Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

サントリーホール サマーフェスティバル:リトゥン・オン・スキン(2)

2019年08月30日 | 音楽
(承前)「リトゥン・オン・スキン」の台本について、もう一言付け加えると、その特徴的なスタイルをどう考えるか、という問題がある。たとえば少年が、普通なら「……」というところを、「……と少年はいう」というふうに、自分で「と少年はいう」を加える。他の登場人物も同様だ(たとえば女が「……と女はいう」という具合に)。極端な例では、台詞ではなく、ト書きを読んでいるような場合さえある。登場人物が動作をしながら、その動作を説明するのだ。

 今回は演奏会形式(セミ・ステージ形式)なので、このスタイルが生きたともいえるが、本質的には舞台形式で観たときに、このスタイルがどう映るかだ。少なくとも、歌手と歌詞と、それを観ている観客との間に、ある種の軋みが生じることは考えられる。それを異化効果といって済ませるのか、それとも別の微妙な事柄の成立を感得するのか。

 ジョージ・ベンジャミンが付けた音楽は、爆発的なフォルテの箇所もあるが、基本的には、薄く、透明で、微妙に変化する音色の(感覚的には、内側から微光を放つような)音楽になっている。とくに印象に残るのは、第4場で少年のカウンターテナーとアニエスのソプラノが混然一体となって溶け合う箇所、第6場でグラスハーモニカとバス・ヴィオラダガンバが幽かに奏され時間が静止したように感じられる箇所、そして第15場でグラスハーモニカが一貫して鳴らされ異空間が広がる箇所だ。

 少年役へのカウンターテナーの起用は、決定的な意味を持っていた。上記のような薄く、透明なオーケストレーションと、カウンターテナーの澄んだ声と、グラスハーモニカの幽玄な音色とが、このオペラの基本的な音響を決定づけた。

 演奏には細心の注意を要する作品だろうが、今回の大野和士を中心とする、都響、カウンターテナーの藤木大地、ソプラノのスザンヌ・エルマーク(アニエス役)、バリトンのアンドルー・シュレーダー(プロテクター役)の布陣は完璧だった。メゾ・ソプラノの小林由佳、テノールの村上公太を含めて、画期的な演奏を達成した。

 わたしは一日目と二日目と両方行ったが、一日目の緊張の極限までいった演奏と、二日目のオペラ的な余裕のある演奏と、多少の違いがあった。

 演出、映像監督、衣装を担当した針生康(はりうしずか)は、(ブリュッセル近郊で撮ったと思われる)映像と、舞台上で踊る男女のダンサーを起用し、とくに映像が驚くほど鮮明かつ(映画のように)雄弁なので、一日目は気になって仕方がなかったが、二日目は、映像が消えて、黒いスクリーンに字幕だけが映る箇所が何か所かあることに気付いた。一日目はどうしてそれを意識しなかったのだろう。(了)
(2019.8.28&29.サントリーホール)
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サントリーホール サマーフェスティバル:リトゥン・オン・スキン(1)

2019年08月29日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバルの「ザ・プロデューサー・シリーズ」がすっかり定着している。毎年、今年のプロデューサーはだれだろうと楽しみだ。今年は大野和士でメインのプログラムがジョージ・ベンジャミン(1960‐)のオペラ「リトゥン・オン・スキン」と発表されたときは、「なるほど、そういう手があったのか」と思った。大野和士といえども、このオペラは新国立劇場ではやりにくいだろうから。

 「リトゥン・オン・スキン」は2012年のエクサンプロヴァンス音楽祭で初演された。それ以降の上演記録がプログラムに載っているが、それを見ると、今回の日本初演までの7年間、間断なくヨーロッパ各地はもとより、アメリカ、カナダそして中国でも上演されている。今回、日本もやっと追いついた形だ。

 台本はイギリスの劇作家、マーティン・クリンプ(1956‐)が書いた。プログラムのプロフィールの言葉を引用すると、クリンプの作品は“実験的色彩の濃い”「アテンプツ・オン・ハー・ライフ」(1997)や“代表作のひとつ”「ザ・カントリー」(2000)が日本でも上演されている。

 「リトゥン・オン・スキン」の台本は高度にプロフェッショナルな仕事だと思う。偶然かもしれないが、全3部15場の構成は、ベルクのオペラ「ヴォツェック」と同じで(ただし「リトゥン・オン・スキン」は6+4+5で、「ヴォツェック」は5+5+5)、たしかに「ヴォツェック」を彷彿とさせる緊密さがある。

