Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

スクロヴァチェフスキ追悼

2017年02月25日 | 音楽
 スクロヴァチェフスキ(1923‐2017)が亡くなった。5月の読響への客演がキャンセルになったので、心配していたが、まさか亡くなるとは思わなかった。昨年10月にミネソタ管弦楽団でブルックナーの交響曲第8番を指揮したのが最後の演奏会になったそうだ。50年以上の長きにわたって関わったミネソタ管弦楽団が、最後に振ったオーケストラになってよかったと思う。

 スクロヴァチェフスキは2007年4月から3年間、読響の常任指揮者を務めた。前任のアルブレヒトの下で読響が一大飛躍を遂げた後だったので、難しい時期だったと思うが、スクロヴァチェフスキはオーケストラからも聴衆からも厚い支持を受けて、読響を上昇気流に乗せた。

 スクロヴァチェフスキは常任指揮者就任直後に、ブルックナーの初期交響曲を集中的に取り上げた。どの演奏もすばらしかった。わたしは今まで単発的にしか聴いてこなかったこれらの作品群を、あるまとまったカテゴリーとして意識するようになった。

 スクロヴァチェフスキはやがてブルックナーの中期、後期の交響曲にも取り組んだ。それらの演奏がどんなにすばらしかったかは、もはやいうまでもないと思う。

 スクロヴァチェフスキは、ブルックナーだけでなく、シューベルトも、シューマンも、ショスタコーヴィチも演奏した。それらの名演が記憶に残っているが、今それらを逐一書いても煩瑣になるだけだろう。だが、時々プログラムに載せた自作曲には一言触れておきたい。

 それらの曲はどれも面白かった。あえて1曲または数曲を挙げるのも善し悪しだと思うので、今は控えるが、どの曲もスクロヴァチェフスキの音楽的な思考法がよく表れていた。なるほど、スクロヴァチェフスキの頭の中に鳴っている音楽はこうなのかと思った。それは演奏にも共通していた。

 では、どういう音楽か。わたしが感じ取ったのは、緊張感のある音、きびきびしたリズム、停滞しない流れ、旋律線だけでなく内声部も低声部も自立的に動く精密な構造、一言でいうと活発な音楽的思考が感じられる音楽だった。

 なので、ブルックナーの演奏も、けっして重厚長大にはならなかった。わたしにはそれが好ましかった。スクロヴァチェフスキは、そのような音楽性を生涯の最期まで持ち続けた。けっして(他の一部の指揮者に見られるような)老人性の自己愛には陥らなかった。もって範とすべし、だ。
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B→Cシリーズ浜野与志男

2017年02月22日 | 音楽
 今回のB→Cシリーズはピアニストの浜野与志男が登場し、ソヴィエト時代を生きて今も存命中の作曲家、ペルト、シチェドリン、シルヴェストロフ、グバイドゥーリナをプログラムに組んだ。

 浜野与志男は1989年生まれ。東京藝大、英国王立音楽大学を経て、今はモスクワでエリソ・ヴィルスラーゼのもとで研鑽中。国内外のコンクールで入賞または優勝を果たしている。母親はロシア人。

 ソヴィエト時代を生きた作曲家を取り上げたのはなぜか。浜野与志男がプログラムに寄せた一文を引用すると、「ソヴィエトの作曲家が残した音楽には圧倒的な感動があり「芸術は死んでいなかった」という実感を与えてくれる」から。

 今回演奏された上記4人の曲は、いずれもソヴィエト時代に書かれたもの。それぞれ異なる作風ながら、鮮烈な個性や濃い内実を備えていて、わたしも「芸術は死んでいなかった」と実感した。言い換えるなら、今まであまり意識してこなかった時代=地域に目を向けるきっかけになった。

 1曲目はバッハの「フランス風序曲」。いきなり大曲だ。序曲とはいっても、今のわたしたちが考えるような序曲ではなく、むしろ組曲だが、最初の「序曲」と最後の「エコー」では演奏のイメージがだいぶ違った。「序曲」ではリヒテルとかニコライエワを思い起こさせる渋いものを感じたが、「エコー」では強い打鍵が表に出た。

 2曲目のペルトの小品「アリーナのために」から3曲目のスカルラッティの「ソナタロ短調K27」へは切れ目なく演奏された。その効果は抜群だった。ペルトの静謐な音楽とスカルラッティの軽やかなバロック音楽とが自然につながり、しかもその対照が見事だった。

 4曲目はシチェドリンの「バレエ音楽〈アンナ・カレーニナ〉からの2つの小品」(ピアノ編曲はプレトニョフ)、5曲目は網守将平の「M7ATION/Ver.13」が演奏された。

