Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

やがて来たる者へ

2011年10月31日 | 映画
 岩波ホールで上映中の「やがて来たる者へ」。2009年のイタリア映画。これは第2次世界大戦の末期、1944年9月29日~10月5日にイタリアで起きた「マルザボットの虐殺」を描いた映画だ。

 マルザボットの虐殺といわれても、なんのことかわからなかったので、事前にWikipediaで調べてみた。日本語のWikipediaには載っていなかったが、英語版には載っていた。武装SS(ナチス親衛隊)によるイタリア国内で最大の住民虐殺事件。犠牲者数は諸説あるようだが770人程度で、その半数以上は子ども、女性そして老人(つまり非パルチザン)だった。

 こういうと、本作は過酷な戦争映画のように思われるかもしれないが、けっしてそうではない。むしろイタリア山間部の村人たちの日常生活をほのぼのと描いた映画だ。画面はイタリア・ルネサンス絵画のような暖色系の中間色で構成され、このままいつまでも観ていたい気分になる。

 もう一つ、重要なことは、戦争の描き方がしっくりいったことだ。敵であるドイツ兵といえどもそれぞれ妻もいれば子どももいるはず。家に帰ればよき夫であり父であるかもしれない。ところが戦争というメカニズムに組み込まれると、平気で住民を殺す。永遠に解けない不条理であるこの矛盾を、本作は丁寧に(一方的に敵と決めつけないで)描いている。

 こういう敵味方の描き方は初めてのような気がして、監督の経歴を見てみた。ジョルジョ・ディリッティ監督、1959年生まれ。わたしよりも年下だが、ほとんど同世代だ。なるほど、感じ方が似ている。

 さらにもう一つ、本作で特徴的なことは、音にたいする感覚が鋭敏なことだ。作中で使われている音楽は多様式といってもよいほどで、しかも的確に使われている。加えて、主人公の少女マルティーナが口のきけない少女として設定されていることにより、まだら模様のように沈黙の層が存在する。さらに映画の終盤、マルティーナの父がドイツ兵の投げた手榴弾によって鼓膜を破られると、なにも聞こえなくなる。無音の緊張がマルティーナの父の絶望を描く。

 本作の後半では、ドイツ軍による住民虐殺と、マルティーナによる生まれたばかりの弟の救出が、並行して描かれる。一方は死のドラマ、他方は生のドラマ。両者の同時進行は2声のカノンのようだ。カノンはやがて最後の和音にいたる。本作では生のドラマが追い抜き、長調の和音で静かに終わる。
(2011.10.28.岩波ホール)
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三者三様のドイツ・レクイエム

2011年10月26日 | 音楽
 10月は在京オーケストラのうち3団体がブラームスの「ドイツ・レクイエム」を取り上げた。演奏順にいうと、東京シティ・フィルが常任指揮者の飯守泰次郎で、N響が首席客演指揮者のアンドレ・プレヴィンで、そして都響がレジデント・コンダクターの小泉和裕で。幸いそのすべてを聴くことができた。普段はあまりこういう聴き比べには興味がないが、各オーケストラが定期の枠内で、しかもそれぞれ結びつきの強い指揮者と演奏することに惹かれた。そしてそもそも曲目が汲めども尽きない「ドイツ・レクイエム」だったから。

 昨日は都響の定期。これを聴きながら、つくづく三者三様だと思った。東京シティ・フィルは、飯守さんが魂のすべてを音に注ぎ込むような演奏だった。あれは尋常な演奏ではなかった。生涯に二度と出会えない演奏だと思った。飯守さんとしても、長期にわたってかかわってきた東京シティ・フィルだからこそ、しかも常任指揮者としての最後のシーズンだからこそ可能になった演奏ではないか。

 N響の演奏はその対極にあった。終始ハーモニーの透明さを失わない演奏。演奏家たるものはすべからくこの水準を目指さなければならない、という感じがしたが、逆にいうと、高度な技術をもった指揮者とオーケストラなら置き換えも可能な感じがした。すでにできあがったオーケストラがそこにあり、指揮者は調和してなにも壊さない、という感じだ。

 都響の演奏はその中間点にある、といえばわかりやすいが、実はそんなに簡単なことではなかった。図式的にいうと、都響はそれらとは異なる第3極を形成する、といったほうが事実に近い。都響も小泉さんとは長い付き合いだ。お互いに手の内を知り尽くしている間柄、しかもマンネリに陥ることなく、お互いの成長・変化についていく、そういう関係が感じられた。

