Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高関健/東京シティ・フィル

2023年01月29日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。直球勝負のドイツ音楽プログラムだ。1曲目はベートーヴェンの「献堂式」序曲。実演で聴くのは珍しい曲だ。珍しい体験を楽しんだが、個人的な想い出がよみがえり、しばし回想にふけった。この曲はウィーンのヨーゼフシュタット劇場の改築オープンのために作曲された曲だが、そのヨーゼフシュタット劇場に行ったときの想い出だ。古のウィーンの社交場という雰囲気が残っている劇場だった。わたしはそこでクルト・ヴァイルの「三文オペラ」を観た。書画骨董で「時代が付く」という言い方があるが、それと似た味わいがあった。

 2曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏は小林愛実。冒頭のオーケストラの演奏が「献堂式」序曲よりもまとまっていた。続く小林愛実のピアノはクリアーな音像で、悲しみに耐えるような表現。くすんだ音色がその表現にふさわしい。求心的な演奏だ。その一音一音に惹きつけられた。パートナーの反田恭平が華やかなテクニックで遠心的な演奏をする傾向があるのとは対照的だ。

 3曲目はリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。分厚い音で堂々と鳴る演奏だ。高関健時代の輝かしい足跡を印すような演奏だ。いまわたしたちは東京シティ・フィルの充実の秋(とき)をともにしている。オーケストラというものは生き物で、良い時もあれば悪い時もあり、その大きなカーブの上にたゆたっている。東京シティ・フィルはいま稀に見る上昇カーブにある。

 個別のパートでは、9本のホルン(スコアの8本+1本)が朗々と鳴っていたのが印象的だ。高関健の中に残るカラヤンの余韻だろうか。また第4部「英雄の戦場」での目の覚めるような高揚した演奏(とくにバスドラムの炸裂)も印象的だ。なお戦闘開始を告げるトランペットは、舞台裏からではなく、舞台上でミュートをつけて演奏された。舞台がいっぱいなので、出入りの通路の確保が難しかったか。

 英雄の伴侶を表すヴァイオリン独奏はコンサートマスターの戸澤哲夫。その演奏は第3部「英雄の伴侶」よりも第6部「英雄の引退と完成」のほうが味わい深かった。長年連れ添った夫婦の、老いた夫人の味わいがあった。そもそもこの曲では英雄の伴侶が(第3部「英雄の伴侶」と第4部「英雄の戦場」だけではなく)第6部「英雄の引退と完成」にもう一度出てくることが感動的だ。シュトラウスは作曲当時まだ34歳だが、人生への洞察力がすごい。

 シュトラウスは実人生ではナチスとの葛藤で(戦後は連合軍との関係で)「英雄の引退と完成」というわけにはいかなかった。34歳当時に描いた人生とはなんと違ったことか。
(2023.1.28.東京オペラシティ)
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「亜欧堂田善」展

2023年01月26日 | 美術
 千葉市美術館で「亜欧堂田善」展が開かれている。わたしの家から千葉市美術館までは2時間近くかかるが、行ってみた。

 亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん)といわれても、一体全体なんのことやら、わからない人も多いのではないだろうか。もちろんわたしもわからなかった。そこで少し調べてみると、これは江戸時代の洋風画家・銅版画家の名前であることがわかった。あの鎖国の江戸時代にも洋風画があり、銅版画があったわけだ。

 鎖国だったので、西洋人から洋画を学んだり、銅版画を学んだりすることはできないが、長崎の出島などから外国の書籍が入ってくるので、それを読み(外国語を解する人に訳してもらうわけだ)、そこに掲載されている図版を手本にして、やってみる。そのパイオニア精神といったらいいか、努力と工夫がすごいと思う。

 当時、そのようにして洋風画・銅版画の制作を試みた人は、何人かいたようだ。その一人が亜欧堂田善だ。田善は1748年に現在の福島県須賀川市で生まれ、1822年に没した(昨年は没後200年だった)。生家は農具商を営んでいたが、兄が紺屋を興し、田善も手伝った。その後、兄が没したので、田善が紺屋を継いだ。ところが1794年に(田善が47歳のときに)、田善の絵が白川藩主・松平定信の目に留まり、絵を学ぶよう命じられた。田善が本格的に絵を学んだのはそれからだ。