 6曲目はシルヴェストロフの「ピアノ・ソナタ第3番」。シルヴェストロフは今秋来日が予定されている。話題になるかもしれない。7曲目はグバイドゥーリナの「シャコンヌ」。張り詰めた厳しさが圧倒的だった。浜野与志男は暗譜で演奏。打鍵の強さが際立った。

 アンコールに活きのいい曲が演奏された。パーヴォ・ヤルヴィがN響でよく取り上げる作曲家エルッキ=スヴェン・トゥールの「ピアノ・ソナタ」から第3楽章だった。
(2017.2.21.東京オペラシティリサイタルホール)
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鈴木雅明/東京シティ・フィル

2017年02月19日 | 音楽
 鈴木雅明が東京シティ・フィルを振るのは何度目だろう。ハイドンなどから始まってマーラーまで行った過去の演奏会はすべてよかった。今回はウェーベルンとバルトークが入っている。いよいよ20世紀の音楽にまで及んだ。

 1曲目はウェーベルンの「パッサカリア」。‘作品1’という作品番号が何となく誇らしげだ。いうまでもないが、ウェーベルンは「パッサカリア」の前にもいくつか作曲していた。管弦楽曲「夏の風の中で」がもっとも有名だろうが、それ以外の曲でもよい曲がある。清新なロマンを湛えた曲たちだ。

 だが、ウェーベルンは、シェーンベルクに師事して、ショックを受けたのだろう。その影響の下で作曲した「パッサカリア」に‘作品1’を付けた。自分の歩む道はこの道だという宣言のようなものが感じられる。

 演奏はよかった。どうよかったを、あえて説明してみると、ウェーベルンの精妙に絡み合う音が具現化され、そこに漂う孤独感や、衝動的な情熱の高まりが表現されていた、ということになるだろうか。要するにこの曲をよく捉えた演奏だった。

 2曲目はベートーヴェンの交響曲第4番。この曲を「二人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシャの乙女」(シューマン)と形容する人は、今はもういないかもしれないが、ともかくこの演奏はとてもそんな性格のものではなく、真正面からこの曲に取り組み、この曲の力強さを示す力演だった。

 わたしは東京シティ・フィルに備わったDNAのようなものを感じた。飯守泰次郎が長年の常任指揮者時代に培ったもので、それが東京シティ・フィルのDNAとなり、鈴木雅明もそれを尊重して最大限引き出しているように感じられた。

 3曲目はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。正直言って幾分食傷気味のこの曲が、鈴木雅明のお陰で驚くほど新鮮に聴こえた。冒頭の弦の囁きからして、音がリフレッシュされていた。続く金管、木管もまたしかり。第2楽章「対の遊び」でのファゴットをはじめとする木管各奏者の多少誇張した演奏も楽しかった。若い奏者たちの自由闊達な演奏が嬉しい。また、エキストラのようだが、トランペットの1番を吹いていた女性奏者はだれだろう。バリバリ吹くのではなく、そっとアクセントを添えるような吹き方が好ましかった。

 終演後、オーケストラから鈴木雅明へ送られた拍手は温かかった。今後とも定期的に振ってほしいものだ。
(2017.2.18.東京オペラシティ)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2017年02月18日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響の定期Cプロ。シベリウスのヴァイオリン協奏曲とショスタコーヴィチの交響曲第10番というプログラムは、来る2月28日から3月8日までのヨーロッパ公演に持って行く2種類のプログラムのうちの一つだ。

 シベリウスのヴァイオリン協奏曲でのソリストは、ヨーロッパ公演にも同行する諏訪内晶子<追記;ヨーロッパ公演は別の人でした。すみません>。冒頭、弦の小刻みに震える微かなトレモロに乗せて、独奏ヴァイオリンが第1主題を提示するときの演奏が、抑制が効いていて、わたしはたちまち諏訪内晶子ワールドに引き込まれた。

 第1楽章のコーダでテンポを上げる箇所では、諏訪内晶子が先に仕掛けて、オーケストラを先導するように感じられた。第2楽章、第3楽章でも諏訪内晶子の堂々としたヴィルトゥオーソぶりが強く印象に残る演奏が続いた。

 アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番からラルゴが演奏された。最初は(シベリウスを聴いた直後だったからだろうか)、リラックスした清新な演奏が、北欧の音楽のようにも感じられたが、聴き進むうちに、堂々とした構成と精神的に充実した内容を持つ演奏であることが分かった。