 具体的には、どの曲のどの部分をどのようなテンポでやりたいか、また錯綜したオーケストラのどのパートを浮き上がらせたいか、そういう指揮者の意図がよくわかった。その意味ではこれが一番面白かった。

 声楽陣も三者三様。ことにバリトン独唱には大きな差が出た。一番強烈な印象を受けたのは、ドラマティックで、魂の底から絞り出すような福島明也。逆にデーヴィッド・ウィルソン・ジョンソンはあっさりしたリートのようだった。ソプラノ独唱では佐々木典子に感銘を受けた。合唱は二期会合唱団が唯一のプロだが、女声・男声のバランスはさすがに問題ないものの、それ以上のものは感じられなかった。むしろ晋友会合唱団に感銘を受けた。
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下野竜也&読響

2011年10月24日 | 音楽
 下野竜也&読響の10月定期はHIROSHIMAがテーマ。今シーズンの在京オーケストラの演奏会のなかでは随一の期待だったが、所用のために行けなくなった。幸いなことにその前日にも同じプログラムの演奏会があったので、そちらのほうに行くことができた。

 1曲目はジョン・アダムズの「ドクター・アトミック・シンフォニー」。これはサンフランシスコ歌劇場の委嘱で2005年に作曲されたオペラによる交響曲だ。渡辺和さん(左欄のブックマークに登録している「やくぺん先生うわの空」のブログ主)が執筆したプログラム・ノートに作曲者の言葉が引用されていた。「ヒンデミットが〈画家マチス〉で行ったのと似た作業」とのこと。なるほど。

 オペラは原爆の開発を推進した物理学者オッペンハイマーを主人公にしたもの。残念ながらオペラは観たことがないが(2008年のMETライブビューイングで上演されたが、あの頃は余裕がなくて行けなかった。DVDが出ているが、観ていない。)、交響曲を聴くだけでも、開発に携わった人の戦慄、恐怖のおののき、そして苦悩が伝わってくる。

 本作は休みなく続く3部分から成っている。緊張感が高まる第1部「研究所」、狂乱の第2部「パニック」を経て、第3部「トリニティ」に入るとトランペットが切々と哀愁の旋律を吹く。なにか取り返しのつかないことが起こってしまったという感情がこみ上げ、涙が溢れた。

 2曲目は團伊玖磨の交響曲第6番〈HIROSHIMA〉。戦後40年たった1985年に作曲・初演された作品だ。原爆の悲劇を描くのではなく、広島の復興を称えた曲。昔どこかのオーケストラで聴いたときには、あまりにも楽天的なので違和感をもった記憶がある。渡辺和さん(前述)のプログラム・ノートには「戦後40年の時点で広島という都市が音楽的な看板として示し得る、際立って公的な音楽」という表現があり、わたしのモヤモヤが解消された。

 もしも2曲目が今夏CD(大友直人&東響)の出た佐村河内守(さむらごうちまもる)の交響曲第1番〈HIROSHIMA〉だったら、ジョン・アダムズの問題意識に日本側から呼応するプログラムになっただろうと想像する。

 演奏はすばらしかった。引き締まった構成と豪快さで、最後まで飽きさせなかった。能管と篠笛の一噌幸弘(いっそうゆきひろ)は激しい息づかい(「むら息」といってよいのだろうか)で圧倒した。ソプラノの天羽明恵も感情をこめた絶唱だった。
(2011.10.23.横浜みなとみらいホール)
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イロアセル

2011年10月19日 | 演劇
 新国立劇場の演劇「イロアセル」が始まった。若手劇作家、倉持裕(くらもちゆたか)の新作。これは演劇部門の芸術監督、宮田慶子の今シーズンのテーマ「[美×劇]―滅びゆくものに託した美意識」の第2弾だ。

 新作でしかも昨日が初日。これからご覧になるかたも多いので、具体的なディテールはできるだけ避けて、感想のみを。

 プログラムに載っている倉持裕と演出家、鵜山仁の往復書簡のなかで、鵜山仁はこう書いている。「さて、劇中、観客の感情移入の核心を、一体どのあたりに想定すればいいのか。それがここ数日の稽古場の難題です。この劇が、登場人物と、彼らを取り巻く世界の、何をどう崩壊させたか、何をどう生き延びさせたか?」。これは9月30日付、まさに新作の産みの苦しみにある稽古場の声だ。