 本展のチラシ↑に掲載されている2枚の銅版画は、いずれも「東都名所図」に収められている作品だ。上は「二州橋夏夜図」。夏の夜の隅田川の花火を描いているが、それにしてもものすごい花火だ。花火というより、火薬の爆発のように見える。隅田川の花火を描いた当時の作例(浮世絵)は多数あるが、こんな描写は見たことがない。田善の目にはこう見えたのか。それとも意識的なカリカチュアか。

 下の作品は「品川月夜図」だ。品川の遊郭で夜の海を見つめる遊女を描いている。海に映る月の光が美しい。それにしても、上半身をそらせた遊女の姿は、日本人離れして、西洋の女性のように見えないだろうか。

 上記の銅版画はいずれも小ぶりな作品だ(文庫本を横にしたくらいだ)。一方、大型のものもある。それらはさすがに見応えがある。「西洋公園図」(29.5㎝×56.0㎝)や「イスパニア女帝コロンブス引見図」(45.3㎝×45.3㎝)などだ。それらの作品が外国に行ったこともなければ外国人を見たこともない(と思われる)江戸時代の日本人の手によって制作されたことは、なんだか想像を絶する。
(2023.1.14.千葉市美術館)
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カーチュン・ウォン/日本フィル

2023年01月21日 | 音楽
 カーチュン・ウォン指揮日本フィルの東京定期はすばらしかった。カーチュンは今年9月に日本フィルの首席指揮者に就任するので、今後が楽しみだ。

 1曲目は伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」。第1楽章冒頭の弦楽器の暗い響きから、カーチュンの響きへのこだわりが伝わる。その後、一斉に照明が灯されたような明るい響きに変わり、目くるめくような音の動きが始まる。その移行での音色の対比、リズムの対比が鮮やかだ。終結部ではホルンのソロが朗々と鳴り、それに続くチェロのソロも味わい深かった。要するにカーチュンに率いられた日本フィルは絶好調だった。

 第2楽章、第3楽章もその水準をキープし、刮目すべき演奏となった。第3楽章後半でのヴァイオリン・ソロも(短いソロではあるが)この演奏の推進力を象徴するような切れ味の良さがあった。

 全体的には音がみずみずしく、生気がみなぎっていた。それはカーチュンの音楽性にほかならないが、それをもう少し具体的にいえば、カーチュンが音を置きにいかないこと、音楽と一体となり、前へ前へと進む音楽の力に乗ることができること、リズムに弾みがあること(音を押しつけないこと)、音の分離がよいこと(音が団子状態にならないこと)などがあげられるだろう。

 日本フィルの今までの歩みを振り返ると、ラザレフのもとでアンサンブルを鍛え直し、モラルを取り戻して、低迷期を脱し、続くインキネンのもとで音色の抽斗をふやした。そして今度のカーチュンのもとでは、細心の音作りにより、けっして大味にはならない高密度な演奏を展開する可能性がある。そうなったら、カーチュン/日本フィルは数ある在京オーケストラの中でも個性の際立つオーケストラになるだろう。

 話が先に行き過ぎたので、元に戻すと、2曲目はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」だった。もう何度聴いたかわからない曲だが、その曲が新鮮に聴こえた。それはとりもなおさずカーチュンの変化に富んだ音作りのためだ。どこをとっても、どう鳴らしたいか、手に取るようにわかる演奏だった。カーチュンは暗譜で振っていた。得意のレパートリーかもしれない。個別の楽章では、第2楽章の速めのテンポが印象的だった。

 カーチュンと日本フィルは、すでにスタートしているマーラーの交響曲への取り組みとともに、今後はFolkSong(=民謡)もテーマに据えるそうだ。今回のプログラムはその走りだ。また(わたしは聴かなかったが)先日のベートーヴェンの「英雄」が好評のようだ。以前わたしの聴いた「田園」も良かった。他にも未知の可能性を秘めているだろう。
(2023.1.20.サントリーホール)
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山田和樹/読響

2023年01月20日 | 音楽
 山田和樹指揮読響の定期演奏会へ。1曲目は矢代秋雄の交響曲。オーケストラ・ファンには(わたしもその一員だ)、矢代秋雄の交響曲、ピアノ協奏曲そしてチェロ協奏曲は大切な曲目だ。今回も心して出かけたが、十分には満足できなかった。なぜだろう。それは異様に緊張した演奏だったからかもしれない。音楽というものは、演奏のどこかに余裕がないと、聴き手は中に入りこめないものらしい。

