Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

秋山和慶を偲ぶ

2025年01月29日 | 音楽
 秋山和慶が亡くなった。本年1月1日に自宅で転倒して、重度の頚椎損傷を負った。1月23日に家族の名前で引退が表明された。そのときの発表文によれば、引退は「意識がはっきりしている本人と家族によって十分に話し合われた結果決めたこと」であり、「秋山和慶は、これから厳しいリハビリとの戦いになります」とあった。それから3日後の1月26日に肺炎を起こして亡くなった。享年84歳。

 わたしは秋山和慶の生き方に共感していた。秋山和慶は1964年2月に東京交響楽団を指揮してデビューした。当時23歳だった。ところがその翌月に(同年3月26日に)東京交響楽団は解散した。TBSの専属契約が打ち切られたためだ。同年4月9日には当時の楽団長の橋本鑒三郎(げんざぶろう)が入水自殺するという悲劇が起きた。

 秋山和慶は苦境にあった東京交響楽団をひとりで支えた。斎藤秀雄門下の兄弟子の小澤征爾が世界を目指していたころだ(N響事件が起きたのは1962年12月だ)。秋山和慶は小澤征爾とは対照的な生き方をした。

 秋山和慶はその後、東京交響楽団の音楽監督・常任指揮者を退任する2004年まで、40年間にわたり同楽団の指揮者を務めた。退任後も同楽団と緊密な関係を保った。

 最後に聴いたのは2024年9月21日の東京交響楽団の定期演奏会だ(チラシ↑)。1曲目のベルクのヴァイオリン協奏曲では、竹澤恭子のヴァイオリンもさることながら、繊細に組み立てられたオーケストラのテクスチュアにヴァイオリン独奏も織り込まれ、ベルク独特の音楽が現出した。2曲目のブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」では、ゆったりした音楽の流れに豊かなニュアンスが施され、至高のブルックナーの音楽が鳴った。その演奏は白銀色に輝いていた。

 もうひとつ、想い出深い演奏をあげると、2003年3月29日のジョン・アダムズの「エル・ニーニョ」だ。エル・ニーニョとはいまでは海洋現象に使われる言葉だが、元は幼子イエスを意味するスペイン語だ。ジョン・アダムズのこの曲は、イエスの誕生をマリアの視点で描く物語だ。受胎告知の怖れ、出産の痛み、幼子イエスにそそぐ母性愛が描かれる。

 ピーター・セラーズの演出は、マリアをヒスパニック系の少女に設定した。マリアは父親のない子(=イエス)を産み、警官(=ヘロデ王)に追われて、現代のアメリカ西海岸をさまよう。たき火のそばにたたずむマリア。ヒッピー風の3人(=東方の三博士)が幼子を訪れる。ステージ後方に投影された映像が忘れられない。アメリカはもちろん、中東にも、日本にもいるかもしれない現代のマリアだ。秋山和慶が指揮する東京交響楽団の精緻な演奏がマリアに寄り添った。
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藤岡幸夫/日本フィル(横浜定期)

2025年01月26日 | 音楽
 藤岡幸夫指揮日本フィルの横浜定期。1曲目は武満徹の組曲「波の盆」。1983年に日本テレビで放映されたドラマ「波の盆」のために武満徹が作曲した音楽を、後に武満徹自身が演奏会用組曲に編曲した。ノスタルジックなテーマが何度か回帰する。ハープとチェレスタとシンセサイザーがアクセントを添える。

 演奏はしみじみとした情感を漂わせた。以前、尾高忠明指揮N響が演奏したときは、あまりにも沈んだ情感に、わたしまで沈んだ気分になった記憶がある。今回の演奏ではその点はうまく回避していた。

 テレビドラマは倉本聡の脚本、実相寺昭雄の監督によるもの。その年の文化庁芸術大賞を受賞した。ストーリーはハワイの日系移民の第二次世界大戦中の苦難を回想するもの。わたしは未見だが、武満徹の音楽から何となく作品が想像される。

