだ。N響時代の演奏では、2002年に聴いたショスタコーヴィチの交響曲第4番と、2007年に聴いたマルティヌーの交響曲第4番が今でも記憶に鮮明だ。その後、2011年に都響を初めて振ったときのブラームス(ハイドン・ヴァリエーションと交響曲第1番)とベルク(ヴァイオリン協奏曲)にびっくり仰天して現在に至っている。

 そんなことを想い出したのは、アランと都響との関係が、2011年の驚愕の出会いから今は落ち着いてきて、お互いの立ち位置を定めようとしている――と、そんな感じがしたからだ。

 今回のプログラムはメンデルスゾーン、シューマンとストラヴィンスキー。アランは8シーズンにわたるニューヨーク・フィル音楽監督時代に、CONTACT!とNY PHIL BIENNIALという2つの現代音楽プロジェクトを立ち上げたそうだが、都響では(ジョン・アダムズの「シェヘラザード.2」を除いて)比較的保守的な路線をとっているようだ。

 1曲目はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」。冒頭、弦の第1主題のハーモニーに耳慣れない音(あれはセカンド・ヴァイオリンだったか、ヴィオラだったか)が浮き上がった。その後も細かい伴奏音型が浮き上がることがあった。このような小技がきくところもアランらしい。

 2曲目はシューマンの交響曲第1番「春」。アランらしいと思った箇所は、第3楽章スケルツォの2つのトリオでの、激烈でダイナミックな表現だ。欧米のメジャー・オーケストラを常時振っている指揮者らしい破格のダイナミズムだと思った。全体的にも、春うららの演奏ではなく、ダイナミックな、テンションの高い演奏だった。

 以上2曲で印象的だったことは、オーボエの鷹栖さんの鄙びた音色だ。都響のオーボエの2人の首席奏者は、広田さんの蠱惑的な音色にたいして、鷹栖さんの鄙びた音色と対照的で、それによってオーケストラ全体の印象が変わる。

 3曲目はストラヴィンスキーの「春の祭典」。第1部のフィナーレの「大地の踊り」が熱狂的でスリル満点だった。全体的にいって、第1部のほうが第2部よりインパクトが強かった。

 以上3曲のどの曲でも、アランの指揮には一種の大衆性があった。それが受け入れられて、クラシック音楽愛好者が増えることを願いたい。
(2018.12.10.サントリーホール)
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ヘンゲルブロック/N響

2018年12月09日 | 音楽
 ヘンゲルブロックが初めて指揮したN響は、1曲目がバッハの「組曲第4番」。弦の8‐8‐6‐4-2の編成は、ヘンゲルブロックなら当然かもしれないが、その小ぶりな編成で、きびきびした、鋭角的な演奏が繰り広げられた。でも、それもヘンゲルブロックなら当然かもしれない。

 一方、その演奏に余裕のなさを感じたことには戸惑った。ヘンゲルブロックの演奏スタイルを楽しむ様子が、N響には感じられなかった。同じくピリオド・スタイルの演奏ではあるが、あのノリントンのユニークなスタイルをこなしていたN響なのに、といぶかった。

 2曲目はバッハの「前奏曲とフーガ「聖アン」」をシェーンベルクが大編成のオーケストラ用に編曲したもの。期待の演奏だったが、これにも余裕のなさがつきまとった。神経質な色合いはシェーンベルク特有のものだと思うが、その神経質な色合いをふくめて、この作品を楽しむ様子がN響には窺えなかった。

 プログラムにこの曲が入ったのはなぜだろうと思った。わたしの勘では、ヘンゲルブロックの希望ではないのではないか、と‥。N響のホームページに掲載されている企画担当者のコメントを読むと、「古楽・モダンの両分野で活躍するマエストロの個性を最大限に活かすこと」がプログラム編成の方針の一つにあげられているので、その方針とバッハとを結びつけたのかもしれないが、それよりむしろ、たとえばシェーンベルクのオリジナル曲のほうがよかったのではないかと思った。

 3曲目はバルタザール・ノイマン合唱団が加わってバッハの「マニフィカト」。これはすばらしかった。同合唱団を聴くのは初めてだが(初来日)、ヘンゲルブロックの演奏スタイルを熟知し、その表現に一部の隙もなかった。