 快い緊張であればよいのだが、今回は表情がこわばった感覚があった。そのためなのかどうなのか、色彩に乏しい印象があった。

 久しぶりに聴くこの曲は、第1楽章は「春の祭典」の「生贄の踊り」を、第3楽章はメシアンのなにかの曲を想起させる。日本の先人たちの作品の中にはそのような例も散見されるが(つまり西洋音楽の既存の曲をモデルにしたと思われる例だ)、矢代秋雄にしてもそうなのかと思った。もちろんいまの作曲家はもうそこから脱却しているが。

 2曲目はシュトラウスの「アルプス交響曲」。なるほど、矢代秋雄の交響曲で聴き手を緊張の極みにさそい、「アルプス交響曲」で一気に解放する作戦かと思った。たぶんそうだったのだろうが、それにしてはアンサンブルが緩かった。聴き手だけではなく、オーケストラも解放してしまったのではないかと思った。手綱を緩めずに、締めるべきところは締め、それでいて解放感のあるサウンドを作るのは、意外に難しいのかもしれない。

 驚いたことには、バンダが2階客席の後方のロビーから聴こえた。その位置から聴こえるバンダは初めてだ。たぶん小ホールの演奏会がなかったからできたことだろう。派手な演出だが、効果的だった。

 それにしてもこの曲は、前半(登り始めてから頂上に着くまで)はいろいろな出来事があるが、後半(下山を始めてから日が暮れるまで)は、出来事といえば嵐に遭うくらいで、嵐が去った後は荘厳な夕映えがずっと続く。その作りは「英雄の生涯」に似ている。シュトラウスの手の内に入った作劇術だろう。

 周知のように、山田和樹は1月の読響で3種類のプログラムを振った。一つ目はチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」をメインに据えたもの。二つ目はマーラーの交響曲第6番をメインに据えたもの。そして三つめが今回の「アルプス交響曲」だ。どれも重量級のプログラムだ。一つ目と二つ目はおおむね好評をもって迎えられたようだ。はたして今回の「アルプス交響曲」はどうなのか。わたしは正直言って、もっとギリギリまでサウンドを磨き上げてほしかったが。
(2023.1.19.サントリーホール)
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ソヒエフ/N響

2023年01月16日 | 音楽
 トゥガン・ソヒエフ指揮N響のAプロ。1曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はハオチェン・チャン。1990年上海生まれ。フィラデルフィアのカーチス音楽院で学び、2009年にヴァン・クライバーン国際コンクールで第1位になった。

 曲が曲なので(つまり大曲中の大曲なので)、最初は力んだ表現も見られ、また音が濁ることもあった。そんな中で、このピアニストはどんなピアニストなのかと、探る思いで聴いた。わかってきたのは、高音がはっきり鳴らされる点だ。錯綜する音の中で、高音にアクセントが置かれる。そのため照度の高い音になる。それとともに、音の運動性が高いことも感じた。どこに向かって動いているのか、わかりやすい。それらの資質が曲とマッチしたのは第4楽章だ。明るい音色でリズミカルに動く音楽が、ハオチェン・チャンの資質とマッチして、水を得た魚のような演奏が展開された。

 一方、オーケストラはニュアンス豊かで、かつシンフォニックな演奏を聴かせた。その演奏は、ハオチェン・チャンのような若くて技巧に優れたピアニストもいいが、渋い音色で音楽をじっくりかみしめるタイプのピアニストもいいような気がした。

 ハオチェン・チャンのアンコールがあった。ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」だ。高い音から下に降りていくテーマの、その音の軌跡が目に見えるようだった。先ほど述べたことを繰り返すようだが、音の運動の方向がはっきりしているからだろう。

 2曲目はベートーヴェンの交響曲第4番。ずっしりと厚みのある音と、徹底的にコントロールされた弱音と、その両方ががっしり組み合わされた演奏だ。堂々として彫りの深い演奏といってもいい。加えて印象的なのは、指揮者とオーケストラの一体感だ。ソヒエフとN響がお互いを信頼し合って演奏していることが感じられる。ソヒエフは躍動感のある音楽性の持ち主だが、それが尖った表現に向かうのではなく、どこか保守性を感じさせることが、N響を安心させるのかもしれない。

 周知のようにソヒエフは昨年、ロシアのボリショイ歌劇場の音楽監督のポストと、フランスのトゥールーズ・キャピトル管弦楽団の音楽監督のポストを同時に退いた。キャリアの中で脂の乗り切った時期での、その予想外の出来事に、どんな思いを噛みしめたことか。