 2曲目はモーツァルトのフルート協奏曲第2番。フルート独奏はCocomi。Cocomiはもちろん芸名だ。若い日本人女性。ステージに登場したときから、スリムなスタイルに目を奪われた(容姿のことをいうのは、本来は憚られるが)。演奏は素直だ。アンコールにフォーレの「コンクール用小品」を演奏した(わたしはだれの何という曲か知らなかったが)。アンコールのほうが音色に艶があった。

 帰宅後、インターネットでCocomiを検索した。木村拓哉と工藤静香の娘さんだ。2001年生まれ。桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コースを修了。現在はフルート奏者として活動するとともにモデルとしても活動する――と。なるほどと納得する。

 3曲目はルグランの交響組曲「シェルブールの雨傘」。演奏時間約30分の大曲だ。例の甘く切ないテーマが何度も現れる。大オーケストラ以外に、エレクトリックギターとウッドベースとドラムスのコンボが加わる。トランペット、トロンボーン(ともにうまい!)、ピアノ、ヴァイオリンなどのソロが頻出する。ゴージャスなサウンドを楽しんだ。ルグランはポピュラー音楽で大成功したが、パリ音楽院出身だ。オーケストラを色彩豊かに鳴らす術を心得ている。最晩年にはチェロ協奏曲(山田和樹が日本フィルを振って、横坂源のチェロ独奏で演奏したことがある)とピアノ協奏曲を作曲した。

 「シェルブールの雨傘」は高校時代か大学時代に観たことがある。若い二人の甘い純愛物語だが、人生の苦みが加わる点がフランス映画の伝統を感じさせる。物語の背景には当時のアルジェリア戦争がある。アルジェリアがフランスと戦い、独立を勝ち取った。「シェルブールの雨傘」はその直後に制作された。
(2025.1.25.横浜みなとみらいホール)
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ソヒエフ/N響

2025年01月25日 | 音楽
 ソヒエフ指揮N響の定期演奏会Cプロ。曲目はストラヴィンスキーの組曲「プルチネッラ」とブラームスの交響曲第1番。

 組曲「プルチネッラ」は弦楽器が14型の演奏。ちょっと驚いた。これでどういう演奏になるのだろう。案の定、弦楽器は重かった。木管楽器が2管編成で(ただしクラリネットを欠く)、ホルン2本、トランペットとトロンボーンが各1本という金管楽器にくらべて、弦楽器の図体が大きい。結果、この曲の諧謔味が薄れた。

 ストラヴィンスキーのスコアには弦楽器の編成の指定はないだろう。では、一般的にはどのくらいの編成で演奏されているのだろう。Wikipediaによると、4‐4‐3‐3‐3とある。たしかにその程度の編成がふさわしいかもしれない。弦楽器の薄さという点と、中低音に比した高音(ヴァイオリン)の薄さという点でそう思う。ヴァイオリンの薄さが何ともいえない頼りなさと諧謔味を生むのではないだろうか。

 2曲目はブラームスの交響曲第1番。N響にかぎらず、どのオーケストラにとっても、この曲はもっとも大切なレパートリーのひとつだろう。名曲コンサートで取り上げる機会も多いだろうが、定期演奏会で演奏する際には、そのオーケストラがもっとも信頼できる指揮者と入念なリハーサルを重ねて演奏に臨むだろう。

 そんな特別な曲であることが伝わる演奏だった。快い緊張感があり、しかも聴衆をリラックスさせて演奏の中に引き込む。その演奏はやわらかいレガートが縦横に張り巡らされ、耳に心地よい。しかもそれとは対照的な硬い音も欠かさないので、一本調子に陥らない。どの部分をとっても内声部の豊かな動きが聴こえる。オーケストラ全体がソヒエフの指示によって一体的に動く。まるでソヒエフがオーケストラを通して歌っているようだ。

