Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インキネン/日本フィル

2013年04月27日 | 音楽
 インキネン/日本フィルのシベリウス・チクルスも最終回。なんだか呆気ない。何事も終わってみるとそんなもの、ということかもしれないが。

 今回は第3番から。冒頭、シベリウスには珍しい低弦のリズミカルな音型が始まると、弾みのある、浮き立つようなリズムと、明るい音色に耳をそばだてた。わたしが持っていたこの曲のイメージは、第2番までの作風から第4番の作風へ移行する過度的な作品というものだった。でも、この演奏できくと、むしろ新たな始まりを告げるものだった。喜びにあふれた始まり。比喩的にいえば、第3番ではなくて、新たな視界がひらけたその第1番という感じだった。

 第1楽章は好調だったが、第2楽章と第3楽章はさらに練り上げたアンサンブルがほしかった。アンサンブルの密度が粗かったと思う。

 休憩後は第6番。冒頭の弦のアンサンブルを聴いて、こうでなくては、と思った。緻密で、しかも清新な感覚があった。以降、最後まで好調。緊張感が途切れなかった。今回のチクルスでは第4番と第5番がよかったが、それと並ぶ演奏だと思った。では、次に控える第7番はどうなのかと、興味が先走りするのを抑えきれなかった。

 第6番は静かに終わるが、その消え入るような終止から、休みをとらずに、そのまま開始された第7番は、第6番とはうって変わって深い音がした。こんなにちがうのかと驚いた。音楽が一筆書きのように曲線を描きながら盛り上がっていく過程では――そしてその頂点でトロンボーンのテーマが鳴るのだが――音に感動があった。感動に震える音だった。

 第7番は故渡邉暁雄が何度も振った。もちろん他の指揮者でも聴いた。それらを全部ひっくるめて、このような瑞々しい音は聴いたことがない。しかもその音は、たとえば第2番のように声高な、だれにでもわかる感動をこめた音ではなく、そっと耳を澄まさないとわからない慎ましい感動を秘めた音だった。

 思えばこの第7番は、演奏会では扱いにくい曲かもしれない。すわりが悪いといってもいい。前後の曲と関連しないのだ。シベリウス独自のファンタジーが単刀直入に始まり、その世界にとどまり、そこで完結するからだ。なので、今回のようにすべてシベリウスの交響曲でまとめ、しかも第6番から休みなく続ける方法は、案外最良の方法かもしれない。そのことによってこの曲が収まるべきところに収まる感じがする。その効果も大きかった。
(2013.4.26.サントリーホール)
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魔笛

2013年04月22日 | 音楽
 新国立劇場の「魔笛」を観た。もう何度か再演されているプロダクションで、わたしも一度観たことがある。今回で2度目。

 指揮のラルフ・ヴァイケルトが、おっとり、もったりした指揮で、いつまでたっても平板なまま。そのうち睡魔が襲ってきた。必死にがんばっているうちに、第一幕フィナーレでようやく流れが出てきた。第二幕は好調。それでも旧式の、古き良き時代のタイプであることに変わりはない。でも、そうだと思ってしまえば、それはそれでいい。

 そういうわけで、興味はもっぱら歌手にいった。なんといってもパミーナの砂川涼子。驚くほど成長したものだ――というのも、実はちょっと想い出があるからだ。2001年2月に宮古島に行ったとき、公民館で音楽会があることを知り、飲み屋に行くのを止めて聴きに出かけた。地元出身の砂川涼子のリサイタル。ちょうど日本音楽コンクールの第一位になり、イタリアに留学する前だった。地元では大騒ぎ。まるで国際的な歌手が誕生したかのような盛り上がりだった。高校時代はブラスバンドをやっていたようで、仲間が大勢来ていた。リサイタル終了後、ロビーで仲間と談笑している姿が目に浮かぶ。

 そのような縁があって、その後も応援していた。この数年はオペラを観る機会がなかったので、久しぶりだった。抜群の安定度がその成長を物語っていたが、ドイツ語のセリフもすばらしかった。ジングシュピールなのでセリフが大量にあるが、ドイツ語は砂川涼子とザラストロの松位浩が群を抜いていた。