 ストーリーは、13世紀の領主プロテクターが、写本彩飾師の少年を雇い入れるが、妻アニエスが少年と密通したので、少年を殺し、その心臓を妻に食べさせるというもの。グロテスクな話だが、ヨーロッパでは広く知られた民間伝承で、ボッカチオの「デカメロン」やスタンダールの「恋愛論」などに出てくる逸話だそうだ。

 だが、クリンプス独自の味付けはあるだろう。まずプロテクターという命名が意味深だ。直訳すれば「保護者」だが(ロード・プロテクターで「護民官」)、保護という言葉の抑圧性ないしは暴力性を示唆する。妻アニエスは、領地と同様、プロテクターの所有物で、それはジェンダーの問題を喚起する。アニエスが少年と密通するのは、プロテクターの支配から逃れるためであり、その支配を破壊する。

 アニエスと少年が二人きりになる場面が3つある。第4場でアニエスは少年の工房を訪れる。第6場でアニエスと少年は結ばれる。第10場でアニエスは少年に自分たちの関係を絵に描くよう迫る。以上がストーリーの“起‐承‐転”に当たる。では“結”は? 第14場でアニエスは少年の心臓を食べる。それは変形された二人きりの場面で、ストーリーの“結”に当たる。(続く)
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サントリーホール サマーフェスティバル:大野セレクションの室内楽

2019年08月26日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバルの今年のザ・プロデューサー、大野和士がセレクトする現代作曲家の室内楽演奏会。取り上げられた作曲家は、マグヌス・リンドベルイ(1958‐)、マーク・アンソニー=ターネジ(1960‐)、ヴォルフガング・リーム(1952‐)、細川俊夫(1955‐)、サルヴァトーレ・シャリーノ(1947‐)の5人。いずれも現代を代表する作曲家たちだ。

 まずリンドベルイの「オットーニ」(2005)から。金管アンサンブルのための曲で、最初はファンファーレ風の音型が続く。単調さをおぼえ始めた頃、音の動きに変化が現れ、あっという間に密度が濃くなる。最後はずっしりした手応えが残る。その手腕に脱帽する。演奏は板倉康明指揮の金管奏者たち。個々の名前は省略するが、トランペットの1番奏者のうまさに感心した。

 次はターネジの「デュエッティ・ダモーレ」(2015)。ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲で、5曲の性格的な小品からなる。いずれも鮮明な音像を持つ。ヴァイオリンは川久保賜紀、チェロは伊藤悠貴。闊達な演奏だった。

 3曲目はリームの「ビルトニス:アナクレオン」(2004)。テノール独唱とピアノ、ハープ、クラリネット、チェロのための曲。アナクレオンというと、ヴォルフの歌曲「アナクレオンの墓」を思い出すが、それとの関係はなさそうだ(もっとも、本作の委嘱団体の一つに、国際フーゴ―・ヴォルフ・アカデミーが入っているが)。演奏は、テノール独唱の吉田浩之にもっと芝居気と切れのよさが欲しかった。

 休憩をはさんで4曲目は細川俊夫の「悲しみの河」(2016)。リコーダーと弦楽アンサンブルのための曲。リコーダーの、尺八のムラ息を思わせる奏法を含む、気迫のこもった、振幅の大きい表現と、弦楽アンサンブルの、細かなトレモロ、執拗なグリッサンド、微かなエコー、ノイズの軋み、膨張する音の層など、変化と緊張感に富む表現とが相俟って、圧倒的な演奏が展開された。

 演奏はリコーダー独奏が鈴木俊哉、弦楽アンサンブルが板倉康明指揮の東京シンフォニエッタ。共感のこもった、真剣そのものの演奏だった。

 最後はシャリーノの「ジェズアルド・センツァ・パローレ」(2013)。ルネサンスの作曲家ジェズアルドのマドリガーレ4曲を室内アンサンブル用に編曲したもの。第4曲で多少陰影が濃くなるが、全体的には甘い曲だ。もう少し別の選曲はできなかったろうか。演奏は板倉康明指揮の室内アンサンブル。
(2019.8.24.サントリーホール小ホール)
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丸谷才一「笹まくら」