 なので、文句のつけようのない演奏だった。聴いていて、幸せになる。だが、と言いたくなるのは、わたしが悪いのだろうか。わたしは一瞬たりとも注意をそらさずに聴くことができたが、聴いている最中の幸福感にくらべると、聴いた後の充足感が弱かった。その演奏にはブラームスの内面的な葛藤がなかったからだ。ブラームスは何にたいして戦ったのか。その痕跡がきれいに消しとられていたからだ。

 わたしはN響の定期会員としてソヒエフへの評価は人後に落ちないつもりでいた。いや今でもそうだ。だが今回初めて小さな疑問を感じた。先日のAプロで聴いたショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」で感じた不満ともいえない思いの正体は、これだったのだろうか。
(2025.1.24.NHKホール)
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上岡敏之/読響

2025年01月22日 | 音楽
 読響の定期演奏会。指揮は上岡敏之。曲目はショパンのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏はポゴレリッチ)とショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。

 ホールに入ると、ステージの照明を暗くして、だれかがピアノを弾いている。単純な和音が延々と続く。その人はカラフルなセーターか何かを羽織ってマスクをかけている。顔は分からない。だがポゴレリッチだろう。どこか儀式めいている。やがて女性が近づき、何かをささやく。その人は弾くのをやめて、ステージの袖に引っ込んだ。

 その約15分後に開演。ポゴレリッチが登場してショパンのピアノ協奏曲第2番が始まる。テンポは遅めだが、想定内の遅さだ。ポゴレリッチのピアノ独奏は、譜面の細部を味わい尽くすようであり、また変なところにアクセントがついていたりするが、でも過去のポゴレリッチにくらべると、ずいぶんあっさりしてきた。

 オーケストラだけの演奏になると、ポゴレリッチのピアノ独奏部分の遅さを本来のテンポに戻すように、速めのテンポで(=普通のテンポで)進む。そのコントラストが全体の造形をなんとか支えた。

 ポゴレリッチのアンコールがあった。なんと今演奏したばかりのショパンのピアノ協奏曲第2番の第2楽章をもう一度演奏した(もちろんオーケストラも入った)。2度目になると、ポゴレリッチの手の内も分かって、落ち着いて味わえた。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。今まで聴いたどの演奏とも違う演奏だ。スコアを克明に追うとか、情景が目に見えるように描くとか、そんなレベルをこえて、スコアに没入し、スコアに書かれた出来事を生きるような演奏だ。一瞬一瞬が今であり、そこで傷つき、怯え、それでも立ち向かう。言い換えれば、演奏するというよりも、ショスタコーヴィチがスコアに書いた出来事を経験するような演奏だ。

 わたしは疲れた。正直言って、もう一度聴きたいかと問われれば、もう十分と答えるかもしれない。実のところ、演奏を聴きながら、かつてスクロヴァチェフスキが読響を振った演奏を思い出した(2009年のことだ)。悲惨な出来事を迫真的に描きながらも、拍節感が保たれ、音楽的な法を越えなかった。

 それにしても、全編にわたって革命歌と労働歌がちりばめられたこの曲を、当時のソ連の人々はどう聴いたのだろう。その想像は難しい。上岡敏之の指揮は激しく没入的なものだったが、その指揮はこの曲の含意と絡み合っていたのだろうか。
(2025.1.21.サントリーホール)
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ソヒエフ/N響

2025年01月20日 | 音楽
 ソヒエフ指揮N響のAプロ。曲目はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。第1楽章冒頭の「人間の主題」がとくに気負わずに提示される。しっかりと演奏されているが、サクサク進む。続く「平和な生活の主題」は美しいが、そこに余分な感情はこめられていない。そして例の「戦争の主題」。小太鼓のリズムが軽く弾むように始まる(竹島悟史さんの名演だ)。そのリズムに乗って「戦争の主題」が受け渡される。「戦争の主題」なんて呼ばれるから、そうかと思って聴くが、そんな呼び名がなければいかにも楽しそうだ。やがてその楽しさは阿鼻叫喚の場面に変貌する。だがその阿鼻叫喚もわたしには悲痛さが感じられなかった。そしてすべてが破壊された荒涼とした風景が現れる。でも、わたしはなにも感じなかった。