 松位浩もすばらしかった。今までもなにか聴いたことがあるかもしれないが、こんなにすばらしいとは認識していなかった。艶のある、日本人離れした声だ。19日の公演は「健康上の理由」で休場したそうだ。この日は無事出ていた。出てくれてよかった。

 歌手のことはこのくらいにして、あとは雑感を。もう何度も観たこのオペラだが、今回ハッとしたのは、モノスタトスのアリアだ。第2幕に出てくる短いアリア。他のどのアリアよりもテンポが速くて軽快だ。全体的に遅いテンポで書かれているこのオペラで、このアリアは異色の存在だ。

 どう見ても人種差別としか思えないモノスタトスの扱いだが(それはシカネーダーのリブレットに帰するが)、そのモノスタトスの唯一のアリアに付けられた音楽が、一番軽快で生気に満ちている――そのことにモーツァルトの優しさが感じられた。差別されているものへの優しいまなざし。
(2013.4.21.新国立劇場)
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ビシュコフ/N響、インキネン/日本フィル

2013年04月21日 | 音楽
 急に寒くなった土曜日、ブレザーでは寒くて、薄いコートでも羽織ってくればよかったかと後悔。足早にNHKホールへ。セミョーン・ビシュコフ指揮のN響でヴェルディの「レクイエム」。昔、カラヤンが自分の後継者として何人かの名前をあげたとき(そういうことが何度かあった)、ビシュコフが入っていた。そのときその名前は強烈にインプットされたが、実際に聴くのは初めてだ。

 なるほど、こういう指揮者なのか、オーケストラが弾きやすそう(吹きやすそう)だ。無理のない呼吸感がある。しかもオーケストラを煽らずに、十分に鳴らすことができる。さすがにパリ管、ケルン放送響のポストを歴任しただけのことはあると思った。N響の体質とも合っていそうだ。

 だが、なぜか感動しなかった。なるほど、そうなのね、で終わってしまうところがあった。

 独唱者はいずれも初めて目にする(耳にする)人たちだった。アルトのアニタ・ラチヴェリシュヴィリAnita Rachvelishvili(グルジア生まれ)に注目した。深い声とストレートな表現の人だ。あとの3人は、ラテン語の発音に癖があったり、声域によってムラがあったり――。

 合唱団は新国立劇場合唱団。150人ほどの大編成で、しかも本拠地では「魔笛」の公演が進行しているので、当然大量のトラが入っている。なので、申し訳ないが、新国立劇場合唱団とは名ばかりで、本来のレベルからは遠かった。

 「レクイエム」1曲なので早めに終了した。次は横浜へ。インキネン指揮日本フィルのシベリウス・チクルス第2弾、シベリウスの交響曲第4番と第2番。まずは第4番。先月の第5番の好調さを維持している。第4番というと茫漠とした(霧が漂うような)幻想的なイメージがあるが、インキネンの指揮で聴くと、シベリウスがはっきり発言していることがわかる。今後この曲はこう演奏されるのだろう。

 第2番は故渡邉暁雄の十八番だった。渡邉暁雄/日本フィルの演奏で何度聴いたことだろう。その伝統が今リフレッシュされて蘇った、という感慨があった。もちろん渡邉暁雄の解釈とはちがって、もっと明るく、おそらくはシベリウスの同時代人カヤヌス以来の伝統を清算するものだが、それはそれで未来志向で受け止めるべきだろう。ネーメ・ヤルヴィとのチクルスはなにも残さなかっただけに(わたしにはそう思える)、今回のチクルスは嬉しい。
(2013.4.20.NHKホール、みなとみらいホール)
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飯守泰次郎&東京シティ・フィル

2013年04月20日 | 音楽
 飯守泰次郎が振った東京シティ・フィルの定期。1曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第21番、ピアノ独奏は菊池洋子。

 菊池洋子は読響の1月定期に出演して、やはりモーツァルトのピアノ協奏曲第23番を弾いた。そのときの演奏がすばらしくて、この人の才能は本物だと思った。そこで今回も期待して出かけた。

 期待どおりというか、1月の演奏を彷彿とさせる演奏だった。とくに気に入ったのは第2楽章。弱音のコントロールが見事だ。そういえば読響のときもそうだった。アンサンブルの透明な皮膜をけっして破らない演奏だと思った。そのときの感じと今回とはおそらく同根だ。