2019年08月24日 | 読書
 丸谷才一の「女ざかり」と「樹影譚」を読み、作風がまったく異なることに興味をひかれて、もう一冊読んでみようと思った。何にするかと考えて、わたしの大学時代に出版され、妹は読んだが、わたしは読まなかった「たった一人の反乱」にしようかと思ったが、米原万理が「笹まくら」を激賞しているのを知って、それにした。

 「笹まくら」の作風は「女ざかり」とも「樹影譚」とも異なっていた。わたしは再度驚いた。では、3作のうち一つを選ぶとしたら、どれを選ぶかと自問して、内容的には「笹まくら」に、方法論的には「樹影譚」に惹かれる自分を見出した。

 「笹まくら」は徴兵忌避者の話。昭和15年の秋、赤紙を受け取った浜田庄吉は、入営の前日に姿をくらます。杉浦健次という偽名を使って、最初はラジオや時計の修理屋、後には砂絵屋(当時の大道芸人)をしながら逃亡生活を続ける。恐怖と孤独の日々。1960年代に流行ったテレビドラマ「逃亡者」さながらの逃亡生活が痛々しい。

 結局、浜田庄吉は逃亡しきる。戦後20年たった今は、東京の私立大学の職員をしている。学内では浜田が徴兵忌避者であったことは知れ渡っている。皮肉なことに、世の中が平和になるにつれて、浜田への反感が強まる。浜田はその圧力に耐えるが、それゆえ、浜田の中では戦争は終わらない。

 ざっというと、以上のような内容だが、そこに描かれた逃亡生活と戦後20年の「今」の生活が、息詰まるほどリアルだ。本作は丸谷才一の体験ではないが、そんな作者がどうしてこれほどリアルな描写ができるのかと、舌を巻くばかり。

 方法論的には、「今」の生活は時系列に進むが、戦争中の逃亡生活は、フラッシュバックのように断片的に回想される。前後の脈絡はほとんどない。だが、それらが積み重なるにつれて、全体像がおぼろげに見えてくる。そして「今」の浜田庄吉が、ある事件をきっかけに、ある決断をしようとする瞬間に、逃亡生活の回想が逃亡しようとする瞬間にさかのぼり、現在と過去の二つの決断が重なる。

 わたしが読んだのは新潮文庫だが、その解説に川本三郎氏が「これまでも徴兵忌避者を描いた小説は、古くは吉田絃二郎の『清作の妻』、近くは水上勉の『あかね雲』などなくはないが、『笹まくら』ほど、徹底して逃亡生活を描き切った小説はない。」と書いている。「徹底して(中略)描き切った」というくだりに同感だ。本作に描かれた戦時中の重苦しい空気感は、石川淳の「マルスの歌」を連想させる。石川淳が捉えたその空気感に、丸谷才一は人物(徴兵忌避者)を投入し、行動させた。
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丸谷才一「樹影譚」

2019年08月22日 | 読書
 丸谷才一の「女ざかり」を読んで、そのおもしろさに驚嘆したので、別の作品も読んでみようと思った。「女ざかり」は長編小説だったので、次は短編小説の「樹影譚」にした。これもおもしろかった。

 出だしから人を食っている。「わたし」が登場して、「なぜかわからないが、無機質な壁に映る樹の影が好きだ」という話を始める。その理由をあれこれ考えるが、結局わからない。そのうち「わたしは小説家なのだから、いっそのこと、これを種に短編小説を作ろう」と考える。だが、その矢先、ナボコフだったか、だれかの短編小説(それがだれのものだったか、「わたし」も覚えていない)を読んで、自分の腹案とそっくりなので、書くのをやめる。でも、諦めきれない。そのうち、うろ覚えの短編小説の筋を語りだす、「たしかこんな筋だった」と。その短編小説にもう一度当たってみようと、ナボコフの短編小説集をひっくり返すが、見つからない。ナボコフの翻訳者にも問い合わせるが、「そんな作品は知らない」といわれる。手詰まりになったので、思い切って、自分の腹案を書くことにする。「もうこの腹案から手を切りたいのだ」と。

 一体全体、以上の話は本当だろうか。たぶん虚構だろう。「わたし」は丸谷才一本人ではなく、ナボコフ云々も架空の話だろう。では、なぜこんな書き出しをしたのか。小説としては異例の書き出しだが、考えてみると、枠物語の機能を持っている。読者を滑らかに虚構の世界に引き入れる。だが、それに止まるだろうか。何かそれ以上の意味がある気もする。では、それは何だろう。