 産み落とされた昨日は、主人公の「囚人」と島の娘「アズル」の対立が鮮明だった。島の住民たちはそれぞれ声に固有の色を持っている。ある人は黒、ある人は紫、ある人は茶という具合に。なので、どこでなにをいっても、たちどころにだれがいったのかわかってしまう。そのため皆、言動を慎み、調和を心がけている。「囚人」はそこに偽善を見出し、真実を暴くビラを発行する。「アズル」は発行をやめるよう迫る。

 本作は「滅び」の美学の一環だ。滅ぶのは「アズル」、滅ぼすのは「囚人」なので、感情移入は「アズル」に向かう。このへんはイプセンの「野鴨」に似ている(囚人=青年グレーゲルス、アズル=少女ヘドヴィク)。けれども、イプセンの場合はヘドヴィクが滅ぶが、本作の場合は幕切れに一捻りある。それは観てのお楽しみだ。

 一方、「美学」のほうはどうかというと、本作の前後に控える三島由紀夫の「朱雀家の滅亡」、泉鏡花の「天守物語」にくらべると心もとない。「おいおい、三島や鏡花とくらべるなよ」という声が聞こえてくるかもしれないが。

 不満が残ったのは、たとえば「アズル」と(カンチェラという架空のスポーツの)好敵手「ライ」の関係や、前科のある女「ナラ」のその前科など、本作にはいろいろ謎の部分があるが、それらが掘り下げられることなく、表面的に終わっていることだ。現実はそうだ、という主張かもしれないが、一言でいって、線の細さを感じた。

 「囚人」は藤井隆、「アズル」は加藤貴子、その他、個別の名は控えるが、役者さんは皆個性的だった。
(2011.10.18.新国立劇場小劇場)
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モダン・アート、アメリカン展

2011年10月17日 | 美術
 国立新美術館で開催中の「モダン・アート、アメリカン」展は、アメリカの19世紀中頃から第2次世界大戦後まで(アメリカがヨーロッパにたいして後進国であった時代から世界の最前線に躍り出た時代まで)の美術を俯瞰する内容だ。作品はすべてワシントンのフィリップス・コレクションの収蔵品。

 期待したのは1950年代の抽象表現主義(ニューヨーク・スクール)の作品群。ところがこれは空振りというか、期待したほどの熱さを感じなかった。ジャクソン・ポロックとかマーク・ロスコといったスター画家たちの作品が、それぞれの本領を発揮する大作ではなかったことがその一因かもしれない。

 といっても、サム・フランシスやヘレン・フランケンサーラー、ロバート・マザウェルなどの力作が来ているので、あながち展示作品のせいだけでもない。多分感性が鈍っているのだろうが、それを棚に上げていうなら、今これらの作品は歴史的な評価に晒される時期にきたと感じた。ちょうど音楽では同時期のダルムシュタットの作曲家たちにいえるように。

 結局、自分でも意外だったが、一番面白かったのはジョージア・オキーフだった。美術史のコンテクストから抜け出した個性の強さを感じた。チラシ(↑)にも使われている「白地に暗赤色の大きな葉」(1925年)は、オキーフ特有の官能性を感じさせる作品だ。この種の作品にエロティックなものを感じるのは、わたしの品性のさもしさであって、官能性=生命の力と感じるべきだと反省した。

 新しい発見もあった。アーサー・G・ダヴArthur Garfield Doveというオキーフと同時代の画家(オキーフは1887年~1986年。ダヴは1880年~1946年)。この画家の作品は6点来ていた。まず「赤い太陽」(1935年)で夕日の赤色に一種の強さを感じ、最後の「ポッツオーリの赤」では、巨大な岩石が浮遊しているような奇妙な形態と、えんじ色とクリーム色のコントラストに目を見張った。

 国吉康雄(1889年~1953年)の作品が来ていたことも嬉しかった。アメリカの画家として評価されているわけだ。作品は「メイン州の家族」(1922~23年頃)。後年、日米開戦によって引き裂かれたアンデンティティーに苦しむ時期の作品ではなく、幸福感を漂わせた幻想的な作品だ。