 第1楽章のカデンツァは今まで聴いたことのないものだった。これはだれの作だろうと思ったら、御本人だった。斬新な感覚があり、しかも――若さゆえだろう――勢いがあって、ものすごくおもしろかった。

 アンコールもおもしろかった。明らかに現代の作品だが、シンプルでかつ親しみやすい曲で、これはいったいだれの作品だろうと思っていたら、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」が始まった。なるほど、そういう趣向かと思ったら、実はこれは2曲別の作品を続けて演奏したものだった。最初にクルターグの「ファルカシュ・フェレンツに捧げるオマージュ」(ファルカシュ・フェレンツはクルターグの師匠)、次にマイラ・ヘスによるバッハの編曲。ずいぶんセンスがいいなと感心した。そこで思い出したのだが、読響のときは当日の指揮者セゲルスタムの作品を弾いていた――しかも暗譜で――。意欲満々の人だ。

 2曲目はブルックナーの交響曲第5番。第2楽章アダージョでオーボエの主題が出て、次に弦のコラールになり、それが発展していく過程の美しさといったら――。この部分はこんなに美しかったのかと、教えてもらった思いだ。ブルックナーの語彙を借りれば、神への憧れ――そんな言葉が気恥ずかしくなく使える気がした。

 飯守泰次郎のブルックナーは、悠揚せまらぬブルックナーではなく、また梃子でも動かないブルックナーでもない。どちらかというとアグレッシヴなアプローチだが、そういうことよりもむしろ、生涯をかけて真摯に音楽を究めてきたその到達点が過不足なく表されたブルックナー、ということのほうが大事な気がした。

 飯守泰次郎は、生涯の実りの時期を迎えていると思う。
(2013.4.19.東京オペラシティ)
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ラファエロ展

2013年04月19日 | 美術
 ラファエロ展に行ってきた。混雑必至。いつもは比較的空いている金曜日の夜間開館時間に行くのだが、この先しばらくは金曜日に予定が入っているので、混雑覚悟で平日の午後に行ってみた。そうしたら案外楽に観られた。ことに4時半過ぎには空いてきたので、ゆっくり観ることができた(閉館は5時半)。

 昨年、ラファエロ展が開かれることを知ったときには驚いた。これはすごいことになる、と。よく世界の美術館から借りられるな、と。と同時に、人々が殺到するだろうな、とも思った。思えばこの一年間混雑におびえていたわけだ。我ながら笑止千万、案ずるより産むがやすしだ。

 もちろんラファエロの大作は来ていない。いや、来るわけがない。でも、今まで画集で観てきた主要な作品が何点か来ている。その実物に接するありがたい機会だ。

 その意味では、一番おもしろかったのは「聖セバスティアヌス」(1501-1502頃。ベルガモ、アカデミア・カッラーラ絵画館)だ。ラファエロ(1483-1520)の若いころの作品。画集で観た記憶はあるが、そんなに印象的ではなかった。でも、これがおもしろかった。いつまで観ていても飽きなかった。なにがおもしろかったのだろう。解説パネルにもあったが、仕上げのよさや明暗のうまさが、実物だとよくわかるからだろう。画集ではもっと平板になってしまう。
↓「聖セバスティアヌス」
http://www.wga.hu/html/r/raphael/1early/01sebast.html

 なつかしい作品もあった。「無口な女」(1505-1507。ウルビーノ、マルケ州国立美術館)だ。何年も前にペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルに行ったとき、日中はなにもすることがないので、ウルビーノに行った。バスで簡単に行けた。目的はピエロ・デラ・フランチェスカを観るためだ(そして大いに感動した)。そこにこの作品もあった。ラファエロらしくない硬い表情だなと思った。
↓「無口な女」
http://www.wga.hu/html/r/raphael/2firenze/2/36lamuta.html

 でも、二度目となる今回は、あまり硬い感じはしなかった。むしろ親しみさえ感じた。首の飾り紐の影が映っていることなど、今回初めて気が付いた。感心して観ているうちに、髪の毛が褪色しているらしいことに気が付いた。

 そういえば、チラシに使われている「大公の聖母」(1505-1506。フィレンツェ、パラティーノ美術館)の左手の袖口も、なんだか妙だなと思ったら、褪色しているようだった。といっても、この作品、聖母の優美さや幼子イエスの表情は、ラファエロの神髄の一端を伝えるものだ。
↓「大公の聖母」
http://www.wga.hu/html/r/raphael/2firenze/1/22grand.html
(2013.4.18.国立西洋美術館)
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武蔵野