 わたしは初めてヘンゲルブロックの何たるかに触れた思いがした。それは、先ほど例に引いたノリントンとの比較でいうと、ノリントンのお茶目なユーモアとは正反対に、真面目で、ぬくもりがあり、ドイツの精神風土に根ざしたものだった。

 同合唱団では第6曲と第9曲のアルトのソロ・パートをカウンターテナーが歌った。その歌手の声と表現がすばらしかった。

 アンコールにバッハの「クリスマス・オラトリオ」から第59曲が演奏された。ドイツ語の曲になると(「マニフィカト」はラテン語)、同合唱団の味がさらによく出た。さらにもう一曲、15世紀のフランスの曲が演奏された。
(2018.12.8.NHKホール)
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沼尻竜典/日本フィル

2018年12月08日 | 音楽
 久しぶりに日本フィルの指揮台に戻ってきた沼尻竜典が振る定期。1曲目はベルクの「歌劇《ヴォツェック》より3つの断章」。冒頭で弦の透明な、沈潜したようなハーモニーが聴こえてきたとき、その音はいつもの日本フィルとは違うと思った。その音はその後も崩れなかった。

 そこには沼尻竜典の(後述するような)成長した姿があった。同時に、ラザレフ、インキネンによってアンサンブルが鍛えられた日本フィルの姿もあった。そしてもう一つ、ゲスト・コンサートマスターの白井圭の効果もあったかもしれない。

 ソプラノ独唱のエディット・ハラーの、呟くような、ドラマ性をはらんだ弱音から、ホールを揺るがす、朗々と響く大音量までの声のコントロールは、さすがにウィーンやミュンヘンの大歌劇場で活躍する第一線の歌手だけあると思われ、圧倒的だった。

 オーケストラの美しさと歌手の力量とが相俟って、ベルクのオペラがステージ上に見事に現出した。最近はオペラの演奏会形式上演が盛んだが、ベルクのオペラこそふさわしいと思った。言い換えると、演奏会形式でその音楽に浸りたいと思わせるものが、ベルクのオペラにはあると思った。

 「断章」はベルク自身によって編まれた。オペラを作曲したものの、上演のあてがなかったベルクが、いわばプロモーション用に編んだ。オペラの中から兵士ヴォツェックの内縁の妻マリーが登場する場面を中心に編んでいる。オペラの中でも抒情的な場面が選ばれている。その選択の巧みさゆえだろう、意外なくらい新鮮に感じた。

 2曲目はマーラーの交響曲第1番「巨人」。これも名演だった。名演という一般的な言い方より、いつもの日本フィルとは一味違う演奏といった方がいいかもしれない。精緻なテクスチュアが、淀みなく、流麗に流れる演奏。ホルンの1番奏者などに小さなミスがあったが、それも音楽の流れに浮かぶ塵のようなものにすぎなかった。

 沼尻竜典は成長したと思う。淀みのない音楽の流れは、デビュー以来のものだが(わたしは昔、新星日本交響楽団の定期会員だったので、沼尻竜典が1993年に同団の正指揮者になって以来、もう25年も聴いていることになる)、音楽の流れは磨かれ、またリスクを取った表現の積極性が目覚ましくなった。

 オーケストラ全体が沼尻竜典の流れに乗る中で、オーボエ首席奏者の杉原由希子の濃厚な表現が異彩を放ち、存在感があった。
(2018.12.7.サントリーホール)
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ヴェデルニコフ/N響

2018年12月03日 | 音楽
 N響の12月の定期は、デユトワの来日が中止になったので、代わりにヴェデルニコフ、フェドセーエフ、ヘンゲルブロックが登場する。とくにヘンゲルブロックは、瓢箪から駒が出たようなもので、期待がつのる。ヘンゲルブロックの演奏会は今週末にあるが、その前にヴェデルニコフの演奏会があった。

 曲目はオール・ロシア・プロ。1曲目はスヴィリドフ(1915‐1998)の組曲「吹雪」。元はプーシキンの原作に基づく映画のための音楽だが、それを演奏会用組曲に編曲したもの。そのためか、たいへんわかりやすい。明快でロシア情緒に浸ることができる。とくに第4曲(全体は9曲で構成)は、情感豊かな旋律が何度も繰り返され、そこにオブリガート旋律が絡まって、どこか懐かしい感じがする。