 次のショスタコーヴィチの交響曲第10番では、第1楽章の序奏の低弦の音型が、緊張感のある音で、しかも物々しくならずに、快適な流れを持って演奏され、直後のクラリネットの第1主題が、名演というに相応しい意味深い演奏で提示された。

 以下、厳しさがあり、かつ緊張感が途切れない演奏が続いた。パーヴォ・ヤルヴィらしい演奏。前回Aプロのシベリウスの交響曲第2番では、オーケストラにある程度任せているようなふしが感じられたが、今回はパーヴォの意図がより明確に出ていた。N響も渾身の演奏でそれに応えていた。

 先ほど触れたクラリネットをはじめとして、各所で木管のニュアンス豊かな名演を聴くことができた。さすがにN響の首席奏者たちだ。それと同時に、ショスタコーヴィチのオーケストレイションの冴えも感じた。木管楽器の使い方のうまさと鮮やかさでは、ショスタコーヴィチはモーツァルトに並ぶのではないだろうかと思った。

 第2楽章の狂乱の音楽での打楽器のうまさにも感心した。名手・植松氏のティンパニはいうまでもないが、竹島氏のスネア・ドラムの適切な音量と、音楽の流れにぴったり乗った演奏も見事だった。
(2017.2.17.NHKホール)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2017年02月13日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響の定期Aプロ。前半はパーヴォの祖国エストニアの作曲家の2曲。

 1曲目はアルヴォ・ペルト(1935‐)の「シルエット―ギュスターヴ・エッフェルへのオマージュ」(2009)。ペルトは西欧へ紹介された頃の輝きが失われているのではないかと、わたしなどは(失礼ながら)思っているが、さて、この曲はどうか‥。

 冒頭のヴィヴラフォンやタムタムの深い響きの中から、コントラバスが呻くように立ち上がってくる。オッと思ったが、しばらくしてワルツのリズムが出てきたときには拍子抜けした。シベリウスの「悲しきワルツ」のペルト流のパロデイまたは再解釈だろうかと思った。またそう思わないと、腑に落ちなかった。

 2曲目はエルッキ・スヴェン・トゥール(1959‐)の「アコーディオンと管弦楽のための「プロフェシー」」(2007)。連続して演奏される4楽章からなり演奏時間は約24分の立派なアコーディオン協奏曲だ。木管と金管は2管編成、弦は8‐7‐6‐5‐4、そして各種の打楽器が加わる。アコーディオンにはPAが使われたが、違和感はなかった。

 第1楽章は鋭く尖った(レーザー光線のような)音が飛び交う。第2楽章から第3楽章にかけては静かに沈潜した音楽。アコーディオンのモノローグが続き、そこに打楽器や木管が影のように忍び込む。第4楽章はノリのよいダンス音楽。音の鮮度のよさがこの作曲家の身上だろうかと思った。

 アコーディオン独奏はクセニア・シドロヴァというラトヴィアの奏者。抜群のスタイルと美貌とテクニックの持ち主だ。アンコールにエルネスト・レクオーナという人の「マラゲーニャ」が演奏された。スペイン情緒たっぷりの曲。アコーディオンの音が軽やかに飛び回る。アコーディオンのイメージを一新させるものがあった。

 プログラム後半はシベリウスの交響曲第2番。なぜかは分からないが、パーヴォ/N響の彫琢を究めた厳しい演奏を聴くことができず、もったりした重さが付きまとった。さすがに第4楽章の再現部からコーダにかけては高揚感が生まれたが、わたしにはそれで帳尻を合わせたような感じもした。

 今更ロマン的な演奏に逆戻りもできず、かといって(第3番以降とは違って)第2番で何をやればよいのか、今ひとつ方向がつかめない‥人気のある曲だからやるけれど、といった感じがする演奏だった。
(2017.2.12.NHKホール)
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南伊豆歩道

2017年02月12日 | 身辺雑記
 昨年11月下旬に伊豆の天城山で遭難事故を起こした。ヘリコプターが出動し、レスキュー隊に救助された。そのショックがさめやらない12月に、今度は膝を痛めた。12月と1月は(仕事で出張が続いたこともあって)山には行かなかった。2月に入って、やっと山に行く元気が出た。膝の具合がまだよくないので、伊豆半島の突端の「南伊豆歩道」を選んでみた。初めて行くところだが、ネーミングから想像して、海岸沿いの遊歩道ではないかと思った。

 コースタイムは約6時間。かなりロングコースだ。日帰りでは難しいので、下田に前泊した。翌朝、タクシーで仲木(なかぎ)という漁港に行き、「南伊豆歩道」のスタート地点を探した。しっかりした指導票があった。8時55分スタート。いきなり山道の上りになった。海岸沿いの遊歩道のイメージではなかった。