 なお当日はN響の第1コンサートマスターの篠崎史紀の、同ポストでの最後の公演だった(今後特別コンサートマスターに就任予定)。篠崎史紀はN響の顔としてひと時代を築いた。後事を託す郷古廉から花束を贈られ、ソヒエフから拍手を送られる中で、篠崎史紀はホッとしただろうか。オーケストラとは人間臭いドラマの場だ。
(2023.1.15.NHKホール)
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森鴎外「護持院原の敵討」

2023年01月12日 | 読書
 森鴎外の歴史小説の中からもう一作、「護持院原の敵討」(ごじいんがはらのかたきうち)を取り上げたい(岩波文庫では「大塩平八郎」↑の中に入っている)。これも名作なので、あらすじの紹介は不要かもしれないが、未読の方のためにざっと紹介すると、江戸城の大手門(いまでも竹橋付近にある)の向かいの大名屋敷に泥棒が入り、宿直していた山本三右衛門という武士が殺される。犯人は亀蔵という使用人であることがわかる。遺族は敵討ちを願い出て、許しを得る。亀蔵の行方を追う旅に出て、艱難辛苦の末、敵討ちを果たす。

 今なら防犯カメラで亀蔵の足取りがつかめそうだが、江戸時代のことなので、足取りはおろか、写真もないので、亀蔵の顔さえわからない。そこで長男の宇平(19歳)と故人の弟・山本九郎右衛門(45歳)は、亀蔵の顔を知る文吉(42歳)という男を連れて旅に出る。長女のりよ(22歳)も同行を望んだが、どこに行ったらいいのか、あてもなく、また何年かかるかもわからない旅なので、女には無理と退けられた。

 宇平、九郎右衛門、文吉、りよ、それぞれの人物像が鮮明だ。最後には、九郎右衛門、文吉、りよの三人は立派に敵討ちを果たす。一方、宇平は旅の途中で脱落する。そんなダメ男の宇平が興味深い。

 旅の途中で、亀蔵の足取りがつかめずに途方に暮れ、まれに亀蔵らしき人物の情報を得ても、ことごとく空振りに終わるうちに、宇平、九郎衛門、文吉は疲れきる。病気にもなる。資金も尽きる。そのとき宇平は九郎右衛門にいう。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前かも知れません。」(岩波文庫より引用。以下同じ)。九郎右衛門はいう。「神仏の加護があれば敵にはいつか逢われる。」。宇平はいう。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか。」。九郎右衛門は宇平の言葉に「一種の気味悪さを感じた。」と。

 たしかに宇平の言葉にはニヒリズムが漂う。だが、当時はともかく、現代の感覚では、わからないでもない。むしろよくわかる。宇平は旅から脱落するが、その後どうなったか。鴎外はなにも書いていない。身を持ち崩して裏社会に入ったか、それとも乞食坊主にでもなったか……と思う。ところが、史実では、敵討が終わった後に現れて、隠居処分を受けたと注釈にある。なんだかつまらない注釈だ。

 鴎外は最後にこの敵討を賛美する歌を紹介する。そしてこう結ぶ。「幸に大田七左衛門(引用者注:狂歌作者)が死んでから十二年程立っているので、もうパロディを作って屋代(引用者注:歌の作者)を揶揄うものもなかった。」と。敵討礼讃に水を差すような一文だ。鴎外はなぜこの一文を書いたのか。
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森鴎外「阿部一族」(2)

2023年01月09日 | 読書
(承前)
 「阿部一族」には前回取り上げた林外記(はやし・げき)以外にも興味深い人物が多い。中でも特異な存在感を放つのが柄本又七郎(つかもと・またしちろう)だ。又七郎は阿部邸の隣家に住む武士。阿部家と柄本家は日頃から親しく交わる仲だった。とくに又七郎は阿部家の二男・弥五兵衛と親しかった。二人は槍の腕前を競い合った。

 阿部一族が屋敷に立てこもり、明朝には討手(討伐隊)が攻め込むという前夜、又七郎は女房をひそかに阿部家に行かせ、慰問する。「阿部一族の喜は非常であった。」(岩波文庫より引用)とある。だが、又七郎はこうも考える。少々長いが、引用すると、「阿部一家は自分とは親しい間柄である。それで後日の咎もあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまで遣った。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せられるお上の軍も同じ事である。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなといってあるが、武士たるものがこの場合に懐手をして見ていられたものでは無い。情は情、義は義である。」(同)と。