 以上がわたしの聴いた第1楽章だ。ソヒエフの耳の良さはよく分かる。N響の優秀さも分かる。だが一切のメッセージ性を排したこの演奏をどう捉えるべきか。純音楽的という言葉で理解するのは簡単だ。だが、そこで思考停止してよいのかと。

 むしろ第2楽章と第3楽章が名演だと思った。過大な身振りのない両楽章がソヒエフの個性に合うのだろうか。とくに第3楽章の、ソヒエフとN響の見事に呼吸の合った演奏に瞠目した。わたしには第3楽章が白眉だった。

 第3楽章から切れ目なく入る第4楽章では、冒頭の「タタタター」というリズム音型がなんの緊張感もなく演奏された。拍子抜けした。やっぱりそうかと思った。第1楽章でわたしの感じたことはこの演奏の基本姿勢だったのだと。

 バンダも加わる第4楽章の最後はもちろん圧倒的な音量だったが、でもそれは音圧で圧倒するよりも、澄んだハーモニーを崩さない優秀さが先に立った。それもまたこの演奏の特徴だった。

 ナチス・ドイツに包囲されたレニングラードで作曲が始められたこの交響曲。千葉潤氏のプログラムノーツによれば、約900日間続いたその戦闘で80万人の犠牲者が出た。しかも悲惨なことには、そのうちの64万人は餓死者だったという。そのような惨状を目の当たりにして、ショスタコーヴィチがなにを感じたかは、想像に難くない。だがその結果生まれたこの交響曲の、とりわけ「戦争の主題」を、どう考えたらよいのだろう。

 ソヒエフとN響のこの演奏は、わたしにもう一度その問いを投げかけた。繰り返すが、なんのメッセージ性もない演奏だ。でも優秀な演奏であることは間違いない。その演奏が物語るものはなんだろう。
(2025.1.19.NHKホール)
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山田和樹/日本フィル

2025年01月19日 | 音楽
 山田和樹指揮日本フィルの東京定期。1曲目はエルガーの「威風堂々」第1番。日本フィルが良い音で鳴っている。最後は山田和樹が、どこから持ち出したのか、両手に鈴を持って振り鳴らす。最後の音が鳴り終わらないうちに、山田和樹が聴衆に拍手をうながす。わたしは感動した。それでいいのだ。感動したら、最後の音が鳴り終わらなくても、感動を拍手で表現してよいのだと。そんな自由さが懐かしかった。

 2曲目はヴォーン=ウィリアムズの「揚げひばり」。ヴァイオリン独奏は周防亮介。全身銀色に輝く衣装を着けて現れた。ポップス音楽のスターのようだ。びっくりした。もちろん演奏は周防亮介らしいナイーヴなもの。とくに最後の、オーケストラが沈黙して、独奏ヴァイオリンだけが遠くから聴こえる小さな鳴き声のように“囀り続ける”部分では、息をのむ想いがした。

 アンコールにパガニーニの「イギリス国歌God Save the Kingの主題による変奏曲」が演奏された。当夜はイギリス音楽プログラムなので、その関連の選曲だろう。「揚げひばり」とはうって変わって、外向的で華麗な演奏だった。

 3曲目はエルガーの交響曲第2番。じっくり腰を据えてこの大曲を歌いつくす演奏だ。とくに印象に残った点は、ゆったりと歌い続けるこの曲で、時折現れる表情の陰りが、じつに的確に表現されたことだ。穏やかな音楽の流れの中で時折ふっと表情が暗転する。その瞬間が第1楽章から頻出する。そのときの色彩の変化が細やかに表現された。