2013年04月16日 | 身辺雑記
 4月から職場が変わりました。3年間勤務した四ツ谷のビルが閉鎖されることになったためです。3月31日にすべての業務を終え、施錠しました。同僚の車で駅まで送ってもらうとき、遠ざかりゆくビルが目に入りました。なんとも疲れたように見えて、胸を打たれました。駅で下してもらいましたが、心残りで帰宅する気になれず、歩いてビルまで戻りました。外壁には雨の跡が何本も垂れていました。今まで気が付きませんでした。人がいるうちは気付かなかったようです。役目を終えて生気を失ったように見えました。疲れ切ったように見えました。

 このビルには想い出があります。学校を出て就職したのがこのビルでした。職場はその後お茶の水に移転しましたが、このビルはテナントビルとして生き残りました。3年前に早期退職してこのビルの管理会社に移りました。そしてこの度その閉鎖に立ち会ったわけです。

 閉鎖されたそのビルを見ていると、若いころの想い出が脳裏をよぎりました。まだ労働運動が盛んなころで、構内デモをしたことがあります。経営者側にはいい迷惑だったでしょうが、青春の想い出です。初出勤の日のことも目に浮かびます。先輩が(どういうわけか隣の係りの係長が)コピーの取り方を教えてくれました。ガラス面に手のひらをのせると、手形が出てきました。大笑いのご教示でした。

 そのビルが閉鎖されることになったとき、もうこれで身を引こうと思いました。その旨を申し出ました。でも、別の職場に移されました。今度は三鷹です。駅からバスなのでかなり遠くなりましたが、武蔵野の面影が残るすばらしい環境です。桜が終わり、今は新緑です。気持ちがリフレッシュします。

 せっかく武蔵野に来たのだからと、国木田独歩の「武蔵野」を読んでみました。わたしの職場のまさにその場所が舞台です。今では宅地化されていますが、公園とか、玉川上水(太宰治の例の事件があったところです)にその面影が残っています。国木田独歩の文学碑があるので、見に行きました。一本の柱が立っているだけでした。「な~んだ」と笑ってしまいました。でも、「武蔵野」の世界にふさわしいかもしれないな、と思い直しました。

 国木田独歩は1871年生まれ~1908年没、――ひょっとして、と思って調べてみたら、幸徳秋水が1871~1911、石川啄木が1886~1912、みんな同時代でした。この時代の文学者(幸徳秋水は文学者とはいえませんが、たいへんな文筆家でした)は、たいしたものだと思います。保守化が進んだ今の世の中では失われてしまった進取の気性が漲っています。それが眩しく感じられました。
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モートン・フェルドマンとその系譜

2013年04月13日 | 音楽
 高橋アキのピアノドラマティックVol.9、「モートン・フェルドマンとその系譜」。メインプロが「トライアディック・メモリーズ」とあれば聴かない手はない。気合を入れて出かけた。

 1曲目はバニータ・マーカスの「…バット・トゥ・ファッション・ア・ララバイ・フォー・ユー…」…but to fashion a lullaby for you…(1988/1998)。フェルドマンの「バニータ・マーカスのために」でその名を聞いているバニータ・マーカスだが、作品を聴くのは初めてだ。実に美しい曲。この曲のCDは出ているのだろうか。もし出ているなら、手元に持っていたいと思わせる曲。

 初めはフェルドマン的な静謐な音調で始まるが、やがてポピュラー音楽的な甘いメロデイーが出てくる。そこに楔のような音が打ち込まれる。長い休止があり(亡くなったフェルドマンにささげる黙とうのようだ)、最後に「子守唄」が奏される。

 2曲目はバーバラ・モンク=フェルドマンの「ソフト・ホライズン――ケベック州ガスペズィ」SOFT HORIZONS-Gaspesie Quebec(2013)。フェルドマンが亡くなる直前に結婚した人。この人の作品も初めてだ。茫洋とした音のつながりが、1曲目の「…バット・トゥ~」よりフェルドマン的だ。