 空は快晴。眼下に見える海は真っ青。コースは樹林の中を通って行く。強風が吹いていたが、樹林が風よけになってくれた。遊歩道というよりも、低山ハイクだ。

 コースはいったん入間(いるま)という集落に下りた。シーンと静まり返った集落。車が1台出て行ったが、それ以外の物音はしなかった。

 再び山道へ。アップダウンを繰り返す。意外に大変なコースだ。膝が痛くなってきた。上りはよいが、下りが痛む。歩き方に工夫をして、膝の負担をできるだけ軽くするように努めた。次の吉田という集落が見えてきた。でも、そこまでが長かった。アップダウンが続いた。

 やっと吉田に着いた。風をよける場所を探して神社の境内に入り、パンとドライフルーツとお茶の昼食をとった。時間はよく覚えていないが、12時半を過ぎていたのではないかと思う。

 吉田からバス通りに出ることもできるのだが、もうひと頑張りして、「南伊豆歩道」のゴールの妻良(めら)の集落まで歩いてみることにした。山道に入ったら、山の中腹を巻く道になり、風が静かになったのでホッとした。そのうち稜線に出ると、風が強かった。海の向こうに荒々しい波勝崎の断崖が見えた。上掲↑はそのときの写真。

 妻良に着いたのは3時40分。下田行きのバスが来るのは4時8分なので、それまで(風が強くて寒いので)どうしようかと思っていたら、向かいのお店の人が声をかけてくれた。缶入りのお汁粉を買って、ストーブにあたりながら、バスを待った。
(2017.2.11.)
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沈黙―サイレンス―

2017年02月09日 | 映画
 遠藤周作の小説「沈黙」を読んだのはもう20年以上前だと思う。衝撃は大きかった。とくに宣教師ロドリゴが長崎に潜入してから捕えられるまでの前半部分が、イエスの受難と重ね合わせて描かれていることに驚き、作者の技巧と力量に圧倒された。

 でも、ほんとうに重要なのは後半部分だったかもしれないと、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙―サイレンス―」を観て思った。前半は、前史であって、後半、それも正確に言うと、ロドリゴと、イエスを売ったユダに重ね合わされているキチジローとが、各々の人生を終える終結部分にこそ、遠藤周作の思想(あるいはスコセッシ監督の解釈)が込められていると思った。

 終結部分になにが描かれているか。それをここに具体的に書くことは控えるが、まずキチジロー、最後にロドリゴの人生が終わるとき、イエスとユダとの関係にあった2人の距離は限りなく縮まる。2人は(最後には)そんなに違っていたわけではない。そこに一種の救いがあった。

 遠藤周作の小説にもこれは書かれていたのだろうか。恥ずかしながら、まったく記憶がない。たぶん読み落していたのだろう。でも、もしかすると、スコセッシ監督の独自の解釈だったかもしれない。遠藤周作の小説が手元にないので分からないが。

 イエスは殉教したが、ロドリゴは棄教した。では、ロドリゴは弱虫で卑怯か。またユダは、イエスが捕縛された後、自殺したが、キチジローはロドリゴを売った後も、ロドリゴに救いを求めた。キチジローは唾棄すべき人間か。

 殉教できる人、自殺できる人は、強い人だ。他の人はともかく、少なくともわたしはそんなに強くない。もっと弱い人間だ。でも、そんなわたしでも、なにかを秘めて生きることはできる。声に出しては言えない。行動に移すこともできない。でも、胸になにかを秘めていることはできる。それが遠藤周作の思想、あるいはスコセッシ監督が原作から引き出した思想だと思った。

 映画は大筋では原作を忠実になぞっている。細部を的確に押さえ、陰影があり、深みにも欠けていないのは、スコセッシ監督の読み込みの深さだろう。

 なお、松村禎三のオペラ「沈黙」があるが、あれは原作を簡略化し、一つのストーリーを抽出したものだ。その作り方はオペラとしては一般的で、かつ正しいとは思うが、小説とは別物だ。
(2017.2.7.TOHOシネマズ新宿)
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ベルファゴール

2017年02月06日 | 音楽
 東京オペラ・プロデュースによるレスピーギのオペラ「ベルファゴール」。悪魔ベルファゴールが人間の女性カンディダを好きになる。でも、カンディダには恋人バルドがいる。カンディダの父親ミロクレートは、金に目が眩んで、カンディダをベルファゴールと結婚させるが、最後にカンディダとバルドは結ばれる。