 そのような表情の陰りは、葬送行進曲風の第2楽章で全開した。一方、第3楽章スケルツォの末尾ではスリリングな展開に目をみはった。山田和樹のオーケストラの卓越したドライブ感が現れた一例だ。第4楽章では豪快な演奏が展開した。一転してコーダでは、緊張感のある静寂が訪れた。最後の音が鳴り終わった後も、会場はじっと息をひそめた。1曲目の「威風堂々」第1番とは対照的だ。

 日本フィルは総体的に見事な演奏だった。その中でも弦楽パートの厚みのある音が印象的だった。インキネンの軽い音、カーチュン・ウォンのシャープな音とはちがい、厚みのある暖かい音だ。その音で濃密な表現を聴かせた。

 カーテンコールでは、当演奏会で退団するホルンの宇田紀夫さんに花束が贈られた。宇田さんは日本フィル在籍42年で、かつインスペクター(楽員代表として指揮者と打合せをする役職)を35年務めたという。山田和樹がそれを開演前のプレトークで紹介した。カーテンコールでは聴衆も惜しみない拍手を送った。
(2025.1.18.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2025年01月18日 | 音楽
 新年初めての演奏会。約1か月のブランクだ。年末年始をはさんだ約1か月の間、思いがけず忙しい日々を過ごした。昨年11月から住民運動にかかわり、濃密な日々が続く。相手は行政だ。不誠実な対応にイライラが募る。

 約1か月ぶりの演奏会は東京シティ・フィルの定期演奏会。指揮は高関健。1曲目はサン=サーンスのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は奥井紫麻(しお)。初めて聴くピアニストだ。2004年5月生まれ。今二十歳だが、すでに立派なコンサート・ピアニストだ。サン=サーンスのこの曲を堂々と造形した。

 印象的だったのは、中高音の美しさだ。キラキラした音ではなく、澄んだぬくもりのある音が鳴る。一方、低音は深みに欠けるかもしれない。ともかく全体としてはヒューマンな音だ。帰宅後、SNSを見ると、会場のロビーに飾ってあった花が写っていた。よく見ると、FAZIOLIから贈られた花だった。もしかすると奥井紫麻が弾いたピアノは、スタインウエイではなく、FAZIOLIだったのかもしれない。

 アンコールにラフマニノフの前奏曲集作品23から第2番が演奏された。豪快な演奏だった。奥井紫麻はロシアで学んだ(今はジュネーヴ高等音楽院で学んでいる)。ロシア音楽もレパートリーに入っているのだろう。

 2曲目はマーラーの交響曲第7番「夜の歌」。最近は演奏機会が増えている曲だ。指揮者によってアプローチが異なる曲でもある。高関健のアプローチは音を克明に追うもの。覚醒した意識ですべての音を鳴らす。ムードに訴える演奏でもなければ、音色の美しさに惑溺する演奏でもない。高関健のそのアプローチは、この曲にかぎったことではなく、今まで聴いたマーラーの演奏に共通するものだ。とくに第7番は一筋縄ではいかない曲なので、余計におもしろいし、手ごたえがあった。

 印象的だったのは、第5楽章が全体の構成の中にきっちり収まったことだ。少しも唐突ではなく、また突出してもいなかった。昔、セーゲルスタムが読響を指揮してこの曲を演奏したときに、第5楽章が異様に突出したので、ショックを受けたことがある。そんな話はもう昔語りになったのだろうか。

 「夜曲」と名付けられた第2楽章は行進曲だ。夜の行進とは、いったいだれの行進なのだろう。兵士たちの行進か、それとも森の動物たちの行進か。同じく「夜曲」と名付けられた第4楽章は、ギターとマンドリンが入る恋人たちのセレナードだが、それにしては途中で忍び寄る不気味な影はなんなのか。そんな想像を楽しんだ。
(2025.1.17.東京オペラシティ)
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ブルックナー随想(3):ブラームス