 3曲目は藤枝守の「パターンズ・オブ・プランツ・イン・ア・クロマティック・フィールド」Patterns of Plants in a Chromatic Field(2013)。フェルドマンに学んだことがある藤枝氏だが、この曲はフェルドマンからは遠い。前2曲に比べると大きな音で、流れがあった。この曲が一番普通の感覚で聴けたともいえる。

 休憩をはさんで、4曲目がフェルドマンの「トライアディック・メモリーズ」。1曲目と2曲目に比べると、音に劇的なインパクトがある。やはりちがうと思った。集中して聴いていたが、――凡人の悲しさというべきか――最後まで続かなかった。音のパターンが崩れ、変化し、糸の切れた凧のように浮遊し始めて、どこへともなく彷徨っていくうちに、集中力がもたなくなった。

 高橋アキはさすがだった。わたしよりも年上のはずだが、その容姿と同様に演奏も若々しい。これはもう嬉しくなってしまう。音は瑞々しいし、感覚もそうだ。昔と少しも変わっていない。驚くべきことにアンコールがあった(曲名は聞きとれなかった)。これは普通に現代音楽的な曲。「トライアディック~」で凝った肩をほぐしてくれた。
(2013.4.12.東京オペラシティリサイタルホール)
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効率学のススメ

2013年04月10日 | 演劇
 新国立劇場の新企画「With―つながる演劇―」が始まった。過去のマイルストーンになる作品を重点的に取り上げてきた観がある宮田慶子芸術監督が、同時代の劇作家に新作を委嘱したシリーズ。満を持して世に問う姿勢が感じられる。

 第一作は英国ウェールズの劇作家アラン・ハリスの新作「効率学のススメ」。演出は同じくウェールズのナショナル・シアター芸術監督ジョン・E・マグラー。

 あるバイオテクノロジー会社の研究所の一つにビジネス・コンサルタントが送り込まれる。その研究所が効率的に運営されているかどうかを調査分析するためだ――が、実際にはその非効率性をあばき、リストラをするためだ。

 コンサルタントは研究所の所員に業務の流れを図示させる。そのときに使う横長の紙がブラウンペーパー。この手法はブラウンペーパー分析と呼ばれるそうだ。そういえば、わたしも前職でこれに似た業務分析に参加させられた経験がある。そのときはリストラ前提ではなかったが――。

 わたしの経験に比べると、今はもっと厳しくなっている、と想像がつく。その時代背景にもとづく作品。最後はほんのり甘い救いが用意されている。でも、現実はそうはいかない。芝居であるがゆえの幕切れだ。それをどう感じるか――現実はもっと先に行ってしまっていると感じるか、芝居だから救いがあってほしいと感じるか。

 いずれにしても、コンサルタントの講評の途中からは、こうあってほしいという願望の世界に入る。なので、これは願望だ――現実はこうではないけれど――ということがわかる演出であってもよかった気がする。

 また、芝居の筋としては、コンサルタントと女性研究員とのあいだに恋愛感情が芽生える経過がわかりにくかった。そこにどういう感情の推移があったのか――、この部分の粗っぽさが感興をそいだ。

 この演出では観客が四方から舞台を囲むアリーナステージ方式が採用されていた。新鮮な感覚だ。だが、わたしの席からはコンサルタントのホテルの部屋が遠く感じられ――視覚的にも心理的にも――、マイナス要因になった。また、役者は四方八方を相手にするので、背中を向けることも多く、そのときはセリフが聞き取りにくかった。

 コンサルタント役の豊原功補は、芝居の前半では、もっと怜悧な切れ者的雰囲気があってもよかった。そのほうが後半とのあいだでメリハリがきいたかも――。
(2013.4.9.新国立劇場小劇場)
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ircam×東京春祭

2013年04月07日 | 音楽
 今年はイルカムircam(フランス国立音響音楽研究所)の当たり年だ。東京・春・音楽祭にはイルカムに関連する作品を集めた「ircam×東京春祭」が組まれているし、ラ・フォル・ジュルネにはアンサンブル・アンテルコンタンポランが参加する。

 「ircam×東京春祭」は2部のコンサートから成り、第1部では3曲が演奏された。1曲目はジェローム・コンビエ(1971-)のKogarashi(木枯し)。ギターと電子音響のための曲だ。これが面白かった。電子音響が空間を移動し、楽器音(ギター)も電子的に処理されている。それらが絡み合い、繊細な空間を形成していた。