 本作は全3章からなり、以上の書き出しは第1章に当たる。そこには「うろ覚え」のナボコフかだれかの短編小説の筋と、もう一つ、エドナ・オブライエンの短編小説に触れる箇所がある(筋は省略される)。第2章以下は「わたし」の腹案の作品化だが、そこには作家「古谷逸平」のいくつかの長編小説(構想中のものを含む)や文芸評論、講演原稿などの筋が出てくる。本作はそれらの筋の集積でもある。

 わたしは古典的なSF小説「ソラリス」の作者スタニスワフ・レムを思い出した。レムには架空の本の書評集「完全な真空」や実在しない未来の本の序文集「虚数」がある(日本語訳も出ている)。本作の方法論(実在しない作品の筋の集積)は、レムに似ているのではないか。

 本作はメタフィクション(フィクションについてのフィクション)的な性格が強い。ナボコフ云々の筋(たぶんナボコフのパロディー)は、第3章の要約になっていたことが、最後にわかる。

 本作がおもしろいのは、その実験的な方法論のためだ。
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丸谷才一「女ざかり」

2019年08月19日 | 読書
 丸谷才一の「女ざかり」を読んだ。友人と続けている読書会の7月のテーマだったので。丸谷才一の小説を読むのは初めて。本作は1993年に刊行され、ベストセラーになったが、当時のわたしは仕事中心で、文学からは遠ざかっていた。

 本作は長編小説だが、明るい文体と小気味よいストーリー展開で一気に読めた。主人公は南弓子という新聞記者(本作が映画化されたとき、南弓子役は吉永小百合が務めた)。論説委員に抜擢された南弓子は社説を書く。その社説がある筋の怒りを買い、政府を通じて新聞社に圧力がかかる。南弓子は配置転換されそうになるが、それに納得できない南弓子は、見えない敵と闘う。

 ストーリーは以上のようなものだが、これだけでも、本作のエンターテインメント性がわかってもらえるのではないかと思う。シリアスな小説とは真逆の作品。それを当代きっての教養人の丸谷才一が書くのだから、本作はたんなる娯楽小説ではなく、たとえていえば、極上のウィスキーのような芳醇さを備えたものになった。

 その味わいをどう表現したらよいのだろうと、思案していると、フッと「雑味がない」という表現を思いついた。明るく、屈託がなく、快適なテンポで進み、そのテンポに乱れがないという意味で雑味がない。音楽のような心地よさがある。明瞭な方向感があるので、読んでいて迷子にならない。

 ところが、一か所だけ、雑味を残す箇所があった。それは第8章の最後の箇所。南弓子が首相公邸の坪庭で「不思議な感覚」に襲われる。それは「何か途方もなく広大なもの、よくはわからないがたぶん宇宙が」その坪庭に「圧縮」され、その「凝縮のエネルギー」に圧倒されるような感覚。その感覚はいったい何だろう。南弓子の恋人(=不倫相手)は次の第9章で「一種の宗教的体験。神秘的体験」と解釈してみせるが、作者がそう信じている節はない。

 つまり、どう解釈するかは、読者に委ねられている。音楽にたとえれば、曲の最後に打ち込まれる不協和音のようなもの。それは作者が仕掛けた謎だろう。

 もう一か所、雑味というほどではないが、全体のトーンから外れる箇所がある。思わず笑いが漏れる箇所なのだが、それは第1章の南弓子とその同僚の社会部出身の記者とのエピソード。事件に関するカンは鋭いが、文章が苦手な同記者が、苦心惨憺して社説を書き、それを南弓子に直してもらうのだが、細かい事柄にこだわって、もたもたした同記者の文章のほうが、それを直してスマートにした南弓子の文章よりも面白い。そんな二人の文章を書き分ける作者に脱帽した。
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坂本繁二郎展

2019年08月16日 | 美術
 坂本繁二郎(1882‐1969)の没後50年を記念した展覧会が開かれている。坂本繁二郎の長い画歴のポイントを押さえ、その生涯を辿る内容だ。

 今更いうまでもないが、坂本繁二郎と青木繁(1882‐1911)は同郷(福岡県久留米市)かつ同年生まれ。切っても切れない関係だ。二人は小学校の同級生で、ともに地元の画塾で絵を学んだが、その後の歩みは大きく分かれた。伝記的な事項を書いても煩瑣なだけなので、一切省略するが、二人の歩みは、ウサギとカメの譬えでいえば、ウサギの青木繁対カメの坂本繁二郎という格好だ。