2025年01月15日 | 音楽
 ブルックナーのことを考えていると、どうしてもブラームスが気になる。二人の関係は実際のところ、どうだったのだろう。有名なエピソードは1889年10月25日にブルックナーとブラームスが会食した件だ。根岸一美氏の「ブルックナー」(音楽之友社、2006年)(↑)によると、当日はブルックナーのグループが先にレストラン「ツム・ローテン・イーゲル」に着いた。だいぶ遅れてからブラームスのグループが着いた。しばらく沈黙の時が流れた。ブラームスがメニューを取って「そうですなぁ、クネーデルと野菜付きの燻製肉にします。これ、私の好物なので」といった。ブルックナーは「結構ですねえ、ドクター、燻製肉とクネーデル、これは私たちふたりが理解し合える点ですねぇ」と応じた。みんな大笑いした。楽しい時間を過ごした。ただ、その後両者が親しくなることはなかった――とのこと。

 「その後両者が親しくなる」必要はなかったのだろう。その会食で十分だった。二人はウィーンを二分する抗争に巻き込まれた。ブラームスは抗争から距離を取ったが、ブルックナーは妨害され、攻撃された。二人とも個人的なわだかまりがないことが分かれば、それで十分だったのではないか。

 1883年2月11日にブルックナーの交響曲第6番の第2楽章と第3楽章が初演されたとき、客席にはブラームスがいた。ブラームスが拍手喝さいしたことが目撃されている。また1893年3月23日に「ミサ曲第3番」が演奏されたとき、ブラームスはボックス席で耳を傾けて、拍手を惜しまなかったといわれる。

 これも有名なエピソードだが、ブルックナーが1896年10月11日に亡くなり、10月14日にカールス教会で葬儀が営まれたとき、ブラームスは教会まで来て、扉のそばに佇んだ。中に入るよう促されたが、ブラームスは「次は私の番だよ」といって立ち去った。ブラームスはそれから6か月後の1897年4月3日に亡くなった。

 ブルックナーはワーグナーの一派とみなされ、ブラームスは保守派の旗手とみなされたが、その対立構図は今のわたしたちには理解しがたい。ブルックナーの音楽は、生々しいドラマを語るワーグナーの音楽よりも、文学的な要素のないブラームスの音楽に近いのではないだろうか。当時もそう思う人はいたようだ。オペラ「ヘンゼルとグレーテル」の作曲者フンパーディンクだ。フンパーディンクは「われわれにとって不可解なのは、人々が、アントン・ブルックナーについて、ワーグナーの芸術原理を交響曲に移し替えたものだと思っていることである」と述べた(根岸一美氏の前掲書)。思えば、ブルックナーとブラームスの対立構図は、評論家ハンスリックが意図的に作り上げたものかもしれない。

 ブラームスの蔵書にはブルックナーの交響曲第7番の楽譜があった。ブラームスはブルックナーの音楽を正確に理解していたのではないだろうか。
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ブルックナー随想(2):キッツラーの練習帳

2025年01月12日 | 音楽
 ブルックナーがザンクト・フローリアン修道院の少年聖歌隊員になったのは1837年、13歳のときだ。ブルックナーは国民学校の校長で少年聖歌隊長のミヒャエル・ボーグナーの家に寄宿した。ボーグナーから通奏低音を教わり、またフランツ・ラーブから声楽を、フランツ・グルーバーからヴァイオリンを、そしてアントン・カッティンガーからピアノとオルガンを教わった。

 そのようにして、ブルックナーは身近な音楽家から音楽を学んだ。ザンクト・フローリアンの時代だけではなく、それ以降も。ブルックナーの伝記を読んでもっとも圧倒されるのは、音楽を学ぶ貪欲さ、そして謙虚さだ。