 金曜日の夜間開館。すいている館内をのんびりと、行ったり来たりしながら、気ままに観て回ることができた。
(2011.10.14.国立新美術館)
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飯守泰次郎&東京シティ・フィル

2011年10月14日 | 音楽
 これは偶然だろうが、今月は在京オーケストラのうち3団体がブラームスの「ドイツ・レクイエム」を取り上げる。ときどきこういうことが起きる。最近ではブルックナーの交響曲第8番が、海外のオーケストラの来日公演を含めて、短期間のうちに集中したことがあった。そのときは国内のオーケストラを一つだけ聴いたが、今回は3団体とも聴く予定。

 昨日はその第1弾で、飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルの定期だった。飯守さんは来年3月をもって常任指揮者を退く予定(その後は桂冠名誉指揮者)。常任指揮者としての最後のシーズンとなる今は、オーラのような輝きが感じられる。昔、晩年の山田一雄に感じたオーラと似たオーラだ。二人のタイプはまったくちがうが、余分なものを削ぎ落として、自らの資質のみを研ぎ澄ました点が共通している。

 昨日は1曲目にブラームスの「悲劇的序曲」が演奏された。飯守さんの意欲がほとばしるアグレッシヴな演奏だった。

 休憩後が「ドイツ・レクイエム」。第1曲の「悲しんでいる人たちは、さいわいである」が始まると、前曲とはうって変わってしっとりした音になった。合唱の東京シティ・フィル・コーアも美しい。第2曲の「人はみな草のごとく」に移ると、緊張をはらんだ抑制された音で始まり、あっという間にクレッシェンドするその音は、今まで聴いたどの演奏よりも強烈だった。魂をぶつけるような演奏だ。第3曲の「主よ、わが終わりと、わが日の数のどれほどであるかを私に知らせ」では、バリトンの福島明也さんが、飯守さんの魂が乗り移ったような、あるいは飯守さんの音楽観と軌を一にするような、ドラマティックな独唱を聴かせてくれた。

 こうして最後の第7曲「今から後、主にあって死ぬ人はさいわいである」まで、息をつめて聴き入った。全曲を通してこれほど集中し続けたことは初めてだ。

 いつものことながら、舩木篤也さんのプログラム・ノートにも感心した。全体の構造がつかみにくいこの曲を、第4曲を中間点としたシンメトリックな構造として捉えていた。第4曲をはさんで、第3曲(バスまたはバリトン独唱)→第5曲(ソプラノ独唱。昨日は安井陽子さん)、第2曲→第6曲(ともに激烈な曲想)、第1曲(悲しんでいる人のさいわい)→第7曲(死者のさいわい)というアーチ型の対応関係。なるほど、よくわかると、胸にストンと落ちた。
(2011.10.13.東京オペラ・シティ)
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サロメ

2011年10月13日 | 音楽
 新国立劇場の「サロメ」。同劇場での初演は2000年(これは既存のプロダクションのレンタルだろうか。オリジナルだとしたら、当プロダクションの演出家エファーディングが亡くなる時期だ。)。今回は4回目の上演になる。わたしは今回が初めて。

 歌手は、そこそこ、といったところ。サロメのエリカ・ズンネガルトは、視覚的には同役にふさわしい。15~16歳という設定には苦しいにしても若そうに見える。声質は細くて軽い。サロメのパートは跳躍が多く、リズムが尖っているので、それにふさわしいともいえる。残念なのは、ドラマの進行にともなう変貌が(本作では唯一変貌するキャラクターだ。)、十分に感じられなかったことだ。

 ヘロデのスコット・マックアリスターは、あまり焦燥感やギラギラした欲望が表に出ない常識人のようなヘロデだった。当初予定されていたクリスティアン・フランツだったら、もう少しちがっただろう。

 ヘロディアスのハンナ・シュヴァルツは安心して聴けた。もっとも、聡明そうな、理性を失わないヘロディアスは珍しかった。ヨハナーンのジョン・ヴェーグナーは、前回の「カルメン」のエスカミーリョよりは適役だったが、ときどき不安定になった。

 こういう人たちよりも、5人のユダヤ人の大野光彦、羽山晃生、加茂下稔、高橋淳、大澤建のアンサンブルのほうが頼もしかった。こういうベテランたちが安定して脇を固める劇場になったことは嬉しいことだ。