 でも、二人は親友であり続けた。青木繁が「海の幸」を描いた房総半島の布良海岸の宿には坂本繁二郎も同宿した。「海の幸」の制作を見たときの坂本繁二郎の衝撃が想像できるようだ。当時の坂本繁二郎はまだ無名。坂本繁二郎が1912年の文展に出した「うすれ日」(本展にも展示されている)が夏目漱石の目に留まり、その展覧会評で取り上げられるのは、青木繁が亡くなった翌年だ。

 坂本繁二郎は1921年から1924年までフランスに渡る。その3年間で淡く明るい色彩とソフトフォーカスの作風を確立したと、わたしは今まで思っていたが、本展で1916年制作の「馬」を見たら、すでにその萌芽が窺えた。その作風は坂本繁二郎の持って生まれた資質だったようだ。

 おもしろい点は、坂本繁二郎は、帰国後、中央画壇を避けて、久留米に引っ込んでしまうことだ。画題はその頃から馬が多くなる。今日では坂本繁二郎の代表作とされる馬の絵の数々が生まれる。1940年前後からは馬に代わって、柿、リンゴ、馬鈴薯などの野菜やその他の身近なものが画題になる。戦争中はそれらの絵を描いた。同世代の藤田嗣治(1886‐1968)や川端龍子(1885‐1966)などが盛んに戦争画を描いたのと対照的だ。

 さらにおもしろい点は、戦争が終わっても、画題は変わらず、それらの野菜や身近なものを描き続けたことだ。それらの画題は、戦争という冬の時代の過ごし方でもあったろうが、それ以上に本質的な何かがあったのかもしれない。戦後には能面の絵も多くなるが、それらの能面も坂本繁二郎の手元にあったもので、身近なものの一種だ。

 最晩年には月が画題になる。チラシ(↑)に使われている「月」(1966年)は、わたしが本展でもっとも美しいと思った絵だ。坂本繁二郎と同郷で、少なくとも若い頃は付き合いのあった高島野十郎(1890‐1975)も、同時期に月の絵を描いている。関連はあるのだろうか。
(2019.8.14.練馬区立美術館)
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諸橋近代美術館「四次元を探しに―ダリから現代へ」展

2019年08月13日 | 美術
 ダリの作品のコレクションで知られる諸橋近代美術館ってどういう美術館だろうと、前から気になっていたが、やっと訪れることができた。場所は福島県の裏磐梯。多くの観光客で賑わう五色沼の入口にあった。写真(↑)で見るとおり、前面には小川が流れ、公園として美しく整備された敷地内にその建物はあった。

 同館のオープンは1999年。今年は開館20周年に当たる。それを記念して今年から来年にかけて開館20周年記念展が開かれている。わたしが訪れたときには第2弾「四次元を探しに―ダリから現代へ」展が開かれていた。

 本展はダリの作品と11人の現代アーティストの作品を並置するもの。それらの現代アーティストは、わたしには未知の人ばかりだが、11人もいれば感性に合う人もいて、偶然の出会いを楽しめた。

 わたしが惹かれたアーティストは、渡辺えつこ。本展のHPに「Blue-Red-Yellow-White House」の画像が載っているが、その作品を含めて、同様の傾向の「zoo」や「garden」に惹かれるものがあった。何にどう惹かれたかを説明するのは難しいが、あえていえば、たとえば「Blue-Red-Yellow-White House」の場合、極端に粗い画像のような画面に単純な色彩を施し、スナップ写真の加工処理のようにも見えるその画面から(実際には油彩画だが)、型板ガラスを通して見る現実の異化効果、あるいは型板ガラスで隔てられた現実と自己との距離感が感じられた。

 インターネットで調べたところ、渡辺えつこは1960年東京生まれ。武蔵野美術大学を卒業した後、ドイツの国立デュッセルドルフ・クンストアカデミーでゲルハルト・リヒターに師事。約30年間ドイツで活動した後、2013年に帰国。現在は武蔵野美術大学の非常勤講師を務めている。同大学の共通絵画研究室のHPに上記の「zoo」の画像が載っているが、これもひじょうに印象深かった。