 ブルックナーは1855年にウィーンを訪れた。ウィーン大学の高名な教授ジーモン・ゼヒターに学ぶためだ。ブルックナーは前年に作曲してザンクト・フローリアンで初演した「ミサ・ソレムニス」を持参した。ゼヒターは入門を許す。以降、1861年までの6年間、ブルックナーは主に手紙を通じてゼヒターから指導を受ける。

 ブルックナーは1856年にリンツ大聖堂のオルガン奏者に就任した。それでもなおゼヒターの指導を受け続けた。余談だが、シューベルトもゼヒターの指導を受けた。1828年のことだ。シューベルトはその年に亡くなった。シューベルトとゼヒターの師弟関係は短命に終わった。だがともかくシューベルトとブルックナーは兄弟弟子に当たる。

 ブルックナーの伝記を読んで一番驚くのは、ブルックナーがゼヒターの次にリンツ歌劇場の首席楽長オットー・キッツラーの指導を受け始めたことだ。そのときブルックナーは37歳になっていた。キッツラーはブルックナーより10歳も年下だ。ブルックナーはそのキッツラーから1863年までの2年間指導を受けた。

 ブルックナーはキッツラーのもとで多くの習作を書いた。その中には交響曲がある。今では交響曲第00番と呼ばれる曲だ。演奏時間は約40分。ブルックナーの片鱗がうかがえる。また弦楽四重奏曲も書いた。演奏時間は約20分。部分的にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの音がする。その他に何曲ものピアノ小品がある。「キッツラーの練習帳」と呼ばれる習作群だ。

 それらのピアノ小品を録音したCDが何種類かある。上掲のCD(↑)はブルックナーが所有していたベーゼンドルファーのピアノフォルテを弾いたものだ。ブルックナーは1848年、24歳のときにザンクト・フローリアンの書記官フランツ・ザイラーからベーゼンドルファーのピアノフォルテを遺贈された。ブルックナーはそのピアノフォルテを生涯所有した。当CDのピアノフォルテはそれかもしれない。
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ブルックナー随想(1):ザンクト・フローリアン訪問記

2025年01月09日 | 音楽
 2024年はブルックナー(1824‐1896)の生誕200年だった。1年遅れだが、ブルックナーの随想を。まずはブルックナーの聖地ザンクト・フローリアンの訪問記から。

 ザンクト・フローリアンを訪れたのは2015年8月のことだ。ザルツブルク音楽祭に出かけたついでに訪れた。ザルツブルクから電車に乗ってリンツまで約1時間。リンツからバスに乗って約30分でザンクト・フローリアンに着いた。

 リンツを出たバスはしばらく市内を走る。なんの変哲もない地方都市だ。20分くらいたつと風景が変わる。のどかな農村地帯だ。すると間もなくザンクト・フローリアン。小さい村だ。ガストホーフが何軒かある。テラスで男たちがビールかワインを飲んでいる。のんびりした光景だ。

 ブルックナーがいた修道院(写真↑。Wikipediaより)は村の中心にある。小さい村には似つかわしくない威容を誇る。修道院に入るとすぐにレストランがある。ちょうどお昼時だったので食事をとった。古色蒼然としたレストランだ。ブルックナーもこのレストランで食事をとったり、ビールを飲んだりしたのだろうか。

 食事を終えて奥に行くと礼拝堂がある。オルガン奏者が曲をさらっている。じっと耳を傾けた。ブルックナーが弾いたオルガンの音だ。至福の時とはこのような時をいう。頭の中が空になった。だれかに声をかけられた。振り返ると、年配の女性がいた。「申し訳ないが、これからオルガン・コンサートがある」と。謝ってチケットを買った。年配の女性は笑顔を見せた。何人かの聴衆が集まった。プログラムにはブルックナーの曲は入っていなかった。なぜだろう。ハッと気が付いた。ブルックナーはオルガン曲をほとんど残していないからだ。