 2曲目のヤン・マレシュ(1966-)の「スル・セーニョ」は、ハープ、ギター、ツィンバロン、コントラバスと電子音響のための曲。これには退屈した。ある一か所に停滞して先に進まないもどかしさを感じた。言い換えると、水溜りのような淀んだものを感じた。もっともそれは、作品のせいか、演奏のせいか、判断はつきかねた。この曲だけでマレシュという作曲家はこうだと決めつける気もない。

 3曲目はファウスト・ロミテッリ((1963-2004)のTrash TV Trance。エレクトリック・ギターのための曲。Trashとはゴミ箱、Tranceとはトランス状態のトランスのこと。この曲はもっとユーモラスな曲ではないかと思いながら聴いていた。そのユーモラスな味が出てこなかった。

 もっとも、個々の曲の品定めよりも、全体を通して、イルカムで定期的に開催されている演奏会に参加したような疑似体験ができたことのほうが重要で、かつ興味深かった。演奏はアンサンブル・クール=シルキュイという団体。

 第2部では2曲が演奏された。1曲目はブーレーズの「二重の影の対話」(サクソフォン版)。端的にいって、現代美術におけるインスタレーションのような曲だと思った。もっと実感に即していうと、インスタレーションのなかで聴いたらよく合うだろうな、と思った。

 2曲目は野平一郎の「息の道」。「二重の影の対話」にヒントを得て、さらに発展させたような曲。「二重の~」より壮麗になっているが、その分インスタレーションとの親近性は後退している。もっとも、インスタレーションとの関連で捉える必要はないわけだが(わたしなりの理解の工夫にすぎない)。以上2曲はクロード・ドラングルのサクソフォン独奏。
(2013.4.5.日経ホール)
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ジェームズ・ジャッド/都響

2013年04月05日 | 音楽
 ジェームズ・ジャッド指揮都響の定期。ジェームズ・ジャッドが都響を振るのはこれが2度目だと思う。前回はエルガーの交響曲第1番と第2番をAプロ、Bプロに振り分けたプログラムだった。今回はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第4番と第5番。これも好奇心をそそるプログラムだ。

 交響曲第5番は好きな曲だ。「好きな」という言葉ではありきたりすぎる、むしろ「偏愛する」とか、「こよなく愛する」とかいったほうがいい気がする。以前ロジャー・ノリントンがN響を振って名演を聴かせてくれた(調べてみたら2006年11月だった)。それが忘れられない。

 その交響曲第5番をメインに据えたBプロを聴いた。1曲目はエルガーの弦楽セレナーデ。オーケストラからふくよかな弦のハーモニーが立ち上がってくる。無理なく響かせ、しかも十分に手応えのある音。表現は甘すぎず、しかもうるおいに欠けていない。音楽のかたちが明瞭に刻まれる演奏。

 2曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」。ピアノ独奏はヴァディム・ホロデンコ。クリアーで濁りのない音だ。音の隅々まで光が行き届いている感じ。終始明瞭に聴こえる。だが、こういってはなんだが、音楽にコクがない。清涼飲料水のような演奏。正直いって、途中で飽きてしまった。むしろアンコールのほうが面白かった。バッハ=ジロティのプレリュードを左手用に編曲したもの。バッハとは思わなかった。

 3曲目はヴォーン・ウィリアムズの交響曲第5番。これは名演だった。1曲目のエルガーを思い出させるふくらみのある音で、終始滑らかに進行する。迷うところは一切ない。全4楽章が一編の詩のようだ。各楽章はその詩のスタンザ(節)。湖水地方の自然をうたったワーズワースのような詩だ。

 この演奏はノリントン/N響を凌ぐ演奏だったかもしれない――記憶を頼りにそんなことをいってはいけないかもしれないが――。わたしの主観では、オーケストラの共感は都響のほうが上だったような気がする。言い換えるなら、この曲を演奏するモチベーションは都響のほうが上だったような気がする。

 こういう演奏で聴くと、この曲はたんなる自然讃歌ではなく、もっと奥深いものが秘められているように感じられる。それがなにかは定かではないが、人間のあり方にかんする哲学的なものが――そういうと言葉が固いが――結晶となって秘められているように感じられた。
(2013.4.3.サントリーホール)
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