 一夜明けて討手が阿部家に攻め込むと、又七郎は庭越しに阿部家に侵入し、弥五兵衛と槍を交えて、「弥五兵衛の胸板をしたたかに衝き抜いた。」(同)。

 又七郎のこの行為をどう考えるか。わたしには、せっかく前夜に見せた勇気ある心配りを台無しにする行為だと思えるが……。また上記の理屈は(少なくとも現代の目で見れば)硬直的なように思えるが。

 又七郎については後日談がある。阿部一族の討伐が終わったとき、又七郎に「第一の功」(同)が与えられる。又七郎は親戚朋友に笑って、こういう。「元亀天正の頃は、城攻野合せが朝夕の飯同様であった。阿部一族討取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」(同)と。これを豪傑というのだろうか。わたしには愚鈍な人物に思える。

 又七郎が特異な存在感を放つのは理由がありそうだ。「阿部一族」は「阿部茶事談」(明和2年(1765年)、谷不泄編)という資料に依拠している。当資料は栖本又七郎(「阿部一族」では柄本又七郎)の証言に基づく。それゆえ又七郎の存在感が肥大化しているのではなかろうか。

 最後に、森鴎外はそもそも殉死をどう考えていたか、という問題に触れたい。「阿部一族」の成立経緯からいって(「阿部一族」は明治天皇の死去にともなう乃木希典の殉死を契機に書かれた)、殉死を否定してはいない。だが、それにしては、殉死をめぐる武家社会の意地の張り合いを事細かに書いている。陸軍の高級官僚だった森鴎外は、あえて尻尾をつかませない書き方をしているような気もする。
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森鴎外「阿部一族」(1)

2023年01月06日 | 読書
 2022年は森鴎外(1862‐1922)の没後100年だった。そこで鴎外の歴史小説をまとめて読んでみた。まず感嘆したのは簡潔明瞭な文体だ。一文たりとも足したり引いたりできない完璧さだ。その点では、「山椒大夫」と「最後の一句」が双璧だと思う。だが、文体だけではなく、現代の視点で見ても、鴎外の歴史小説には興味深い人物が描かれている。それらの人物を何人か拾ってみよう。

 まず「阿部一族」から。名作中の名作なので、ストーリーを紹介するまでもないだろうが、ざっと紹介すると、寛永18年(1641年)に熊本藩主・細川忠利が病死する。家臣18人が殉死する。ところが阿部弥一右衛門には殉死の許しが出なかった(殉死は許しを得てするものらしい。許しを得ない場合は、犬死とされる)。殉死をせずに生き残ることは、武士には耐えられない屈辱のようだ(そのへんの事情は現代社会からは想像が難しい)。弥一右衛門は許しを得ずに切腹する。だが、武士仲間からの蔑視はやまない。故忠利の一周忌の法要が営まれたとき、弥一右衛門の長男は、ある行動に出る。藩主(故忠利の子・光尚)はその行動を反抗ととらえて、阿部一族を滅ぼす。

 興味深いのは、弥一右衛門に殉死の許しが出なかった事情だ。弥一右衛門は病床の忠利に殉死の許しを願い出る。だが、「一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖が附いている。これは余程古くからの事で、まだ猪之助といって小姓を勤めていた頃も、猪之助が「御膳を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」という。外の小姓が申し上げると、「好い、出させい」という。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。」(岩波文庫より引用)。

 現代社会でも(民間会社であろうと官庁であろうと)、長年組織に勤めた人なら、同じような経験をした人も多いのではなかろうか。相手は決定的に強い立場にある(生殺与奪権を握られている場合も多い)。こちらが状況を改善しようとすればするほど、状況はこじれる。そんな厄介な状況が妙にリアルに描かれている。そこには鴎外の経験が投影されているのではないかと……。

 もう一点興味深いのは、林外記(はやし・げき)という人物だ。外記は新藩主・光尚の側近だ。外記は「小才覚があるので、(引用者注:光尚の)若殿様時代のお伽には相応していたが、物の大体を見る事に於ては及ばぬ所があって、とかく苛察に傾きたがる男であった。阿部弥一右衛門は故殿様のお許しを得ずに死んだのだから、真の殉死者と弥一右衛門との間には境界を附けなくてはならぬと考えた。」(同)。その「境界」が問題をこじらせた。現代社会でも、何事によらず、とかく「境界」(区別と言い替えてもよい)をつけたがる人物がいる。それが人間関係を窮屈にする。周りの人々は皆迷惑に思っている。だが、そんな人物にかぎって上司の覚えがめでたい。鴎外の周囲にもいたのだろうか。(続く)
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