 指揮は代演のラルフ・ヴァイケルト。前半ではオーケストラが咆哮するときにガサガサしたが、後半とくにサロメの長大なモノローグでは、起伏の豊かな、ねっとりした流れが出ていた。

 演出は前述のアウグスト・エファーディング。現代の演出家にくらべると何世代か前の演出家だが、この人の演出は、作品をそのままの姿で提示し、かつ必要なことはすべて盛り込まれているという性質のものだ。本作でも、とくにどこかに力点を置くのではなく、全体像をバランスよく再現していた。美術・衣装はヨルク・ツィンマーマン。ヘロデの宮殿に見立てた巨大なテントが設営され、その内部の淫靡な日常に想像を誘うものだった。

 全体としては典型的なレパートリー公演だった。これは指揮者の力量とは別次元の話だが、当初予定どおり芸術監督自らが振っていれば、またちがうミッションに支えられた公演になったかもしれない。
(2011.10.12.新国立劇場)
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ひとにぎりの塩

2011年10月11日 | 身辺雑記
 能登半島の先端に位置する珠洲(すず)市。この三連休には、珠洲市の自然、人情、食べ物にどっぷり浸ってきました。羽田空港から能登空港へわずか一時間。そこはまさに別世界でした。

 まず自然では、岩倉山(357メートル)に登ってきました。千枚田で有名な曽々木海岸近くの里山です。山頂からの下山路では廃道に迷い込んでしまって難渋しました。草が生い茂り、枯れ枝に埋もれた道。蛇を踏んでしまうのではないかと冷や冷やでした。

 宿の目の前は日本海。雲が浮かんでいたので夕日は無理かなと思っていたら、雲の隙間から夕日が照らしてきました。海をオレンジ色に染める見事な夕日でした。

 海岸沿いを走ってもらったタクシーの運転手さんは、昔ながらの揚げ浜塩田で塩づくりをしている角花家とは顔見知りのようでした。「ちょっと見て行くかい?」といって、浜辺の塩焼き小屋につかつかと入り、年季の入った釜を見せてくれました。釜の脇には塩が溜まっていました。そこに手を突っ込んで、ひとにぎりの塩を分けてくれました。旨みのある美味しい塩でした。

 揚げ浜塩田は400年の歴史があります。昔、日本海に面したこの一帯はずっと塩田が続いていたそうです。けれども戦後、専売制が導入され、どの家もわずかのお金と引き換えに廃業を余儀なくされました。そのなかで角花家だけは続けました。今では国指定無形文化財に指定されています。

 時代は変わりました。今、揚げ浜塩田が復活しつつあります。手間暇がかかり、重労働で、しかも量産できない製法ですが、その味は食卓塩とは別物です。それがスローフード志向の今の時代に合っているのかもしれません。

 ドキュメンタリー映画もできました。石井かほり監督の「ひとにぎりの塩」です。実はある雑誌でこの映画の紹介記事を見かけたことが、揚げ浜塩田を知ったきっかけです。能登半島に行こうと思ったのもそのときです。旅行の計画中に、映画が完成して、地元で完成披露上映会が開かれることになりました。なんという偶然でしょう。そこで上映会を中心に日程を組みました。

 上映会には石井監督もみえていました。手塩にかけた(!)映画が完成した感激からでしょう、涙で言葉につまっていました。会場に詰めかけた地元の方々は、身近な風物や人々が映っているので、上映のあいだ中、笑いが絶えませんでした。
(2011.10.8.ラポルトすず)
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イル・トロヴァトーレ

2011年10月06日 | 音楽
 新国立劇場の「イル・トロヴァトーレ」新制作。全体のレベルはヨーロッパの一流劇場並みだ。この先さらに抜きんでたものを目指すにしても、それは世界のトップクラスの話だ。ともかくこのレベルの公演が日常的に観られるようになったことは嬉しい。

 マンリーコのヴァルテル・フラッカーロは強い声を聴かせてくれた。レオノーラのタマール・イヴェーリはヴェルディのレガートを楽しませてくれた。ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリはヴェルディ・バリトンとして十分な出来。アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒは暗めの声質がこの役にふさわしかった。