 驚いたのは第6曲「軍隊行進曲」。弦楽器はお休みで、木管、金管と打楽器だけで演奏される。まさにN響ウインドアンサンブルだ。それはもう見事なもの。中学・高校と吹奏楽に明け暮れたわたしの昔日の血が騒いだ。

 2曲目はスクリャービンのピアノ協奏曲。ピアノ独奏はアンドレイ・コロベイニコフ。いうまでもないが、ショパンの影響が濃厚な曲。後年の異端的な面影は微塵もない。そんな曲を楽しむには、演奏が重すぎた。遊びがなくて息苦しい。それは主にピアノの演奏に由来するが、オーケストラもなす術がなかった。

 アンコールにスクリャービンの練習曲集作品42から第5曲嬰ハ短調が演奏された。わたしはこの方がおもしろかった。左手が轟々と鍵盤をたたき、右手も負けていない。ピアノから猛烈なエネルギーが巻き起こった。

 3曲目はグラズノフの交響曲第7番「田園」。これはおもしろかった。高橋健一郎氏のプログラム・ノーツで指摘されているが、第1楽章はたしかにベートーヴェンの「田園」交響曲を思い起こさせる。そのパロディーというより、真面目な再構成(パラフレーズ)という感じがする。第2楽章以下はグラズノフの音楽が展開する。

 ヴェデルニコフの指揮は、今まで何度か聴いたことがあるが、この曲は名演の一つだ。N響をバランスよく鳴らし、全体的に安定感がある。音がベタッとせずに弾みがある。ヴェデルニコフは主情的な表現をするタイプではないので、そんな音楽性がグラズノフの音楽によく合っているようだ。

 ヴェデルニコフの音楽性にはネーメ・ヤルヴィと似たところがあるのではないかと思う。
(2018.12.2.NHKホール)
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「作曲家の個展Ⅱ」金子仁美×斉木由美

2018年12月01日 | 音楽
 今年の「作曲家の個展Ⅱ」は金子仁美(1965‐)と斉木由美(1964‐)。二人は同世代で、フランス留学の時期も重なっている。そんな二人が「お茶をしながら」練った企画テーマは「愛の歌」。一見して甘いテーマに見えるが、もちろんそんなことはなくて、「愛の歌」はスペクトル楽派のジェラール・グリゼイ(1946‐1998)の曲名から取られている。金子はグリゼイに師事し、斉木も管弦楽法を学んだ。

 プログラムは前半が金子と斉木の旧作を1曲ずつ、後半が新作を1曲ずつ。演奏順とは前後するが、まず金子の作品から記すと、旧作はピアノとオーケストラのための「レクイエム」(2013)。東日本大震災のとき金子はパリにいたが、多くの人が心配してくれる中で、本作を書いた。

 演奏時間は20分くらいだったろうか(不確か)、その中で入祭唱→キリエ→怒りの日→ラクリモサ→サンクトゥス→ベネディクトゥス→アニュスデイ→ルクスエテルナ→リベラメ→インパラディスムが展開する。

 新作は「分子の饗宴」。プロローグ→基本味(酸味、塩味、旨味、苦味、甘味物質の分子構造)の提示→摂取(食事)→消化(体内での消化)→エピローグと続く。旧作、新作とも一つの推移が構想されているのは偶然だろうか。金子の作品を聴くのは今回が初めてなので、わからないが。

 演奏はピアノが野平一郎、オーケストラが沼尻竜典指揮の都響。作品を十分に消化して、鮮度の高い演奏を繰り広げた。最近の作曲家は幸せだ。初演のときから完成度の高い演奏で紹介される。

 一方、斉木の旧作は「アントモフォニーⅢ」(2003~4)。本作は2004年6月の読響定期で初演された(指揮はゲルト・アルブレヒト)。わたしはそれを聴いているが、今回再び聴いて、そのときの記憶が蘇った。じっと耳を澄ますと、さまざまな虫の音が聴こえてくる、という音の風景をオーケストラで表現した曲。

 新作は「The First Word/第一の言葉」。曲名はイエスの十字架上の7つの言葉の第一の言葉「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」に由来する。本作を契機に今後7つの言葉の連作に発展するのか、と期待される。

 楽音以外のノイズも交えた曲。曲想はシリアスで緊張感に富む。全体を通して、金子の音楽が理科系なのに対して、斉木の音楽は文科系で、その対照がおもしろかった。
(2018.11.30.サントリーホール)
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