 さて、ダリの作品だが、同館はダリの作品を「340点余り」所蔵している(同館のパンフレットによる)。そのうちの26点が展示されていた。過去に都内で開かれたダリ展などで見た記憶のある作品もあり、また初めて見る作品もあった。

 その中で一番惹かれた作品は、「アナ・マリア・ダリの肖像」というデッサンだ。アナ・マリアはダリの妹。本作はダリの22歳のときの作品だが、当時のダリは妹と大変仲が良かった。そんなダリの優しい感情と若い感性が表れた作品で、こういっては何だが、意外なナイーヴさが感じられた。
(2019.8.8.諸橋近代美術館)

(※)本展のHP
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フェスタサマーミューザ:ソッリマ/藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2019年08月10日 | 音楽
 フェスタサマーミューザの藤岡幸夫/東京シティ・フィルの演奏会は、チェロ奏者で作曲家でもあるジョヴァンニ・ソッリマが出演することと、メインのプログラムに芥川也寸志の交響曲第1番が組まれていることとで興味を惹かれた。

 1曲目はシベリウスの「レンミンカイネンの帰郷」。藤岡幸夫は今年4月に東京シティ・フィルの首席客演指揮者に就任したが、今後の方針の一つにシベリウスの演奏を掲げている(その他にイギリス音楽の演奏と邦人作品の演奏も)。今回の演奏もその一環だろう。今後徐々に味が出てくることを望む。

 2曲目がソッリマの独奏でドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソッリマの作曲はクラシック音楽の枠内に収まらず、中東音楽やユダヤの音楽、中世やバロックの音楽、ロック、その他のグローバルな視野に立つものなので、かえってドヴォルザークの本作のようなスタンダードなレパートリーをどう弾くか、興味の的だった。

 結果は、何か極端なことをするわけではないが、伸縮自在なところがあり、とくに弱音を引っ張る箇所など、拍節感が希薄になる瞬間があり、思わず引き込まれた。また激情的な箇所では、ソッリマの頭の中で音楽が渦巻き、その渦に身を投じるような気迫があった。鬼面人を驚かすタイプではないが、個性的だった。クラシック音楽の伝統を「ぶっ壊す」タイプではないが、現代に生きる者の心情をリアルに表した。

 当然、アンコールがあった(じつはアンコールが一番楽しみだった)。知らない曲だったが、チェロのあらゆる部分から音を出し、足を踏み鳴らし、最後は聴衆に手拍子を求める曲。会場中が盛り上がった。いかにもソッリマの曲だ。帰り際に掲示板を見たら「ナチュラル・ソング・ブックNo.4&6」とのこと。

 3曲目は芥川也寸志の交響曲第1番。第1楽章で使われる木琴と小太鼓はショスタコーヴィチを連想させ、第4楽章の快速テンポで駆け抜ける音楽はプロコフィエフを連想させるのは、いかにも芥川也寸志だが、今回はそれに加えて、第3楽章の重い足取りが、ホルストの「惑星」の中から「土星」を連想させた。芥川也寸志と「惑星」との関係はだれか指摘しているだろうか。じつはわたしは、通常はストラヴィンスキーの「春の祭典」との関係を指摘される「エローラ交響曲」にも、「火星」とよく似たフレーズを感じるのだが。

 演奏は大変よくまとまっていた。この曲には別の指揮者とオーケストラのCDがあるが、それよりも作品の真の姿を捉えていたと思う。藤岡幸夫のツィッターによれば、この演奏はCDになるそうだ。
(2019.8.6.ミューザ川崎)
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ジュリアン・オピー展

2019年08月07日 | 美術
 たまたま目にしたチラシに惹かれてジュリアン・オピー展へ。チラシ(↑)に掲載されている作品には5人の男女が描かれている。便宜上、左から順番に番号を振ると、一番左の「男1」はヘッドフォンでなにかを聴いている。その右の「女1」はお腹が大きい。その右の「男2」は肩に緑色のバッグをかけ、手には青いバッグを下げている。その右の「女2」はスマホを見ながら歩いている。その右の「男3」は帽子をかぶっているようだ。

 4人は右方向へ歩いているが、一人だけ(女2だけ)逆方向に歩いている。男2と女2の足の重なり具合を見ると、男2が奥にいて、女2はその手前にいる。同様に女2と男3を見ると、女2が奥にいて、男3が手前にいる。女2はこれから女1とすれ違い、そして男1とすれ違うが、だれにもぶつからずに、みんなスムーズに歩けそうだ。