 コンサートが終わってバスでリンツに戻った。まだ時間が早い。欲が出て、ブルックナーの生地アンスフェルデンに行ってみようと思った。駅の構内の路線図を見ると、アンスフェルデンという駅がある。インフォメーションで尋ねると、電車が出るところだ。急いで飛び乗った。アンスフェルデンは10分程度で着いた。駅前には何もない。ザンクト・フローリアン以上に田舎のようだ。

 アンスフェルデンとザンクト・フローリアンから見ると、リンツは都会だ。そしてウィーンは国際都市だ。ブルックナーがザンクト・フローリアンからリンツへ、そしてウィーンへと進出したときには、どれほど緊張したことか。ブルックナーはウィーンに移ってからも、折に触れてザンクト・フローリアンの修道院を訪れた。その際にはオルガンを弾いた。ブルックナーはザンクト・フローリアンにいると安心できたのだろう。
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半村良「能登怪異譚」

2025年01月06日 | 読書
 能登半島地震から1年たった。現地では倒壊した家屋がそのまま残っていたり、水道がまだ通っていない地域があったりすると報じられている。それらの復旧の遅れはどうしてなのか。そもそも能登半島地震への対応は初動からおかしかった。ヴォランティアに行くなと号令がかかった。また岸田首相(当時)や馳県知事の現地入りが遅かった。その延長線上に今がある。

 半村良の「能登怪異譚」は能登にまつわる怪談を9篇収めた短編集だ。どの話も能登弁で書かれている。間延びしてユーモラスだ。だが内容はゾッとする。たとえば「箪笥」は主人公・市助の子どもが夜になると箪笥の上に座る話だ。なぜ箪笥の上に座るのかは分からない。ともかく箪笥の上で夜を過ごす。朝になると普通の生活に戻る。市助には子どもが8人いる。最初は一番下の子どもがそうなる。だんだん増えて、ついには8人全員がそうなる。妻や祖父や祖母もそうなる。市助は気味が悪くなって家出をする。

 市助の家は古民家だ。電気をつけても暗い。おまけに部屋数が多い。葬式でもなければ3か月も半年も入らない部屋がある。もしわたしがそんな家に泊まり、がらんとした部屋に一人で寝たら、どんな気持ちになるだろう。部屋には古い箪笥がある。箪笥の上は暗い。そこに何かの気配がしないか。「箪笥」はそんな気配から生まれた話かもしれない。

 「箪笥」は一種の寓話かもしれない。市助は一家のあるじだが、市助を除く家族全員の結束が固い。市助は疎外感を味わう。市助は家出をする。そんな話は実際にありそうだ。「箪笥」では市助は最後に家に戻る。だがハッピーエンドだろうか。家に戻ることは、家族に屈服し、家族の仲間に入れてもらうことを意味するかもしれない。市助は一人でいたほうが自由で幸せだったのではないだろうか、という解釈も成り立つ。

 ネタばれは避けるが、「箪笥」は最後にオチがつく。そのオチが怖い。さすがに半村良は小説がうまいと舌を巻く。

 「箪笥」が箪笥の上の暗い空間から生まれた(かもしれない)話だとすれば、「蛞蝓」(なめくじ)は土蔵の中に大量の蛞蝓が発生したことから生まれた話かもしれない(あるいは、夜釣りをしているときに、海に浮かぶクラゲを見て生まれた話かもしれない)。両者は一対をなす。また「雀谷」(すずめだに)と「蟹婆」(かにばあば)は推理小説的な手法で一対をなす。同様に「仁助と甚八」と「夫婦喧嘩」はコミカルな点で対をなす。「夢たまご」と「終の岩屋」は人生の寓意という点で一対だ。

 ただ「縺れ糸」(もつれいと)は対になる作品が見当たらない。その話だけ孤立している。現代への警句が読み取れる話だ。
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