 ベルファゴールは北川辰彦、カンディダは大隈智佳子、バルドは内山信吾、ミロクレートは佐藤泰弘といずれ劣らぬ実力者がそろった声楽陣。指揮は当団で何度も指揮をしている時任康文。演出は馬場紀雄。当団のベストを尽くした布陣だ。

 プロローグは慎重に音を拾っているようなところがあって平板だった。テンポの遅さもその一因だったと思う。第1幕はコミカルな動きがあり、楽しめないことはなかったが、ベルファゴール役の北川辰彦の頑張りに頼っている感もあった。

 休憩後の第2幕そしてエピローグは、歌手もオーケストラも(東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団という臨時編成のオーケストラ。知っている名前も散見された)乗ってきて、気合の入った演奏が繰り広げられた。

 低予算を余儀なくされている団体なので、舞台装置にお金をかけられないことは十分承知しているが、それならいっそのこと、もっと抽象的な舞台装置にすることも考えられないだろうかと、素人なりに思ったが‥。なお照明は、時にけばけばしく、品のないことがあった。

 「ベルファゴール」(1921~22)は「ローマの噴水」(1915~16)と「ローマの松」(1924~25)の間に書かれた作品。「噴水」や「松」のような透明感あふれるオーケストレイションを聴くことができる。甘美な音楽はプッチーニの路線上にあるが、プッチーニより抑制が効いている点がレスピーギの個性だろう。

 レスピーギはもっと評価されていい作曲家だと思う。本作もその一つだが、レスピーギしか書けなかった音楽の世界を持っている。ローマ三部作だけでなく、その評価がもっと高まる日が来るかもしれない。

 東京オペラ・プロデュースの運営は厳しいようだ。松尾史子代表の「ごあいさつ」の一部を引用すると、「(前略)創設当時のメンバーが僅少になりつつある今、芸術文化に救いの手を差し伸べていただける新たなスポンサーが見つからない限り、上演を継続していく道筋が先細りしていく未来しか想像できなくなっております。」
(2017.2.5.新国立劇場中劇場)
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カンブルラン/読響

2017年02月01日 | 音楽
 カンブルラン指揮読響によるメシアンの大作「彼方の閃光」。今秋演奏会形式で上演予定のメシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」のための準備かと思ったが、けっしてそんなものではなく、はっきりした目的意識を持つ演奏だった。

 いうまでもなく「彼方の閃光」はメシアンが完成させた最後の大作だ。わたしは‘奥の院’的なイメージを持っていた。一切の無駄がない枯れた世界‥。だが、それはそうだが、カンブルラン/読響の演奏を聴くと、音は明るく、リズムはしなやかで、感性のみずみずしさが失われていない。それが新鮮だった。

 驚くほど解像度の高い演奏だ。全11楽章からなるこの曲の、どこをとっても焦点が合っている。曖昧さは皆無だ。指揮者もオーケストラも明快なイメージを共有している。ものすごく高いレベルの演奏。そういう演奏ができるところまでカンブルラン/読響は来たのだと感慨深い。

 佐野光司氏のプログラムノートに、次のようなくだりがあった。「(この作品は:引用者注)前衛の時代の、響きの鋭い対立や厳しい対照性を避けて、内省的な次元に入っている。」。わたしは共感した。メシアンのこの最後の大作の本質に触れていると思った。

 メシアンにかぎらず、他の作曲家でもそうだが(また例えば文学者でも同じだが)、若い頃は、いや、壮年期までは、鋭く対立し、あるいはくっきりとした対照的なイメージを積み上げ、その対比の中から自分の言わんとするものを描いていく(芸術ならそれでいいが、言論や政治では厄介な場合がある)。

 だが、晩年になると、そのようなレトリックを捨て、ほんとうに自分の言いたいことをポツンと言うようになる人がいる。そうなる人をわたしは信頼する。メシアンもその一人だ。

 本作は、前述のとおり全11楽章で、演奏時間は約75分の大作だが、その一箇所一箇所にメシアンの飾り気のない言葉が聴こえたように思う。

 最後の第11楽章は弦楽合奏の(途切れがちな)長いモノローグ。弦は16型の大編成だが、この楽章では、例えばヴィオラは半数だけ、チェロは2本だけ、コントラバスは沈黙するという具合に、著しく高音の比重が高い。その音の彼方にトライアングルの音が微かに聴こえる。細い糸のように長く引く音。打音は聴こえてこない。あの音はどうやって出していたのだろう。
(2017.1.31.サントリーホール)
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