 フェルランドの妻屋秀和はもうこの劇場の常連だ。ベテランで実力のある歌手が脇を固める――そういう歌手を何人か抱える劇場になったことは、開場以来の積み重ねの成果だ。

 指揮はピエトロ・リッツォ。各曲の、あるいは曲の各部分のテンポに明確なイメージをもっていた。少しおとなしく感じることもあったが、テンポはけっして譲らない面があり、おとなしいだけの指揮者ではない。カーテンコールではブーイングをしている人が少しいたが、その意味はわからなかった。音楽的な能力が劣るとか、ブーイングを想定した挑発的な演出とか、なにかそういうことならわかるが、最近はよくわからないブーイングもある。

 演出はウルリッヒ・ペータース。無理のあるこのオペラの筋書きを気にしないで観ることができた――これは希有な経験だ。思うにこれは、第一に個々の場面が明確な意図をもって作り込まれていたこと、第二に「死」の擬人化(黙役)を登場させることにより、全体を支配する見えない力を設定したことによる。

 ウルリッヒ・ペータースはミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場のインテンダント(総裁)を務めている人だ。バイエルン国立歌劇場が世界に向けて開かれた窓だとすれば、ゲルトナープラッツ劇場は地元の人々のための劇場だ。わたしが行ったときにはクルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」をやっていた。きびきびしたすばらしい上演だった。公演予定にはフィリップ・グラスの「アッシャー家の崩壊」が入っていたのを覚えている。ぜひこの劇場で観たいものだと思った。

 美術・衣装はクリスティアン・フローレン、照明はゲルト・マイヤー。ともに美しかった。わたしは初めてこのオペラが全編「夜」であることに気が付いた。
(2011.10.5.新国立劇場)
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クライストチャーチ交響楽団

2011年10月04日 | 音楽
 恒例のアジア・オーケストラ・ウィーク2011は、韓国の大邱(テグ)市立交響楽団のほか、クライストチャーチ交響楽団と仙台フィルハーモニー管弦楽団が招かれた。本年2月22日に大地震が起きたクライストチャーチと3月11日の仙台。双方のオーケストラがわずか6カ月後に顔をそろえるとは、驚くべきことではないだろうか。明日は仙台で合同演奏会を開くというから、短期間のうちによくここまで準備したものだ。

 ニュージーランドのオーケストラでは、北島の首都ウェリントンのニュージーランド交響楽団(日本フィルの首席客演指揮者インキネンが音楽監督をしている)が思い浮かぶが、クライストチャーチ交響楽団は馴染みがない。クライストチャーチを本拠に南島で活動しているそうだ。ともに大地震に襲われた者同士という意識があるのだろう、その演奏はひたむきで、初々しいほどだ。

 指揮は音楽監督兼首席指揮者のトム・ウッズTom Woods。ひじょうに意欲的なプログラムを組んでいた。

 1曲目は現代ニュージーランドの作曲家クリス・クリー・ブラウンChris Cree Brownの「アイススケープ(氷雪の風景)」。南極での体験を音にしたそうだ。氷山から絶えず氷の砕片が転げ落ちてくるような弦の動きが特徴的だ。氷山はゆったり洋上を漂い、こちらを威圧するように迫ってくる。

 2曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。独奏はジョン・チェンJohn Chen。1986年マレーシアのクアラルンプール生まれ。2004年にはシドニー国際ピアノ・コンクールに史上最年少で優勝したそうだ。まだ25歳の若者だ。若者らしく肩に力の入った演奏。若者はこのくらいでよい。アンコールにシューマンの「森の情景」から「森の入口」。

 3曲目はラウタヴァーラの交響曲第7番「光の天使」。実はこの曲が聴きたくて出かけた。CDは持っているが、生で聴くのは初めてだ。生で聴くと、ラウタヴァーラのルーツにはシベリウスがあることがよくわかった。シベリウスの土壌に、息の長い、抒情的な旋律を育み、厳しさよりも優しさを志向し、音色的な流動性を添えたものがラウタヴァーラの音楽だ。

 アンコールが2曲。ピアソラの「オブリビオン」とモートン・ローリゼン(1943年生まれのアメリカの作曲家。Morten Lauridsen)の「オー・マグヌム・ミステリウム」。後者のシンプルな音楽が胸に染みた。
(2011.10.3.東京オペラシティ)
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