 日常的で、穏やかな作品。会場に作品名は掲示されていないが(作家自身の意向だろう)、会場入り口で作品リストをもらえるので、それを見ればわかる。題名は「Walking in New York 1」。なんの変哲もない題名。それがかえって面白い。制作は2019年。今年の作品だ。先回りしていうと、本展の作品はすべて2018年から2019年にかけて制作された最新作ばかり。

 チラシ(↑)ではわからないが、実物を見ると、本作は絵ではなく、壁にパーツを一つひとつ貼り付けて作られていることがわかる。壁は黒地で、黒い輪郭線がそれだ。そこにたとえば女1(お腹の大きい人)でいえば、顔に当たるベージュの半円形のパーツ、襟、肩、右腕、左腕、胴体それぞれの灰色のパーツ、バッグの茶色いパーツ、スカートの深緑色のパーツ(これは2分割)、2本の足のベージュのパーツを、それぞれ貼り付けている。

 本作のサイズは、縦590.0×横671.0㎝という巨大なもの。そこにパーツを一つひとつ貼り付ける作業は、少しのズレも許されないので、(もちろんやりかたはあるだろうが)神経を使うのではないか。そうやって出来上がった本作は、いつまで見ていても飽きない味がある。

 本展の作品数は27点と比較的少なく、そのうち2点はサウンド作品(キーボード音楽)なので、美術作品は25点。そのどれもがシンプルな線と色でできている。カジュアルで楽しい。場内は広々としている。写真撮影も自由。

 ジュリアン・オピーJULIAN OPIEは1958年ロンドン生まれだそうだ。
(2019.7.30.東京オペラシティ・アートギャラリー)
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小菅優

2019年08月03日 | 音楽
 小菅優の第48回サントリー音楽賞受賞記念コンサートへ。1曲目はモーツァルトのピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調K.379。ヴァイオリンは樫本大進。2楽章構成の曲だが、序奏が長大なので、実質的には3楽章構成のように聴こえる曲。その中間部(第1楽章の主部)はト短調のパセティックな音楽なので、ベートーヴェンの音楽に近づいている。

 小菅優と樫本大進の演奏は、正確で、曲の隅々まで彫琢し、恣意的な部分が皆無だ。一言でいって、この曲の真の姿が現れたようだった。ヴァイオリンの音が細く感じられたが、それはいつものことかもしれないと思った(樫本大進については、最後のブラームスのときにもう一度触れたい)。

 2曲目は藤倉大の『WHIM』(世界初演)。この曲は「ピアニスト小菅優さんに書いたピアノ協奏曲第3番「インパルス」のカデンツァパートが独立した作品」(作曲者のプログラム・ノートより)。ピアノ協奏曲第3番「インパルス」は本年1月に読響の定期で聴いたばかりだが(小菅優のピアノ独奏、山田和樹の指揮)、そのときは絶えず動き回るピアノの超絶技巧に舌を巻いたことを覚えているが、今回そのカデンツァパートを聴いても、記憶が蘇らなかった。曲としては、美しい響きと濃やかな陰影が印象的だ。

 3曲目はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」。これは当夜の白眉だった。胸がすくような運動性、滑らかな起伏、そしてなんといってもベートーヴェンの精神の純粋性が表れた演奏だ。とくに第3楽章のテーマに崇高な美しさがあった。高音の響かせ方がうまいのだと思うが、ベートーヴェンの純な魂が輝いているように感じられた。

 休憩後、4曲目はブラームスのピアノ三重奏曲第1番。ヴァイオリンは樫本大進、チェロはクラウディオ・ボルケス。これは基本的には1曲目のモーツァルトと同様、恣意的に流れず、正確で、よく彫琢された演奏だが、そこに若き日のブラームスの甘美な感傷が湧き起らないのが物足りなかった。

 なぜだろうと考えているうちに、樫本大進がやせたように見えることに気が付いた。やせただけではなく、顔色も悪そうだ。減量中ならよいのだが、全体的に覇気がないように感じられることが気になった。

 アンコールにモーツァルトのピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330の第1楽章が演奏された。音の運動性と滑らかな音楽の運びが見事で、できればわたしの好きな第2楽章も聴いてみたくなった。
(2019.8.2.サントリーホール)
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